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彼は白い鳩を見た!『クナッパーツブッシュ・音楽と政治』 奥波一秀(みすず書房) 

2006-09-23 16:28:21 | 書評
  たたかう指揮者  

 いかめしい題名であるが、私はこれをひとつの推理小説であるかのように読んだ。

 政治を端的にある対立軸を巡る差異の闘争として捉えた場合、様々な局面、様々なレベルが考えられるであろう。
 この書でも多様な対立軸が報告され、その都度、「政治」が実践されるのだが、20世紀を彩るもっとも大きなそれは、例えば、ナチズム、スターリニズム、(あるいはわが軍国主義時代を加えても良いかも知れない)を巡るものではなかろうか。それらをおおざっぱに、「革命と戦争」とくくってもよいかも知れない。

 書の題名になっているハンス・クナッパーツブッシュ(1888~1965)は、ワーグナーを得意としたドイツの指揮者であり、とりわけワーグナーの最後のオペラである(舞台神聖祝祭劇)『パルジファル』をこよなく愛した。
 そして、彼が指揮者として活躍した、1910年代の前半から、65年というのは、まさに革命と戦争の時代だったのである。

       

 とすると、ここでのもっとも大きな政治の局面は、ナチズムとの関わりということになろう。ナチ時代のドイツで、ワグネリアンとくれば、既にしてあるイメージが彷彿とする。
 だが、事態はそれほど単純ではない。 

 冒頭に、「推理小説であるかのように」と述べたが、優れた推理小説が、犯罪が行われ、その犯人を言い当てるというにとどまらないと同様、この書の場合にも、犯罪は行われたのかどうか、その動機は、いかにして行われ(あるいは行われなかった)のか、並み居る探偵たちはそれをどう判断したかを含めて、様々な史料を駆使した推理が進行する。

 また、ここでの政治は、ナチや、対ユダヤといったマクロなレベルにとどまらず、指揮者同士の関係、劇場や演出家との対立、とりわけ、批評家との軋轢といったレベルをも含んだものとして、極めて重層的に展開される。

 本書は、二部構成になっていて、クナッパーツブッシュ(以下、クナと省略。現実に彼はそう呼ばれていた)のミュンヘンのバイエルン州立劇場音楽総監督就任を持って区分されている。
 
   第一部 「巨匠(マエストロ)」への道
   第二部  政治と音楽

 著者は序文で、「政治と音楽の問題事例として本書を手に取られた読者には、第二部から読まれることをおすすめする」と述べているが、それに敢えて抗し、私はこの一部から読まれることを「おすすめする」
 
 なぜなら、この第一部においてこそ、「犯人」と目されかねないクナの経歴が、どのような人間関係の中で、それらにどう対処しながら経緯したのかが詳細に示されているからである。それにより、私たちは、彼の人物像としてのある類型と、そしてそれとは全く矛盾するようだが、彼の単独性のようなものを知ることが出来るからである。

 また、ここを読まないと見逃してしまう面白いエピソードが結構あるのだ。
 例えば、後にブレヒトの『三文オペラ』に曲を付けて名をなすクルト・ヴァイルとクナとの関係、あるいは、演奏会場で、事前に自分に批判的である批評家に「出て行け」という結構長い演説をぶつクナ。

 演奏会で、指揮者が曲を解説するというのは聞いたことがあるが、こんなエキセントリックな演説は前代未聞であろう。
 これまでわたしの聞いた指揮者の演説で(録音だが)、バーンスタインがピアニストのグレン・グールドと協演した際、聴衆に向かって、「これから演奏する曲は、グールド氏の解釈によるものであり、私の解釈ではありません」といったというものがあり、それがもっともドラマティックなものであった。 

 ワーグナーの?あるいはヒトラーの?街・ミュンヘン 


 さてこの書の第二部は、クナがワーグナーの街、ミュンヘンに来るところから始まる。

 この街が、「ワーグナーの街」と呼ばれるのは、ワーグナーがバイロイトに自己の確固とした基盤を持つまで、この地の王、ルードヴィヒ2世の庇護を受けながら活動したからであろう。ミュンヘン郊外にルードヴィヒ2世が建てたノイシュバンシュタイン城には、この若き王がワーグナーのためにしつらえた劇場空間がある。
 
    


