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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

孤(狐ではない!)であることを考える。

2008-09-04 00:26:57 | インポート
 私たちは孤であることなど出来ません。
 私たち人間を含めたあらゆるものが、ある種のネットワークの内にあってこそこうあるので、孤であること自体が不可能なのです。

 

 にもかかわらず、私たちは孤を感じ、孤であることを選択したりします。本当は、全体的な構造によって生み出され、どこまで行ってもその構造の一要素でしかないにもかかわらず、自分を孤であると思いがちです。

 それは客観的にいえば誤りなのかも知れませんが、そうばかりは言えないのです。

    

 確かに私たちは構造の産物でしかないのかも知れません。
 しかし、構造はある種の化学実験とは違って、同じ組み合わせにあっても同じものを生み出すとは限らないのです。ましてや複雑きわまりない現実の中で、同じ組み合わせ自体が不可能であってみれば、工場生産のように同じものとして生み出されることはないのです。

 

 これを「余剰」と名付けてもいいでしょう。あるいは、「必然からはみ出るもの」といってもいいでしょう。
 それを意識するとき、「孤」を感じるのかも知れません。

 しかしこれを乙女チックに(おっとこれは性差別的だ)、いや、感傷的にとらえるなら、「世の中から私だけが離れていて・・」という独断論になったり、恨み辛みのルサンチマンになったりします。
 無差別殺人を試みる人たちにはこうした受け止め方が多いようです。

 
 この孤を、何か創造的なものに結びつけられないでしょうか。
 感傷的な思いが詩を生み出すことがありますね。それは孤を昇華させ創造的なものにするきっかけとなります。
 もっとも、私を含めて大部分は感傷のみに終わってしまうのですが・・。
 それでも、ひとを刺すよりいいですよね。

 先に述べたように、孤が構造のもつ余剰のようなものだとしたら、思い切ってこの構造自体をあからさまに描き出したり、この構造に何かを書き加えることが出来ればすばらしいでしょうね。
 一般的には、これはひとり、天才の為せる業なのでしょうね。

 

 しかし、私のような凡人でも、自分の周辺のチマチマしたところで、自己満足でもいいから何かを作り続けることは出来るように思います。自分の孤であることを何らかの形で現すということです。
 
 敢えて、「孤独」としなかったのは、孤ではあり得てもそれは決して「独」ではないと思うからです。

<おまけ>
 かつて天知真理は歌いました。
 「独りじゃないって
  素敵なことねぇ~」
 これ分かるひと団塊以上かな?










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3 コメント

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Unknown (只今)
2008-09-06 09:23:40
六十年代、地下室からこんな歌が流れていました。
「しんじつ一人は 遣瀬なし
 しんじつ二人は なほ寂し」
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Unknown (きすぎじねん)
2008-09-07 01:33:58
孤独の「孤」と「独」とを分けてのお話、面白いですね。
ただ、
>「世の中から私だけが離れていて・・」という独断論になったり、恨み辛みのルサンチマンになったりします。
> 無差別殺人を試みる人たちにはこうした受け止め方が多いようです。

ですが、どうでしょうか?

私には、「繋がり合っているゆえに、その繋がりから自身を切り離したい」と、思っているように見えることが多いです。

<おまけ>ですが、団塊の世代から「ひとまわり」程度若い(?)ですが、私よりも「はんまわり」程度若い(?)人も知っている歌です(とりあえず、ご報告まで)
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Unknown (六文錢)
2008-09-08 00:19:51
>只今さん
 その歌、聞いたことがあるようなないような、曖昧な感じです。
 今度お目にかかった折りにでも歌って聞かせて下さい。

>きすぎじねんさん
 おっしゃるように、「繋がり合っているゆえに、その繋がりから自身を切り離したい」という側面もあろうかと思います。
 また、「繋がっているはずなのに自分だけ疎外されている。だったらいっそのことすっぱりと縁を切って」という思考回路もあろうともいます。

 ただし、いずれの場合も、世の中と自分との関係として生じる事柄ですから、彼ないし彼女の考え方のみに帰するわけには行かない面もあろうかともいます。

 努力が報われない過度な格差社会、価値の生産や消費のみが人格よりも尊重される社会、それらの中で単なる粒子として解体される人の繋がり、等々との総体的な関係の中で生じることだろうと思います。

 もちろんそれが、人を刺すことを正当化することには決してならないのですが・・。
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