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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

コルセットをめぐる悲喜劇と1月7日

2014-01-07 17:09:13 | 想い出を掘り起こす
 写真は父が戦地から私宛にくれた軍事郵便。私の宝物だ。

 老いても孫の話と病気の話はすまいと思った。まだ老いの境地に至らなかった頃、散々それを聞かされ、この人たちはそれしか話すことがないのかと思ったからである。
 で、自分がまさにその年令になった今どうであるかというと、諸般の事情があって孫の話はほとんどしないのだが、病に関する話は日常茶飯時になってしまった。

 とくに昨秋以来は、急性気管支炎で入院したり、胸骨を傷めたりですっかりその話題にはまってしまった。で、これから書こうとすることもまたしてもそうした病がらみの話なのだが、それが主題ではないので前振りとして今しばらく我慢をして欲しい。

           

 年末に傷めた胸骨はおかげで正月に照準を合わせたかのように痛みが引いたのだが、医師は骨が完全にくっついた完治ではないから無理をするなという。だからそれに従っている。
 それと直接の関連はないと思うのだが、今年に入ってから腰痛がひどくなったようだ。少し立っていると次第に辛くなって床にへたり込んででも座りたくなるのだ。

 30年ほど従事した仕事では、仕込みも入れると一日12時間近い立ち仕事で足腰には自信があったのでそれを友人にいうと、「馬鹿だなぁ、その頃の負荷がいま出ているんじゃないか」とのことで、それも一理あると思う。
 それでいまは、耐えられなくなると腰にコルセットを巻いている。これは胸骨の時に医師がくれた薄手のコルセットではなく、『風と共に去りぬ』の主人公が腰を締め上げるような、あるいはヴェルサイユの貴婦人たちがその体型を整えるような頑丈な作りのものである。

 どうしてそれが私の手元にあるかというと、話はほぼ20年前の12月27日に遡ることとなる。
 この日、その年の仕事を終えた私の父は、快適な新年を迎えるべく愛用の自転車を自ら漕いで病院へと向かった。
 まずはその頃悩まされていた腰痛に対処すべく外科に赴き、医師のすすめでコルセットをすることにし、それの採寸をしそこを辞した。

 ついで父は、身体全ての悪しき徴候をチェックし快適に新年を迎えるべく内科での検査に赴いた。
 そこで倒れたというのだ。
 飲食業という年末がかき入れどきの私は、しかも名古屋で仕事をしている身としては、容易に岐阜の病院に駆けつけることはできなかった。仕事を早々に引き上げてやっと訪れた時には父は集中治療室にいた。
 家族総出で当番のように交代で父に寄り添って見守ったが、良くなる徴候は見られなかった。

           

 夜の仕事でその時間帯には付き添えなかった私は、12月31日の夜にその当番を引き受けた。意識の有無もはっきりしない父に一方的に語りかけ、父が寝た折には持ち込んだ書などを読んで過ごした。
 やがて、密閉されているはずの集中治療室なのに、除夜の鐘が聞こえた。しかも複数のそれが。例年のように家族の騒音の中にいないだけ、それらの鐘の音はよりクリアーに聞こえるのだった。私は書を伏せて父の耳元で、「おい、新しい年だぜ。そろそろ起き上がってもいいんじゃないか」と語りかけた。しかし、父は眠ったままであった。

 1月6日も私は徹夜で父の枕元にいいた。明けて7日、交代時間になりバトンタッチをして家に辿り着き、仕事に出る前の短い睡眠をと思っている矢先、電話があり、その容態が急変したという。慌てて病院に取って返したが、その死に目には逢えなかった。ただし、さほどの時間も経っていないその体はまだ温かく、私が握った手を握り返すのではと思えるほどだった。

 殺風景な集中治療室から遺体は普通の病室に移された。徐々に親族などが集まって来て涙に暮れている時だった。
 病室の入り口で明かるい声が響き渡った。
 「お待ちどうさまでした。ご注文のコルセット出来上がりましたよ」
 そこにはくったくのない笑顔の看護師さんがコルセットをもって立っていた。
 父がこの病院で倒れる前に採寸したものが出来上がったのだった。
 家族は唖然としてその看護師さんを睨みつけるようにしていたが、私は冷静に、「ありがとう。ご苦労さん」とそれを受け取った。
 さすがにその看護師さんは状況を察知して、「すみません、すみません」と平謝りに詫びたのだが、もちろん彼女に責任はない。大病院で科や階が違えば、そんなことは当然ありうることなのだ。

             

 そんなものは突き返せという声もあったが、私は形見分けのひとつとしてそれをもらった。
 ぎっくり腰などの際にこれまでも用いていかが、今、これを書いている際も私の腰をガードしている。

 かくして父の命日は1月7日であるが、それに先立つ数年前、日本で最も著名な人物が同じ1月7日に亡くなっている。
 その葬儀の日に、私は「あらゆる自粛を自粛する」ということで営業を敢行したため、私の店が入っている雑居ビルにはコンクリートブロックが投げ込まれ、大きなガラスのドアに損傷を被ったのであった。
 その話を生前の父に話しただろうか。
 私には記憶が無い。

 父の思惑からどんどん逸れてゆく私に対して周辺からいろいろいわれた父が、「息子には息子の生き方がありますから」いってくれたのを後になって知り、血縁のないなさぬ仲の親子ではあったが、このひとの息子であって本当によかったといまも思っている。
 ついでだが、そんなこともあって私は血縁などはなんの意味もないと思っている。それに意味があるとしたら、ともに生きる共生のスタートとしての縁のみで、それは血縁のないもの同士の共生の始まりと何ら変わるところではない。
 血縁や民族、愛国の短絡は危険ですらある。

 父の残した、しかも彼が一度も身につけなかったコルセットを身にまといながらこれを書いていると、少しこみ上げるものがあるが、そんな感傷はともかくあの父がいて、そしてそのおかげで私がここにいる。

 父が存命なら、105歳。父の享年まで私は10年である。

 

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