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「神なき時代」のカリカチュア? 『神は死んだ』を読む

2015-02-04 17:24:27 | 書評
            

 ロン・カーリー・ジュニアの『神は死んだ』を読了。
 表題作を含む9篇の短編からなるが、それぞれが状況的に、あるいは登場人物としても絡み合ってくる連作短編である。
 
 「神は死んだ」は、いうまでもなくニーチェの言葉だが、この小説は人間の姿をした神の具体的な死を冒頭の一篇に置き、以下は神なき時代の状況を描くという構成になっている。
 
 そしてこれらの全体を貫いて、世界ではなぜかポストモダン軍と進化心理学軍とが戦争状態にある。前者はアメリカを示唆し、後者は中国を示唆しているが、それは相互の「国益」を賭けた戦いというよりも、「神なき時代」の解釈を賭けたイデオロギー戦争の様態を示している。

 ポストモダンがニーチェの「神は死んだ」と親和性をもつことはわかるが、進化心理学というのは不勉強でよくわからない。いろいろググっていたら、《心とは空白の石版ではなく、はじめから描かれている輪郭線と、経験によって埋められるのを待つ空白部分を持った「ぬりえ帳」である》という言葉にゆき当たった。それでも、これがなぜ「神なき時代」の一翼を成すのかはよくわからない。ニーチェのいわゆる「遠近法」からの演繹だろうか。

 ポストモダンについても現実的、具体的に展開されたそれとは少なからず違うようだ。この書では、それに侵された人たちは価値相対主義により価値判断や感覚をも麻痺したアパシーに陥るかのように描かれているが、現実のポストモダンはそうした相対主義をも俎上に乗せながら、それをどう克服するかも視野に入れていたからである。

 本家本元のニーチェにしたところで、「神の死」の確認をもって「なんでもあり」と説いているのではない。むしろ、既成の価値や本来性を欠いたところでの判断をしてゆくための強靭さ(彼はそれを「超人」のイメージで語る)を強調しているに過ぎない。

 そうした意味で作者の「神なき時代」へのアプローチが気になるが、解説を読んで、彼の「神なき時代」がニーチェよりもむしろドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』からの一節、「神がなければすべてが許される」によるものであることを知り、なるほどとも思う。

 こうした点はともかく、小説としてはその発想といい、展開といい実に面白いし、鋭い文明批評になっている箇所もある。

 神が妙齢の黒人女性の姿でスーダンの難民キャンプに現れる冒頭、そしてそれがブッシュ政権において国務長官を務めたコリン・パウエルと絡むという奇想天外な書き出しは度肝を抜かれる。

 神を失った人びとの信仰心が子供に向かうという「児童崇拝」を取り締まる男を主人公にした「偽りの偶像」も面白い。それに、神を食べてしまって知能が発達した犬とのインタビューなどという発想はどこから生まれるのだろう(「神を食べた犬とのインタビュー」)。

 「救済のヘルメットと精霊の剣」と最後の「退却」は同一の主人公の物語として文字通りの連作をなしている。
 そして連作のラスト、自分たちの世界が破壊されようとしていることすらもはや感得できない人びとの間を抜けて、少年と若者を乗せたトラックが疾走する。

 このレビューの前半に書いた、「神は死んだ」の解釈はともかく、ある種の文明批判を含んだSFとしても、起こりうるかもしれない近未来への警告としても、なかなか含意のある小説である。


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2 コメント

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面白そうな本ですね (くろあしまる)
2015-02-06 23:01:05
私の好きなロシア幻想小説みたいで興味が湧いてきました。
図書館で探して読んでみようと思います。
返信する
面白いです。 (六文銭)
2015-02-06 23:21:55
>くろあしまる様
 ブログ本文の前半では、いろいろ屁理屈を書いていますが、それらを全く無視しても面白いですよ。
 この人、発想が並ではないので、他の作品も読んでみたい誘惑に駆られます。これが処女作で、その後、2、3冊を書いているようなのですが、残念ながらまだ翻訳されてはいません。
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