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五嶋 龍 リサイタル @岐阜サラマンカホール

2018-07-31 00:34:04 | 音楽を聴く
 岐阜サラマンカホールでの五嶋龍のヴァイオリンリサイタルに行ってきました。
 そのプログラムの形式が(構成ではなく)ちょっと変わっているのです。
 普通は、作曲者と曲名があり、その簡単な説明があるのですが、そんなものは一切なく、ただ作曲者と曲名がぽんと書かれているのみなのです。

          

 曲目は、「シューマン ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第2番ニ短調」「イ・サンユン ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第1番(無調)」「ドビュッシー ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ト短調」と、真ん中のものを除いては比較的演奏機会が多いものですが、先程述べたように、曲についての説明は一切なく、その代わりに、五嶋龍の散文が載せられていて、三人にさらっと触れたかと思うと、以下のようないくぶん挑発的な叙述が続きます。
 
 「くしくも今回のプログラムには、抗えない異次元の悲哀と叫びが渦巻く苦悩がある。それらが彼らの音楽の原点であろうが、誰がそんなものを味わってみたいか」
 そして次のように、続くのです。
 「とはいえ、聴き様によると、いや弾き様によると、同じダイナミックで、同じテンポで弾いても希望に繋がる音になる。そう思えるのは僕だけか?」

          
 
 ようするに彼は、シューマンの、イ・サンユンの、あるいはドビュッシーの曲に自らの解釈を加えてそれを表現するという一般的な次元を超えて、彼らの曲を「題材」にしながら、そのなかから自分だけにしか引き出せないものを引き出してみせようという自負を語っているのです。
 そこには、いくぶん尊大かもしれない自信が溢れているようです。

 で、実際の演奏はというと、その言葉に違わず、三人の作曲者のなかにあって五嶋自身にこだまするような響きを力強く引き出していたように思います。
 「シューマン節」は一層その輝きと艶を増し、イ・サンユンの現代音楽はロマン派のそれのようにスムーズに流れ、ドビュッシーの刹那的な身の翻しをも的確に表現していたように思いました。

          

 それに比べるとアンコールの最初の二曲は、彼にとっては鼻歌のようなもので、いくぶん物足りなく思っていたのですが、その三曲目の「サン=サーンス 序奏とロンド・カプリチオーソ」は、そのロマ的な情熱と血の騒ぎのようなものを存分に聴かせてくれて、その曲のボリュームと合わせて、まるまるプログラム一曲分を得したような気分で、観衆も最高潮に盛りあがっていました。

 ちょっと気取った自負のようなものが散見できたリサイタルでしたが、その気取りが彼自身の表現の質と幅を後押ししていたかのようで、終わってみると結構爽やかなコンサートでした。

 なお、ピアノはマイケル・ドゥセク。五嶋の演奏とうまくフィットしていたように思いました。



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