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カタロニアの片田舎 ひと夏の経験 映画『悲しみに、こんにちは』を観る 

2018-09-20 16:05:58 | 映画評論
 『悲しみに、こんにちは』の邦題はいくぶんもって回った感じで、微妙に違うような気がする。原題は「Estiu 1993」で、Estiuはカタロニア語で夏だそうだから、つまり、『夏 1993年』ということになる。映画は文字通り、このひと夏の、フリダという少女を巡っての物語である。
 たぶん邦題は、フランソワーズ・サガンの『悲しみよこんにちは』を意識しているのだろうが、少女のひと夏の経験という共通点はあるものの、サガンの小説の方は17歳の思春期の少女の物語であるのに対し、映画の方の少女は就学前の6歳とあっては比較すべくもない。

             

 この少女フリダは、これが長編第一作というカルラ・シモン監督(女性)の分身であり、映画に描かれていることどもは彼女の少女時代の実体験に基づくものだという。
 この映画に関しては多少のネタバレがあっても構わないだろう。というのは、そうした「あらすじ」や「タネ明かし」などのストーリー云々を超えて、むしろ、細かなエピソードやその映像そのものが雄弁に語りかけてきて、それが映画の見所になっているからだ。

 バルセロナに住んでいたフリダは、その母の死により孤児となり、カタロニアの片田舎に住む母の弟(叔父)一家へ引き取られることとなる。その家族構成は、その叔父とその連れ合いマルガ、そしてその間の娘、3~4歳のアンであり、彼らはフリダを家族の一員として暖かく迎え入れようとする。

          
 
 しかし一方、フリダの方は、母に別れ、なおかつ都会から田舎への移住などの目まぐるしい変化のなかで、新しい家族のなかに編入されるのだが、当然のこととしてそこに馴染むには一朝一夕にゆかないものがある。
 さらにフリダには解けない疑問がある。どうして母は死んだのか、なぜ自分はその臨終の場から遠ざけられたのか、なぜ周囲は母の死を語るときヒソヒソと声を殺すのか、なぜ自分が怪我をして血を流したとき周囲の大人が慌てふためいたのかなどなど。 
 映画はそれらのシチュエーションを背景とした夏の日々の出来事として進行する。

          

 この映画において、フリダとアナにみられる子供の描写に卓越したものがあるということは特筆しておくべきだろう。
 フリダが有閑マダム風に扮し、アンがレストラン側になって行われる劇中劇のような「おままごと」は微笑ましいばかりだし、夜間の家出に失敗したフリダが「今日は暗いから、明日明るくなってからにするわ」と言い放つシーンは、緊迫した状況の後だけに妙にほっこりする。
 こうした思わず笑えたりするシーンがあるかと思えば、いくぶんスリラーめいたりサスペンスめいていて思わず息を飲むシーンなどが二、三度にわたってあり、淡々としたその描写がかえって起伏に富んだ展開を可能にしている。それらがとても自然に撮られていて、文句なしにその状況に惹き込まれる。

          
 
 子供を必要以上に可愛く健気に撮ったり、あるいは清純に見せようとしているわけでは決してない。子供をダシに泣かせたり感動させたりというあざとさもまったくない。逆に、子どもゆえの残酷さなども遠慮なく表現されている。にもかかわらず、いつの間にかフリダに感情移入し、揺さぶられてしまっているのだ。

          

 フリダに対して、もうひとりの重要な人物が叔父のつれあい、マルガである。「フリダの母になる」ことに揺るぎない覚悟で挑むマルガの存在こそ、もう一つのこの映画の見所だ。
 揺れ動く幼いフリダ、その振幅に妥協することなく、もう一つ大きな包容力でそれを受け入れてゆくマルガ、そのなかにはフリダに実子同様に接するがゆえの厳しいしつけの試みも垣間見える。ようするにそれは、母として受け入れてもらうための努力などではなく、常にすでに母として接してしまっているマルガがいるということである。だから、時折現れ、甘やかす一方の祖父母に対しては苦々しい思いを隠すことはないし、フリダへの接し方にもいらざる遠慮はない。

          

 ひと夏の間のいろいろなエピソードを重ね、フリダがいよいよ小学校へ入学(日本と違い秋が入学期)する前夜で話は終わる。家族全体でふざけ飛び回っているうち、いきなりフリダが号泣しはじめるのがそのラストシーンである。 
 そこには、母の死以来、ひと夏の緊張に耐えてきたフリダが、その緊張を脱ぎ捨てて新しい境地に向かう兆しがみてとれる。その意味では、これはカタルシスなのだ。だから、その泣き声のなかには、悲哀というよりある種の希望が宿っている。
 ほっこりしながらも、いろんな感慨を与えてくれる映画である。とりわけ、私のように里親のもとで育った人間には、フリダの一見不合理な行動の意味するところが、少しだけわかるような気がするのだ。

          

 カルラ・シモン監督、1993年に6歳とすれば、この映画は30歳を超えたばかりのものであろう。とても才能があるひとだと思って調べたら、この作品は2018年のカンヌ国際映画祭(是枝監督の『万引き家族』がパルム・ドールをとった)での、「ウーマン・イン・モーション」(映画界で活躍する女性をたたえる賞)を受賞しているほか、ベルリン国際映画祭新人監督賞、スペイン最高の映画賞、ゴヤ賞での新人監督賞などを受賞しているようだ。 
 
 映像をして語らせるという映画の鉄則を、みずみずしい感性で貫き通したこの若き才能に讃意を表し、その次回作もぜひ観たいものだと思った。
 以下に来日時のインタビューがあったので貼り付けておく。
 https://www.mine-3m.com/mine/news/movie?news_id=14771

 



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