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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

天から振ってきたのではない!

2008-08-06 17:58:54 | 社会評論
 きょうは広島に原爆が落ちた日だという。
 しかし、厳密に言えば、天から振ったのではなく、落とした日であり、落とされた日である。
 いうまでもなく、落としたのはアメリカであり、落とされたのは広島であり日本である。

 

  落とした方はその行為を「やむを得なかった」と言い訳したり、あるいは積極的に「あれでよかったのだ」と評価する。
 もっとも、落とした側にも、その悲惨さを認識し、その正当化は許されないとする人々もいる。

  ところで、落とされた側は、まさにその悲惨を体験したわけだから、それに対して否定的にならざるをえないし、だからこそ、63年を経た今でも追悼の儀式を絶やさないのだ。
 にもかかわらず、その落とされた側にも、あれは不可避であった仕方がなかったと肯定したり、さらには自分たちも核兵器を持ち、今度は落とす側に回ろうとする向きがあるのも事実なのである。

    

  それは一部のウルトラ軍国主義者たちの言説ではない。
 現総理の福田康夫氏が官房長官時代(2002年)に「非核三原則見直し」発言をしたのは記憶に新しいところだ。
 原子爆弾などの核兵器保有については「私個人の理屈から言えば持てるだろう」とまで言いきっていたのだ。
 その総理が、記念式典で「恒久平和」をのたまうのは幾分空々しいものがある。

  もっとも、戦前、日本の軍部も核兵器の研究を推し進めていて、それが間に合わなくてアメリカに先を越されたと言う認識(科学的な面で立ち後れていたから戦争に敗れたのだとして、戦争に至る社会的歴史的過程の検証を行わない立場)も強力にあるのだから、その延長上に核兵器への願望が一貫してあるのだとは言える。

 

  先に原爆は、落ちたのではなく、落とし、落とされたのだと言ったが、しかし、上のように見てくるとこの差異は曖昧である。

  だいたいにおいて、前世紀から今世紀にかけての戦争は、いわば人間が満たし続けてきた欲望の飽和点のようなものとしてあるのであり、その戦争に効率よく勝利する究極の兵器として生み出されたものが核兵器だとしたら、どこが落とし、どこに落とされたのかは、むろん具体的な問題として残るにしても、その脅威そのものは人類史が押し開いた新しい次元なのであり、それはまた人類全体の罪を象徴するものと言えるのではないだろうか。

 

  従って、落としたアメリカや、落とす予備軍としての核保有国の罪は大きいし、直ちにそれらの核を放棄すべきだが、同時に、私たち日本人も、落とされた被害者を決め込んでばかりもいられまい。
 日本の原発はちょっと仕様を変えるのみで、世界有数の核兵器保有国になれる素地を持っているし、ましてや先に見たように、核保有を否定しない首相を持っているのだから。
 ついでながら、野党の中にも結構ウルトラな核保有論者がいるとも聞く。

  いずれにしても、原爆は天から自動的に振ってきた訳ではない。
 それを落とした者たちがいて、さらにその潜在的な可能性としての幾多の保有国があり、その上、落とされた被害国を装いながら、いつか加害者の側に回ろうとする動きがあるとしたら、しばしの黙祷のあとは、眉をきっと上げてそれらを見つめなおすべきではないだろうか。



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