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映画『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』はカリカチュア?

2012-06-16 16:29:17 | 映画評論
 前回はARATA改め井浦新が出た映画を一日に二本も観てしまったことを書いた。
 その内の一本『かぞくのくに』については紹介したが、もう一本の『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』には触れることができなかった。
 文章の長さや時間の制約もあったが、質的にいってまとめにくいというのが正直な実感だ。

               
 
 題名の通り、三島由紀夫が若者たちを引き連れての陸上自衛隊市ヶ谷駐屯部隊へ籠城し、彼自身、並びに彼に心服する学生森田必勝の自決までの過程を追った映画である。
 それらの事実は、その同時代を生きてきた私にはある意味、既知のものであり、それへのある種のイメージも持っている。したがってこの映画を見る動機は、私のその既知を越えるなにがしかのものへの期待、あるいはあえてこの時期にこれを世に問う監督の解釈や立ち位置への関心であったといっていいだろう。

 しかし、はっきりいってそれを把握することには失敗したといっていい。ようするに、なぜ若松氏がこれを今作らねばならなかったかがもうひとつよくわからなかったのだ。

       

 極度に様式化されたその美学、効率において勝る銃よりもあくまでも日本刀でなければならない、そして、その自決は古来の作法に基づく切腹でなければならないというのは分からないではないが、それが過度に強調されると今ひとつの物神崇拝が浮かび上がってきて、その純化は滑稽の領域に滑り落ちてしまう可能性がある。

 また、共に自決した森田(それを満島真之介が熱演)が途中、「先生、私実は先生のお書きになったものがさっぱり分からないのですが」というのに対し、頷き返す辺りも、三島自身が大正教養人以来、連綿と続く日本知識人への不信感を強烈に持ち続けていたとはいえ、「理よりも情」に単純化されてしまうとやはり幾分引かざるをえないのだ。

 もっとも、三島と全共闘とが共鳴した点がまさにそうした日本知識人への不信感であり、それを力で突破しようとするパトスであった(ついでながら、それに「天皇」という名を冠するかどうかが唯一、彼らが相違する点であった)とすれば、それも分からないでもない。

             

 これらの諸点を劇画風に強調した若松演出の意図は、実はそれらをカリカチュアライズすることではなかったかとすら思える。若松氏がそれを意識してはいないにしても、私にとってはそう思えてしまうのだった。

 市ヶ谷のバルコニーでの自衛隊員に対する三島演説での「諸君は武士だろう!」という呼びかけは、その当時もサラリーマン化された自衛隊員に対する全く場違いなものであると思っていたが、この映画でもそれははっきり浮き出ている。
 ようするに、バルコニーの上と下とでは全く接点がないのだ。
 三島たちは孤立したミニチュアの世界で様式化された美を演じているに過ぎない。

 しかし、少なくとも三島はそれを知っていたのであろう。むしろ、自分がそうした隔絶された場にいて、しかも不本意、かつ無為に生き長らえることに嫌悪したがゆえにその死に場所として自分の世界をあのように演出したのだろうと思う。

 ところで、若松演出であるが、私が最後に述べた視点からの掘り下げがなされず(多分、意識的にそうしなかったのだろうが)、「実録」風に綴っているせいもあって、すでに述べたように「コップの中の戦争ごっこ」といったカリカチュアとしての側面が強調されてしまうのではないだろうか。

       

 「実録」といえば、この映画と対になっているような同監督の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』も、ほぼ同じ様な方法で撮られているのだが、そちらの方がよりリアリティが感じられたのは、監督自身の立ち位置のせいであろうか。

 三島事件、連赤事件、オウム事件は、大雑把にいえばその原理主義的主張による全体主義のミニ・カリカチュアとしてくくってしまえるかもしれないのだが、そのそれぞれには、それに内在する思考なり状況なりがあるはずである。
 惜しむらくはこの三島を題材としたものでは、その客観主義的演出と相まって、それらがあまり明確に浮かび上がってはいなかったように思う。

 この事件は、第一次の高度成長が様々な異論を抑圧しながら成就する過程に投げ撃たれた一つの特異な礫として記憶に留めるべきだろう。
 果たせるかなその後に迎える80年代、三島の杞憂したとおり、「義なき大国」として「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を豪語したこの国は、その後の転落過程を経て、名づけ難いグロテスクさの土壌の上で這いまわっているように見える。

 ここに至るまで、私たちがどのような経過を辿ったのかの一つの資料として、この映画は若い人達には必見であろうと思う。ただし、三島の美学は単にそこへと収斂されないないだろうことは言い添える必要があろう。


余談であるが、「東大全共闘」とのディスカッションの場や、70年前後に街頭で叫んでいた人たちが、今、言論界や政界などでも「活躍」している。民主党政権の中枢にいて、原発再稼働をリードした人も含めて。




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1 コメント

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Unknown (只今)
2012-06-17 12:07:44
 ポール・シュレイダーの『MISIMA』は、一部右翼の反対によって、日本では未だ上映されません。
 そうしたこともあって、今や77歳の身、何ら臆することなしとの作品ではなかったかと。
 しかしこれは、中味とは別の問題であって、うーん?
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