 私はそこに立ったことがあるが、この空間で、ワーグナーが演奏をすることはついになかった。こんなことを書きながら、私はルキーノ・ヴィスコンティの映画、『ルードヴィヒ/神々の黄昏』を思い出している。狂気との狭間にあったといわれるこの若き王のワーグナーへのナイーヴな思い入れ・・。

 しかし、ミュンヘンは、「ワーグナーの街」であると同時に「ヒトラーの街」でもあった。いわゆる「ミュンヘン一揆」といわれるクーデター未遂によってヒトラーはデビューするのである。その罪による2年の幽閉の後、彼は新生ドイツのスターとして公認の地位を得る。

 そうしたミュンヘンで、ノンポリ(非政治的)でいられるわけがない。彼の就任からして、既に前任者のブルーノ・ヴァルターを押し出すという力学に依っていたのだ。しかも、そのヴァルターがユダヤ人であるとしたら、実際にはその交代劇は平穏であったとしても、クナ(アーリア民族)による陰謀説がつきまとうのは避けがたいところであった。 

 加えて、音楽は趣味判断の世界である。したがって、ユダヤ人であろうがなかろうが(ヴァルターはユダヤ人であったが、同時にドイツ・ナショナリストであった)、その音楽評価の問題は残る。事実、ヴァルター派と目される人達は、クナの音楽を認めようとはしなかった。かくしてクナは、またしても批評家とのトラブルに巻き込まれ、ついには裁判沙汰にまで至る。

 しかし、クナを待ち受けていたものはそればかりではなかった。国会議事堂炎上事件などを契機に一気に権力に登り詰めたヒトラーに彼は疎まれてしまうのだ。ヒトラーは、クレーメンス・クラウスのような貴族趣味を評価し、いささかいかつい感じの(実際に長身であった)クナを敬遠したようである。

 しかし、この時期、クナは迫害の被害者であったのみではない。小説家トーマス・マンの追い落としにはかなり重要な、というより主導的な役割を果たしている。
 しかし、それもつかの間、ハーグでのクナ自身によるナチを揶揄したような発言が決定的になり、彼はミュンヘンを追われ、その活動の拠点をウィーンに移すのだが、そのウィーンを首都とするオーストリアがドイツに併合されるに及んで、彼の自由に活動できるエリアは全くなくなる。
 
 その後の彼に出来ることは、ベルリンフィルと組んで、ナチのプロパガンダ演奏のツアーに参加するしかなかったようである。
 やがて、戦局は逼迫し、演奏活動すら不可能になり、敗戦を迎える。

 この間、彼が好むと好まざるとに関わらず、当面せざるをえなかった「政治」的軋轢の多重さを整理しておこう。

1)日増しに強くなるユダヤ対ゲルマンの闘争。ユダヤ殲滅へ。
2)トーマスマン、シューペグラーなど解明派との闘い。
3)音楽をそれ自身として評価しえない評論家との闘い。
4)そして、何よりも大きい、ドイツ民族派内部における闘争。とりわけ、クナに一貫して否定的であったヒトラーとの軋轢。

 このうち、1)と4)のユダヤやナチに対するクナの対峙は、著者が集めた史料で見る限り、それぞれアンビバレンツなものを含んでいて、それが、敗戦後のナチ狩りの際、クナのへの評価を複雑にすることとなった。

 
  ブラック OR ホワイト? 

  戦後のクナの活動再開は意外と早く、1945年7月にヨッフムがミュンヘン・フィルを振ったのに続き、8月にはバイエルン州立管弦楽団とともに演奏をしている。
 この両者に共通し、戦後を象徴するのは(というか幾分見え透いているのだが)、その選曲のうちに、ユダヤ人の作曲家、メンデルスゾーンの作品を取り上げていることである(この政治!)。

 ちなみに、周知の彼の曲「真夏の夜の夢」に関し、ナチは、この作曲家とその作品の記憶を抹殺すべく同名の曲を募り、それに応じて実に44曲もが作られたが、そのどれもがメンデルスゾーンを超えることは出来なかったという。

 しかし、クナはそれほどすんなり復帰を果たせたわけではなかった。
 1945年の秋にはさらなる非ナチ化が徹底されるところとなり、クナもまた、そのブラックリストに名を連ねてしまうのだ。

