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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

はがきをめぐる幾つかのことども 付:軍事郵便

2016-12-27 17:47:42 | 想い出を掘り起こす
  来年6月からはがきが62円に値上げされることをめぐって、あるSNS で、「はがきがいくらの時から知っているか」というテーマの交流があった。歳がバレる話ではある。
 ちなみに私は、1944(昭和19)年の「三銭」、45(昭20)年の「五銭」の頃から知っいる。

 同時にちょうどその頃、料金が全く書かれていないはがきが存在したことはもはや知る人も少ないだろう。
 それは当時、戦地と残された家族とをつなぐ唯一の絆、軍事郵便に用いられたはがきであり、これらは軍から兵士に支給されたものだという。

              
 ここに載せたのはいずれも満州に派遣されていた亡父が、当時5歳だった私宛にくれたものだが、よく見ると、切手に相当する部分に「軍事郵便」とだけそっけなく書かれたものと、鉄兜の上に白鳩が止まっているのと2種類あることがわかる。いずれも料金は書かれていない。

              
 ところで、この2つのデザインの違いが何を示しているかおわかりであろうか。観察眼に優れた方はお見通しだろうが、そっけなく書かれた方は絵葉書であり、鉄兜の方は普通はがきなのだ。
 この2番目に載せた絵葉書の裏面が3番目の写真の桜に鉄兜という絵柄で、3枚ほど残っている絵葉書の内、当時の私が一番気に入って大切にしていたものである。
 なお、これを書いた父は、その一年後にはソ連軍によって抑留され、ラーゲリでの労働に従事していたことになる。

           
 これらの軍事郵便、ほかにも歴史を物語る要素がある。
 カタカナで書かれているが、当時の学校教育はまずカタカナを習うことから始まったせいだ。もっとも、私はまだ就学前だったが、カタカナはもちろん、簡単な漢字も読むことができた。
 就学といえば、文中に、「八ツニナッタラガッコウヘ」とあるが、当時は人の歳を数え年でいうのが一般だったからである。

 さて、軍事郵便を離れるが、つい最近、はがきをめぐる別の歴史と対面することになった。
 亡くなった連れ合いが遺した日記などを読んでいたら、まだ知り合ったばかりの1958(昭33)年頃、デートなどの打ち合わせのために使ったのがもっぱらはがきだったという事実が出てきた。今なら、LINE か何かで連絡するところだが、当時は、もちろん携帯もスマホもなかったし、固定電話すらない家がいっぱいあった。だから、時間がかかってもはがきが一番かんたんで確実な連絡手段だった。
 そういえば、いつもはがきを持ち歩いて、駅の待合室や学食など、所を選ばずはがきを書いた記憶がある。
 ちなみにキューピットの役割を果たした当時のはがき代は5円だった。

 軍事郵便は70年以上前、連れ合いとのやり取りは60年近く前の話である。
 思えば遠くへ来たものだ。


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7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
軍事郵便 (大牧冨士夫)
2016-12-27 22:22:56
1軍事郵便、昭和12年10月戦死の叔父のはがきは、星と軍事郵便の文字。昭和17年、国民学校児童一同宛は、鉄兜に鳩、軍事郵便の文字。
2弐錢のはがきは以下─昭和17年、大竹海兵団、同じ人て横須賀局気付は、軍事郵便。個人宛のものはたくさん。
18年の岩波書店、博文館、陸軍壮丁教育会のもの。参錢のものはなし。参錢に料金収納済の員のもの。
35錢の騎馬像は1枚、弐錢プラス参錢、四錢と壱錢なと゜。「週刊朝日」の「値段の風俗史」がおもしろいね。
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大牧さんの実年齢 (六文銭)
2016-12-28 00:52:46
 「週刊朝日」の記事のみならず、大牧さんの実年齢とオーバラップし、それらを体験なさった現実の歴史があるだけに、とてもリアリティがあるご指摘だと思いました。
 ありがとうございます。
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楠正成 (大牧冨士夫)
2016-12-28 13:38:53
騎馬像が楠正成とすぐ出ないのは老人ボケです。弐錢。
「収納済の員」は、印の間違い。五錢は、東郷元帥、参錢に乃木大将の弐錢切手、八紘一宇、四錢に女子工員の壱錢など。これらは、47年?にGHQで使用禁止令。宮本百合子の「郵便切手」(昭和46年)がおもしろいですね。
 
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Unknown (花てぼ)
2016-12-30 22:36:41
私は5円のハガキ(4円もありましたか)を覚えています。
お父上のおハガキ素晴らしいですね。小さい子によくわかるように、とても丁寧にお書きになっていますね。
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亡父のこと (六文銭)
2016-12-30 22:55:28
>花てぼさん
 亡父は、高等小学校卒と同時に福井県の人間より熊のほうが多いような山村から、柳ごおりをひとつ背負って、岐阜の材木商に奉公に出ました。
 丁稚から叩き上げて、30歳を過ぎてやっと自分の店を持った矢先の召集令状、泣く泣く店を畳んで満州の地に。それからシベリアへ送られ、昭和23年に復員しましたが、念願の自分の店をもったのはずっと後でした。
 そんな律儀な苦労人の性格が滲み出たようなはがきです。大切にしています。
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平和のシンボルの鳩を (くろあしまる)
2017-01-01 00:59:25
軍事郵便の図案に用いた勇気ある技工官がいたのかと思って調べていたら、鳩は平和のシンボルではないことが分かりました。図案の鳩は、陸軍で戦闘中の前線から指令本部へ戦況を伝える軍鳩(ぐんきゅう)、戦争に用いる伝書鳩のことでした。
第二次世界大戦までは、交戦するうちに軍事通信は無線も有線も使えなくなることがあり、どこの国の軍隊も軍鳩を利用していたようです。
従軍された方なら常識であったことだろうと思います。

鳩が通信で、ヘルメットが軍事で合わせて「軍事郵便」というわけです。勉強になりました。
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なるほど (六文銭)
2017-01-01 01:57:06
>くろあしまるさん
 私も軍事郵便になぜ平和の象徴の鳩がと思ったのですが、軍用の伝書鳩だったのですね。それで納得がいきました。
 鳩が情報伝達に果たした役割は、けっこう後年にまで及びますね。私が中学生の頃(昭和20年代後半)、新聞社の見学に行った折には、その社屋の屋上で、伝書鳩が飼われていて、専門の担当者から説明を聞いたことを覚えています。
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