どういうわけかロンドンにいます。
ヒースロー空港からラッセルスクェアでチューブを降りて歩いていたら、とあるカフェの前で明らかに知っている日本人とすれ違いました。神経質そうな表情で、何やら呟くようにしながら周りを見渡すでもなくうつろな眼差しで通り過ぎてゆくのです。
え~と、え~と、あれは誰だっけ。あ、そうだ、夏目漱石だ。と振り返ってみると、彼はカフェの角を曲がり姿を消そうとしています。よほど追いかけて言葉を交わそうかと思ったのですが、そんなことをしたら時空のねじれのなかに紛れ込んで面倒なことになりそうなのでやめておきました。
気持ちの上で満たされず、かなりずたずたで精神上での崩壊寸前を味わったという彼の留学時代・・・・それは彼の最も悲惨な時代ともいえるのですが、それがあって、その後の漱石が可能になったともいえるのでしょう。
そんなことをことを考えながら歩いていると、ふと違和感を感じました。ある気配が、ほぼ等距離で私とともに移動しているのです。そう、誰かにつけられているのです。生まれて初めてのロンドン、しかも今日着いたばかりでひとに尾行される覚えはまったくありません。
大英博物館とは逆の方向へ歩いていたのですが、とある角で急に曲がり、ちょっと先にあった建物のイントロ部分のくぼみに身を隠しました。
果たせるかな、その直後、一人の男が慌てて曲がってきて、しかも人影が見えないので困惑した表情で立ちつくしています。見たところ紳士風で悪人面でもなく、私に危害を加える意図もなさそうです。
そのくぼみから出て彼の前に立ち、「私になにかご用ですか?」と尋ねました。
男は驚いた風で、私をなだめるように両手のひらをかざしながら、
「いや、その~、つまりこれは・・・・」
と、懸命な言い訳の表情です。
その時、その背後から、快活そうな男の声がひびいたのでした。
「ワトソン君、相変わらず君は尾行が下手だねぇ」
彼は私の方を見ながら言葉を続けました。
「いやぁ、失敬失敬。驚かせてすまなかった。僕はシャーロック・ホームズといって、彼は友人のワトソン君だ。君の後などつけて申し訳けなかったが、決して悪気はなかったんだ。許してくれたまえ」
彼の説明は続きます。
「僕たちはね、きみがさっき通りかかったカフェでお茶をしてたんだが、僕が君を見て、『あ、日本人だ』と言ったらワトソン君が『そんなこと分かるもんか。最近はチャイニーズやコーリアン、それに東アジアからの旅行者も多いから』というんで、『それじゃ、10ポンド賭けよう』ということになってね、それでワトスン君がきみが日本人ではない証拠を掴むといってつけ始めたというわけなんだ」
「さ、ワトソン君、10ポンドは僕のものだ」
「どうして君はこの人が日本人だとわかったのだい」
「それはね、この人があのカフェの前ですれ違ったMr.夏目を興味深そうに見つめていたからだよ」
ここで私が驚いて尋ねました。
「ホームズさん、あなたはどうして夏目漱石を知っているのですか。彼がここへ留学していた頃は世界はおろか日本でも無名の頃ですよね」
「ああ、それはね、実は彼がいる下宿屋の女主人からね、『うちにいる日本人はなんか陰気で引きこもりがちなんだがテロリストかなんかではないか』とその身辺調査を依頼されたからなんだよ。調べたところ、かなり神経衰弱気味だったが、日本とヨーロッパとの関連でその行く末のこと、日本的伝統とヨーロッパの価値観の相克のなかで生じるであろういろいろな問題、そして何よりも彼自身のアイディンティティの問題などなどを極めて真面目に考えていた結果だと判断した。だから、決して下宿に迷惑はかけないと思うと答えておいたんだ」
「おいおい、そんな話、少しも聞いていないぜ」
と、ワトソン氏が口をとがらせました。
「いやいや、とても君の手をわずらわすほどのことはないと思って私一人で調べたのだ」
「そんなハンディがあるんだったらこの賭けは無効だ」
「いやいや、賭けははきみがいい出したことだし、この人がMr.夏目に興味を示したのを見逃さなかったのも僕の慧眼によるものだから・・・・」
二人の話はまだまだ続くようでしたが、私は今宵の宿がとってあるユーストン駅の方に向かって歩きだすのでした。ただでさえフライトが遅れたことで、チェックインを急いでいたのです。
それにしても、漱石はちゃんと自分の下宿へ帰っただろうかなどと勝手に心配しながら。
ヒースロー空港からラッセルスクェアでチューブを降りて歩いていたら、とあるカフェの前で明らかに知っている日本人とすれ違いました。神経質そうな表情で、何やら呟くようにしながら周りを見渡すでもなくうつろな眼差しで通り過ぎてゆくのです。