 彼の罪状は、ナチ宣伝省の要請によるベルリンフィルとのプロパガンダのための公演旅行、そして、ユダヤへの差別発言と抑圧行為の疑いであった。
 これらは、随所で著者が実証しているように、まごうことなき事実である。従って、その面だけで見れば彼は明らかに有罪である。

 反面、彼には弁護さるべき面もあった。
 それは彼自身が強調しているように(むろん、強調しすぎなのだが)、ユダヤ人に対する迫害が強まりつつあった時点でも、ユダヤ人との付き合いがあり、ときとして彼らを擁護したこともあるというのだ。

 さらに決定的なのは、彼がナチの党員ではなかったこと、そして既に見たように、ヒトラーに疎まれ、ミュンヘンから追放されたことがあるという事実である。
 彼自身は、それらを例として、自身を「反ナチの闘士」であったかのように弁明しているが、それは言い過ぎというものだろう。

 前回、私が整理したように、ユダヤ問題やナチの統制に対し、彼がアンビバレンツな面を持っていたということは事実で、それらが功を奏して、二度目の復帰を果たすのは一年半後の1947年1月のことであった。
 その復帰のコンサートは、熱烈な聴衆の歓迎によって満たされたというが、著者が冷静に見ているように、音楽家としてのクナの復帰を祝うと同時に、敗戦により鬱積していた民族的エネルギーの噴出という面もあったのだろう。

 その後の彼は、順調に活躍の場を広げ、ついには、若年の頃、ハンス・リヒターの助手として潜り込んだバイロイトの、常連の指揮者にまで登り詰める。そして、彼がその学位論文にまで取り上げた『パルジファル』を、ほとんど毎回演奏するに至るのだ。


       
        1951年のクナの演奏による『パルジファル』のジャケット



 しかし、これでもって彼の闘争が終わったわけではなかった。
 バイロイトにも新しい波が押し寄せ、ワーグナーの作品への新しい解釈や演出、装置のモダン化は避けられぬところであった。
 しかしそれは、「クナのワーグナー」ではなかった。そしてついに、1952年の出演をもってその関係は決裂し、翌53年にはクナは出演を拒否する(替わってクレーメンス・クラウスが指揮)。


 クナは見た!白い鳩を!

 このクラウスの急死が、再びクナをバイロイトへと招くこととなる。その折り、クナの出した条件は、『パルジファル』の終幕に主人公の頭上に白い鳩が舞い降りるシーンを、ワーグナーのト書きに忠実の演じるということであった。しかし、これは全体の演出を壊すものであり、演出者(ヴィーラント)としても譲れぬところであった。
 
 そこで、ヴィーラントは一計を案じ、鳩は降ろすものの、オーケストラピットからは見えるが、客席からは見えない高さにとどめたのであった。
 そんなことは知らないクナは、大いに満足し、客席で観てい鳩など見えなかったという夫人に、「女というやつは!こまごまと何でも気にするくせに、いちばん大事なことはいつも見過ごすわい」といったというのだ。

 私はこのくだりを読んで、滑稽であると同時に、なぜか目頭が熱くなるのを覚えた。このエピソードは、彼が見ていたものと、その他の者たちが見ていたものとの乖離を示して象徴的ではあるまいか。
 むろんこうしたことは、誰にでも起こりうることである。しかし、これがある種のせっぱ詰まった状況の中でおこった場合、それは当人の想像を越えた悲喜劇として現れざるをえない。そしてそれが、戦前戦中を通じてクナが体験してきたところではなかっただろうか。

  彼の音楽への情熱、ワーグナーに対する傾倒、とりわけ『ルジファル』への固執は、それ自身は政治的でも何でもない。しかし、それがひとたび、現実の状況に投げ込まれるやいなや、様々なレベルの「政治」を介してしか、彼の表現は成立しない。そんな中で彼は、意識するとせざるとに関わらず「政治的」であらざるをえなかったのではないか。
 彼が見ていた「白い鳩」を、敢えて隠したり、見ようとしない者たちとの闘い・・。

 『パルジファル』は、「同情によって知を得る清らかな愚者の物語」だという。そしてその終幕は、「救済者に救済を!」という謎めいた合唱によって締めくくられるているという。「救済者」が誰で、その救済者がなぜ、どのように救済さるべきなのだろう。

