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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

盲目の少女と「在特会」的意識の一般化について

2014-09-12 16:17:39 | 社会評論
 つい先日発生した事件に、盲目の少女の杖に躓いたかした男が、それへの報復として彼女を突き飛ばすなどの暴行を加え、重症を負わせたというのがある。
 とんでもないことだと思ったが、驚いたことには、目も見えない奴がうろちょろで歩くほうが悪いという加害者への同情論が少なからずあることである。
 これはどうも、「在特会」的意識が一般化しつつあるのではないか思わずにいられない。以下、それについて述べたい。

          
 
 「在特会」というのは正式には「在日特権を許さない市民の会」という。ようするに在日の一般的諸権利を特権化されていると解釈し、それを非難・排除しようとするもので、「死ね!」とか、「殺せ!」とかいう脅迫や殺人教唆を含むヘイト・スピーチで知られている。典型的なレイシスト集団であることは誰の目にも明らかである。
 そのデモでは、日の丸や旭日旗が林立し、かつての大日本帝国をさらに凝縮したスタイルを思わせ、それがまた、彼らのアナクロニズムをよく示している。

 ハンナ・アーレントは、20世紀初頭に端を発し、第一次世界大戦後ドイツなどで跋扈したこうした集団や階層を「モッブ」と名づけ、それらのゴロツキ集団がナチズムのひとつの先駆をなしたとしている。
 
 「モッブを特徴づける要素は、反倫理性である。それでいて直情径行タイプが多く、一度信じ込むと手がつけられない。そのことが反ユダヤ主義や人種主義(汎ゲルマン主義)に熱狂させ、ついにはナチスの指導者層を供給することにもなっていく。」

          

 すでにいろいろ言い尽くされているので、ここではこれ以上の在特会の批判は行わないが、指摘したいことは、こうした在特会的な意識が、在日の人達に対してばかりではなく、広く一般化しているのではないかということである。

 生活保護受給者へのバッシングは、12年に端を発したお笑い芸人、河本準一の問題から拡散し続け、現在、制度的にも縮小減額が実施され、受給者への監視や密告が絶えないといわれている。
 ようするに、貧しいことを「特権」にして収入を得ている余計者だという受け止め方の一般化である。
 
 ついでながら、河本準一は愛知県名古屋市緑区有松町で生まれているのに、「北朝鮮の生まれで密航してきた」とネットでまことしやかに書かれる始末である。ようするに、「朝鮮人は悪い→悪い奴は朝鮮人」という単細胞が考えそうな論理である。
 そういえば、私もネット上で「北朝鮮へ帰れ!」とご親切なアドヴァイスをけたことが複数回ある。

          
 
 ベビーカーで電車に乗る母親へのバッシングもそうである。彼女らは、子持ちという「特権」を生かして他の乗客に迷惑を及ぼしているというのである。問題は、それに同調する連中が意外と多いことである。
 同情的な言説の中にも、せめて混雑時の乗車は控えるべきだというものがある。彼女らだって、不便なベビーカーを押して混雑した電車などには乗りたくないに決まっている。しかし、乗らざるをえない事情があるから乗っているのだ。一見同情的なこうした言い分は、それへの想像力さえ欠いている。

 電車に関してはもうひとつ、ラッシュ時の女性専用車の問題がある。これもまた、女性の「特権」であるとしてこれに抗してひとりそれに乗り込んだ男性の映像がネットで公開されていた。世の中には痴漢というものが存在し、その大半は彼と同様男性であることをどう思っているのだろうか。
 ちなみにこの男性、やはり「在特会」のメンバーであることが暴露されていたが、私自身が確認したわけではないので真偽の程はわからない。

 冒頭に述べた盲目の少女への暴行事件に関しても、被害者の「自己責任」として加害者をかばう発言が少なからず見られるのが実状である。

          

 この国はいつの間にかくも心貧しく険悪で、他者を罵ることが自己表現であるかのようになってしまったのだろうか。しかもその侮蔑や悪罵の対象は、いわゆる社会的弱者とされる人たちなのである。

 ここには、人は生まれながらにして平等で、弱い位置に転落したのは自己責任だとする「迷信」がある。
 人は生まれながらにして平等ではない。遺伝子の作用もさることながら、生育環境、教育環境などなどによって千差万別の差異が生じる。動植物界においてなら、それらは適者生存によって淘汰されることがあるかもしれない。

 しかし、それをさせないのが人間の文化なのである。そうした千差万別の人たちに平等に法的な権利を与え、なおかつともに生きることを保証する、それが人間の文化なのである。逆に言うならば、そうした形で動植物界の適者生存、弱肉強食を乗り越えたところで人間は人間になったといえる。「万人が万人にとっての敵という状況の克服をもって社会の成立とする」とホッブズは説いている。

          

 それを否定し、特権をあげつらう在特会的なありようは、人びとが共存してゆく道を閉ざすものであり、アーレントがいうように、一元化されたレイシズムやファシズム社会への露払いを果たす可能性がある。
 
 なお、安部首相の肝いりで幹部に登用された高市氏や稲田氏が、ハーケンクロイツを掲げる団体の責任者と、日章旗を挟んで意気揚々と写真に収まっている姿は、外国のメディアではかなり問題視されているが、日本のメディアではほとんど問題にならない。

 「自己責任論」を掲げる新自由主義が在特会的なものへの傾斜を強めつつあることを危惧している。
 それらは、上に見たように、人びとの多様性、複数性を踏みにじるものだからである。


 2枚目と4枚目の絵は、ジャクソン・ポロックを真似て描いたものです。

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