え~と、え~と、あれは誰だっけ。あ、そうだ、夏目漱石だ。と振り返ってみると、彼はカフェの角を曲がり姿を消そうとしています。よほど追いかけて言葉を交わそうかと思ったのですが、そんなことをしたら時空のねじれのなかに紛れ込んで面倒なことになりそうなのでやめておきました。
気持ちの上で満たされず、かなりずたずたで精神上での崩壊寸前を味わったという彼の留学時代・・・・それは彼の最も悲惨な時代ともいえるのですが、それがあって、その後の漱石が可能になったともいえるのでしょう。
そんなことをことを考えながら歩いていると、ふと違和感を感じました。ある気配が、ほぼ等距離で私とともに移動しているのです。そう、誰かにつけられているのです。生まれて初めてのロンドン、しかも今日着いたばかりでひとに尾行される覚えはまったくありません。
大英博物館とは逆の方向へ歩いていたのですが、とある角で急に曲がり、ちょっと先にあった建物のイントロ部分のくぼみに身を隠しました。
果たせるかな、その直後、一人の男が慌てて曲がってきて、しかも人影が見えないので困惑した表情で立ちつくしています。見たところ紳士風で悪人面でもなく、私に危害を加える意図もなさそうです。
そのくぼみから出て彼の前に立ち、「私になにかご用ですか?」と尋ねました。
男は驚いた風で、私をなだめるように両手のひらをかざしながら、
「いや、その~、つまりこれは・・・・」
と、懸命な言い訳の表情です。
その時、その背後から、快活そうな男の声がひびいたのでした。
「ワトソン君、相変わらず君は尾行が下手だねぇ」
彼は私の方を見ながら言葉を続けました。
「いやぁ、失敬失敬。驚かせてすまなかった。僕はシャーロック・ホームズといって、彼は友人のワトソン君だ。君の後などつけて申し訳けなかったが、決して悪気はなかったんだ。許してくれたまえ」
彼の説明は続きます。
「僕たちはね、きみがさっき通りかかったカフェでお茶をしてたんだが、僕が君を見て、『あ、日本人だ』と言ったらワトソン君が『そんなこと分かるもんか。最近はチャイニーズやコーリアン、それに東アジアからの旅行者も多いから』というんで、『それじゃ、10ポンド賭けよう』ということになってね、それでワトスン君がきみが日本人ではない証拠を掴むといってつけ始めたというわけなんだ」
「さ、ワトソン君、10ポンドは僕のものだ」
「どうして君はこの人が日本人だとわかったのだい」
「それはね、この人があのカフェの前ですれ違ったMr.夏目を興味深そうに見つめていたからだよ」
ここで私が驚いて尋ねました。
「ホームズさん、あなたはどうして夏目漱石を知っているのですか。彼がここへ留学していた頃は世界はおろか日本でも無名の頃ですよね」
「ああ、それはね、実は彼がいる下宿屋の女主人からね、『うちにいる日本人はなんか陰気で引きこもりがちなんだがテロリストかなんかではないか』とその身辺調査を依頼されたからなんだよ。調べたところ、かなり神経衰弱気味だったが、日本とヨーロッパとの関連でその行く末のこと、日本的伝統とヨーロッパの価値観の相克のなかで生じるであろういろいろな問題、そして何よりも彼自身のアイディンティティの問題などなどを極めて真面目に考えていた結果だと判断した。だから、決して下宿に迷惑はかけないと思うと答えておいたんだ」
「おいおい、そんな話、少しも聞いていないぜ」
と、ワトソン氏が口をとがらせました。
「いやいや、とても君の手をわずらわすほどのことはないと思って私一人で調べたのだ」
「そんなハンディがあるんだったらこの賭けは無効だ」
「いやいや、賭けははきみがいい出したことだし、この人がMr.夏目に興味を示したのを見逃さなかったのも僕の慧眼によるものだから・・・・」
二人の話はまだまだ続くようでしたが、私は今宵の宿がとってあるユーストン駅の方に向かって歩きだすのでした。ただでさえフライトが遅れたことで、チェックインを急いでいたのです。
それにしても、漱石はちゃんと自分の下宿へ帰っただろうかなどと勝手に心配しながら。
幻想の回廊に入り込み、さ迷い歩いているうちに、
幻想でも現実でも、どっちでもよくなってしまった感じですね。
中学生の頃、読書の喜びを知ったのは、わけのわからないままの夏目漱石や芥川龍之介、そして洋物では、一連のシャーロック・ホームズシリーズでした。
彼らが、この度の旅で私の前に現れた次第です。