 クナの学位論文が、『パルジファル』に関わりながら、その関心が主人公のパルジファルではなく、むしろ、「不幸な呪い」を背負った「永遠のユダヤ人」クンドリーにあったらしいということは、興味をひく事実だ。その「浄化と救済」を際だたせるためにも、クナにとっては白い鳩が不可欠だったのであろう。

 要するに、彼が見据えたこの白い鳩こそ、彼が否応なしに置かれた「政治」を越え出ることの象徴であったのかも知れない。しかし、残念ながらその鳩は、彼にしか見えなかったのである。


          
 

 <追記> これは書評というより、この書を読んで触発されたものを勝手に書き綴ったものである。だからこれは、この書を単になぞったに過ぎないといえる。
 第一、私は、ここに述べられている クナッパーツブッシュについて、名前だけは知っていたが、それと意識して聴いたことがないのである。
 加えていえば、私はワーグナーがあまり好きではない。彼のいくぶんパラノイックな音楽(そうでないものもあるが)よりも、どちらかというと、モーツアルトのスキゾフレーニーな奔放さを好む。

 だから、モーツアルト・ワーグナー音楽祭なるものの存在すら信じられないのだ。この書の中でも、指揮者のカール・ベームや評論家のアインシュタイン(かの物理学者の弟)が、「クナはモーツアルトは下手だ」といっているのを読んで、むべなるかなとほくそ笑んだりしているのだ。

 しかし、ここに書かれている 「政治と音楽」という問題には惹かれるものがある。もっと対象を広げるならば、政治と芸術一般、あるいは思想そのものをも包摂する問題となる。
 ナチとの関連でいえば、クナとほぼ同時代を生き、総統から金の指揮棒を貰ったというフルトヴェングラー、そして音楽家ではないが、やはり同じ時代を生きた哲学者ハイデガーを想起せざるをえない。また、場所をかつてのソ連に移せば、やはり同時代を生きた ショスタコーヴィチにも思いを馳せないわけにゆかない。
 
 あるいは、かなり次元が異なるが、アレントが語る 『エルサレムのアイヒマン』や、その映画版としての 『スペシャリスト』をも想起してしまうのだ。
 また、本邦に目をこらせば、戦前のいわゆる 転向問題や、戦後の 思想転換(西田哲学の若手がスターリニズム哲学に走ったりした)をも想起せざるをえない。

 要するに人は、政治的な状況の中で、何ものであり得るのか、あるいはあり得ないのかの問題である。もっと枠を広げれば、必然の中での自由意志といったアポリアとの対面でもあるが、ここまで来ると抽象度の高い議論になってしまう。

 なお、この書で示されているクナの所業は、そうしたマクロな政治状況との関連にとどまらず、クナ自身の実践する「政治」としても読むことが出来る。
 権力が遍在(フーコー)しているとしたら、 彼の表現への強い意志は、それら様々なレベルでの権力との絡みとして、「政治」的たらざるをえない。

 書評ではないと断った上で、なおかつ注文を付けるとすれば、詳細な追跡調査とそれについての「諸探偵」の推理は紹介されているが、それらをさらに総括した 著者自身の推理、あるいは見解があっても良かったのではないかと思う。これは無い物ねだりではない。

 なぜなら、最後に正直に白状するが、ここまで私が延々と(質的な浅薄さはさておき)述べてきたのは、この著者が、実は、 このネット上で知り合った人だからである。
 むろん面識もなく、最近まで本名も知らなかったのだが、ひょんなことで、この著作があることを知り、読むに至った次第である。

 このネット上での著者の書き込みは、常に私にインパクトを与えるものであり、そうであればこそ、上に述べたような著者への今一歩突っ込んだ注文も出てくることになる。いわば、著者の能力を知るが故の注文である。
 しかし、この著作と現在とでは、数年の隔たりがある。その隔たりの間に著者が学んだものが、さらに強烈なインパクトを伴って著されることを待望するのだが、既にその片鱗が小論として発表され始めているようだ。

 なお、この書は、私がこねくり回したような読みではなく、もっとサラッと、20世紀前半のドイツの音楽事情を伝えるものとして読んでも十分楽しい。
 例えば、1937年のザルツブルグ音楽祭に登場するクナをはじめ、ヴァルター、フルトヴェングラー、トスカニーニなどという顔ぶれを想起するだけで、身震いをする音楽ファンがいるに違いない。

         <長々とお疲れ様でした。THE END
 
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