六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

柳ヶ瀬に吹く風と「炭掘る仲間」

2009-09-14 01:39:09 | 写真とおしゃべり
 これまでも書いてきましたが、高校時代の同窓生との半年に一度の勉強会を行いました。午後3時の集合で、一泊します。参加者は7名でした。
 勉強会といっても所詮、飲み会だろうというむきもあろうかと思いますが、ところがどっこい、きわめて真面目な論争の場なのです。
 今回のレポーターは私で、ここで書いてきたような時事問題を丸投げにしたようなものですが、それと絡んで、今回の政権交代への意見が噴出しました。

 

 その詳細は割愛しますが、この勉強会の会場になった西柳ヶ瀬のホテルは、いわゆる柳ヶ瀬通六丁目に位置し、東の一丁目から始まる柳ヶ瀬通の西のどん詰まりになります。
 そしてものの本によると、この辺りが柳ヶ瀬という地名の発祥だとのことです。
 そのせいもあって、このホテルの周辺には立派な柳の木があり、折りからの秋風に悠揚とたなびいていました。

     

 ところで、最後の写真は、その西の地点から柳ヶ瀬通りを写したものです。
 平日の午後三時とはいえ、この閑散とした有様にはまことに哀れをもよすものがあります。
 全国各地にあるシャッター通りと化した商店街、そこに笑顔が戻る日があるのでしょうか。

 

 同級生の一人が、一九六〇年の三井三池の闘争をNHKが編集したドキュメンタリーのヴィデオをもってきたので、皆で観ました。
 猫の子よりも温和しい今の労組に比べて、昔日の感を新たにしました。
 暴力団や右翼の襲撃で、一人の労働者が命を落とすというまさに死を賭しての闘争だったわけです。
 
 ただし、いわゆる「向坂教室」で、「この闘争は総資本と総労働の戦いであり、これを勝ち抜いて社会主義革命を」とアジる場面では、労組の運動と革命との短絡にいささかの違和感を覚えました。
 その後見た他の記録映画などでも、この「向坂教室」の評価は結構割れていて厳しいものがあるようです。
 
 「みんな~仲間だ~、炭~掘る仲間~」という炭労の歌を久しぶりに思い出しました。
 この時代、六〇年安保とも重なって世の中は騒然としていたのですが、柳ヶ瀬をはじめ、全国の繁華街は今よりも遙かに活気づいていたことは確かです。
 
 いろいろ考えさせられる勉強会、いろいろ問題提起をしてくれる仲間たちです。



コメント (3)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 雲は「うん」とある・・・言... | トップ | 秋は自転車 実りが見える »
最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (さんこ)
2009-09-14 15:35:32
あいち国際女性映画祭で、かっての闘争の時代と、現在の廃坑跡から吹き上げる風の音を、描いていた
ドキュメンタリー映画を見ました。六文銭さんも
観客席にいて、感想を述べておられましたね。
あの時も。「みんなーー仲間だ‐ー炭掘る仲間ーー」と、かつての闘士が低く口ずさむ場面がありましたね。第一組合、第二組合の葛藤の中で、子ども達は、複雑な思いで遊んだのでしょうね。

 あの頃、私は学生でした。考えなしの、甘いひよっこでした。アルバイトは勿論していましたが。
返信する
Unknown (冠山)
2009-09-14 16:58:51
忘れてならないけど、凡人はうろうろするばかり。昔、全国的に同名の市町村の交流がさかんなことがありました。わが北方町も、北方サミットというのでぼくも九州まで出かけました。現地についてはっとおどろきました。そこは、かつて「敵よりも一日ながく」がんばるぞと「総労働」が家族ぐるみの闘争を組んだ杵島炭坑の地だったのです。当時とはすっかり面変わりして炭坑の痕跡はなかったでしたが、ぼくはなんの心構えもなく、友好都市なぞと訪れた自分が恥ずかしくなりました。ぼくは、訪れるべき場所、尋ねるべきことがあったはずでした。今でも時折ふっと恥ずかしく思い出しています。柳ケ瀬通りは今閑散としていますが、かつて北海道新得機関区を職場離脱した国鉄労働者が下駄履きで闊歩した日がありました。岐阜の街はにぎやかだなって言いながら。
返信する
Unknown (六文錢)
2009-09-14 23:31:54
>さんこさん 
 名古屋からも私の友人たちが支援に行きました。
 ちょうど、会社の雇ったスト破りのプロ集団とのあいだに激しい肉弾戦があった折りでした。
 彼らが帰ってくるのを名古屋駅に出迎えた私は、そのほとんどが頭に包帯を巻くなどの負傷をしているのを目撃し、慄然としたのを覚えています。
 安保と炭労を乗り切ることにより、日本の支配層は所得倍増を掲げた高度成長に乗り出すことが出来たのだと今さらながら思います。

>冠山さん
 私も家族旅行で能登半島を訪れた折り、「内灘海岸」にさしかかり、「あ、これがあの内灘闘争の現場なのか」と下司の後知恵で気づいたことがあります。
 米軍射撃場として内灘海岸を接収することへの反対運動が起こった1952(昭和27)年当時は、私はまだ中学生でしたが、大学へ入った折りには、砂川闘争などと並んで学生も関与した大衆闘争の伝統に残るものとして語り継がれていました。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。