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カント先生と女性を隔てる深い河? その語録から

2014-10-08 15:01:04 | よしなしごと
 写真は近くの鎮守様で。

 カントの『人間学』を読了した。
 途中、さまざまなエピソード的なものをつぶやいたりしてきたが、とりわけカント先生の「男女観」については「草食系」で性愛に関しては慎重であったようだと書いた。事実、先生は生涯独身で周辺に女性の影はなかったようだ。
 にも関わらず、女性については結構饒舌である。まあ、『人間学』と称する以上、その半分を占める女性に背を向けることは不可能であろうから。

 この書の第二部は「人間学的な性格論」となっていて、そこであらためて「男女の性格」について論じられている。
 その箇所から拾いながら、カント先生の女性観、そしてそれが、私の推察とどう絡んでいるのかを見てみよう。

          

 まずそれは次のように始まる。
「男女の親密な関係は人類という種の存続のために自然が与えた配慮」 
「男は身体的能力と勇気によって優位を保ち、女は自分たちに惚れやすいという男の傾向性を手玉に取るという女性特有の天性によって男に対して優位に立つ」
「だから人間学の分野では男性の特質よりも女性特有の本性のほうが哲学者にとっては研究対象として興味深い」そして、女性の本性は文化によって開花するとして「この素質はちやほやされる境遇の下に置かれてだんだんその本性を顕にするものだから」としている。
 
 「『弱き者、汝の名は女なり』はこの弱さこそ男を操る梃子。夫の秘密は簡単にばれるが人妻の秘密はそうではない」
 「夫は家庭内平和を愛し、妻の統治に服するが、妻は家庭内戦争を避けず舌を武器にして夫に戦いを挑む」「自然はこの目的のために女におしゃべり癖と興奮症的能弁とを授けたので夫としては降参する以外はない」

          

 カントは一見このようにして家庭内での女性の優位を認めているようだが、しかし、家庭内でのこうした均衡は男の側の「ただし、自分の側の仕事の領分さえ邪魔されなければ」という条件下において可能になっているのであって、男はこうした家庭内での力関係を超越したより大きい分野で働いているという前提を崩すことはない。

 それらは、18世紀の女性観一般にある桎梏とカント先生による主観まじりの記述なのだが、女性のそのようなありようは女性自らが醸しだしたものではなく、女性を設けたときの自然の目的によるのであり、それをまとめれば「 1)種の保存 2)社会に文化をもたらし社会を洗練する」ということになるからともいう。

          

 それから、自ら「とりとめのない覚書」として以下の様なことを書いている。
 「女は拒み*、男は求める 」 *は、ドイツ語のWeib(女)とweigernd(拒む)をかけたカント先生のダジャレなのだが、本当にそう思っていたようで、「恋愛は女が素っ気なく、対照的に男がぞっこん惚れ込むという風でなければならない」としている。
 覚書は続く。
 「男は結婚するとただ自分の妻の好みに合わせようとするだけだが女は結婚してもすべての男性の好みに合わせようとする」
 「男が嫉妬に狂うのはその相手を愛している間に限られる。女も嫉妬するが別に愛していなくても嫉妬する・・・・自分の崇拝者の数が減るから」

 こんなことも書いている。
 「夫が家のなかで支配権を持っていられるのは妻からの性的要求にいささかもたじろぐところがない間に限られる」
 そしてさらにこんなことも書いている。
 「自由恋愛は女性にとって不利。男性の性欲を満足させる手段に貶められる 可能性があり、そして男の性的満足は移ろいやすい」
 で、その結果として、
 「女は結婚によって自由となり、男は結婚した途端に自由を失うのである」
 ということになる。

          

 以下はまたおもしろい見方である。
 「結婚しても女は男性一般に好かれるよう努力しなければならない。そうしておけば仮に若いうちに亭主に先立たれてもあとの求婚者に困らないだろう 。だから男が妻が別の男に媚態を示しても妬いてはいけない」
 これと似たことでこんなことも。
 「父は娘を、母は息子を甘やかす それは父母共に自分の相方が亡くなった時のことを考えるから」

 そして、この「男女の性格について」は、「自然は男女関係というこれほど多様で面白い宝物をその配慮の中に散りばめた」という言葉で結ばれる。

 以上、主にカントの言葉を私なりに要約して紹介したが、これらは18世紀のドイツにおいての都市インテリの女性観に、カント先生のある種独自な観察を加えたものといえよう。
 そしてその背後にはどこかしらシニカルはものが漂っている。
 そこが、カント先生と女性の濃密な接触を妨げたもののように思えるがどうだろう。

          
 
 カント先生、何も女性について論じたのみならず、その後、国家、人種、人類へと進み、この書は次のような格調高い言葉で結ばれている。

 「人類の目的は個々人が自由勝手に徒党を組むことで達成されると期待することはできないのであり、地球市民が連帯して(道徳的に)進歩を重ね、人類を世界同胞主義に基づいた団結したひとつの体制にまでもたらし、さらに進歩を続けることによってこそ、またこの道を通じてしか、あの理性の勧告による人類の目的の達成は期待することはできないからである」

 カント先生、あくまでも人間は理性的な動物であり、それを現実の世界において示してゆくことこそ道徳にもかなったことだという信念を抱き続けていた。
 この最後のフレーズの中には、カント先生が国連などの国際組織の生みの親であるといわれる所以がしっかりと書き込まれている。

 さて、私の勉強だが、こうしたカントの『人間論』を、ミシェル・フーコーがどう読み取ったかという第二幕に入る。
 さあ、図書館へ行こう。






 

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