前回は、祭りばやしの練習が騒音だというクレームのためにままならぬ話から、電車内へのベビーカーの持ち込みへの苦情、幼稚園、保育園の児童の嬌声を理由に移転要請があるなどという話から、古くからの養豚場があとから押し寄せた住宅の波に埋もれ、今や新興住宅地の環境汚染の元凶にされてしまった、などという話を紹介した。
今回はそれにまつわるわが家の歴史についてである。
私の実家は材木商で、亡父は15歳の折、福井県は石徹白川沿いの小さな集落から柳行李ひとつを背負って、徒歩で油坂峠を岐阜県側へ越え、(今はトンネルでアッという間に過ぎる)、岐阜の材木商へと丁稚奉公に入った。
父の苦労話は割愛する。ただ気の毒だったのはそれから20年近くをまじめに務め上げ、やっと自分の店の看板を掲げたと思ったらすぐにあの忌まわしい戦争が始まったことだ。
まずは父が各務ケ原の航空機製造工場に徴用で取られ、営業は実質的に不可能になった。
面会日には、母とともに徴用先の工場に面会に行き、飛行場の片隅の芝生の上で、心尽くしの弁当を食べた。
そのうちに、日本の兵力が逼迫してきたのか、35歳を過ぎた民間人でありながら、いきなり赤紙が来て、名古屋の6連隊へ入営したかと思うと、一月も経ずして満州の前線へ送られてしまった。
そして敗戦。直ちにシベリア送りに。木材に関する父の見識がシベリア開発に役立ったせいもあって、3年以上みっちり働いての帰国であった。それでも帰ってこられただけ幸運だったとも言える。
父が準備万端整えて、自分の店を再開したのはいろいろ経緯があってからだが、最初の場所は岐阜駅南口から徒歩10分ほどの住宅街や小商店の入り混じった地域であった。並びも別の材木商であった。
ところで、材木商が今日、なぜクレームの対象になるかというと、製材機が木を切る際に発する騒音のせいである。
出来合いのものを取り売りするところもあったが、原木の段階で仕入れ(その折すでに中の木目が読めなければならないという)、それをどの方向のどの角度から鋸を入れ、どんな柱や板を生み出すことはできるか、しかも、その原木の隅々まで無駄なく使えるようにするのか、それが材木商の目利きや技術であり、それによって出来上がった木材の負荷価値は天と地ほど違うという。したがって、製材機は、そうした技術を売りにする材木商にとっては欠かせない設備なのだが、問題はその騒音なのである。
当初はほとんど問題はなかった。岐阜は木材の集産地で、いわば木の町だったからあちこちから製材の音が聞こえたもので、町の人びとにとってはごく当たり前のことだったのだ。
しかし、いつまでもそうはいっていられない気配を悟った父は、郊外への移転を決意した。手に入れた土地は、全くの農村地帯で、周辺100mほど(方角によってはもっと)には全く人家のない箇所であった。
こうして土地は入手したものの、事務所や製材設備、倉庫などを整えるにはさらに資金を要する。
その準備を進めていた期間がちょうど高度成長期のまっただ中であった。
地方都市は、アッという間に膨れ上がり、移転するはずの土地のすぐ南には一階が商店、2階が住まいという3軒続きの家屋が建ち、製材を予定していた辺りには隣接してアパートが建てられた。その他、周りには様々な建物が点在しはじめた。
こうなると、そこへあとから製材所を持ち込むのは全く不利である。
ついに父は、そこも諦め、さらに郊外に土地を求めざるを得なかった。
最終的にはそこへと落ち着いたのだが、そこは周りにあるのも工場だったり倉庫だったりで、人家はほとんどない状態が今なお続いているので事なきを得ている。
「孟母三遷の教え」ではないが、先手先手と事を進めた父は賢明であったと思う。
ところで、今日、岐阜の町を往来しても、もはや絶えて製材のあの、聞きようによっては胸のすくような音はしない。これはたしかに環境の問題もあるが、材木商そのものが激減しているのだ。
家業を継がなかったとはいえ、不肖材木屋の息子、町のどこにどんな材木屋があったかは覚えているが、それらはもはや製材所はおろか店舗そのものも綺麗に消えてしまった。
今どき、地方の分限者ででもない限り、純木造の家を建てるようなひとはいない。普通に見られる日本家屋と思われるものも、材木を使っている箇所はごく限られ、それも輸入材の規格品が多い。現今の家屋の建築は、工場で出来たパーツの組立であり、そこに材木商が関与する余地はない。だから、ある日、気がついたら忽然と新しい家屋が姿を現すということがありうるのだ。
で私の実家だが、取引対象は社寺仏閣など文化財の修復を行う宮大工さん、仏壇屋さん(これも減少)や仏像の木彫師、などなど伝統的なもので、いわゆる銘木専用ということになる。
さて、こうして、環境や営業対象の変遷と戦ったきた父であるが、その「三遷」のおかげを被っているのは私である。私が住んでいる場所は、父が最初の移転地と決めたその一角で、その土地は結局倉庫として使うことになったのだが、その留守番というか見張り役というかで、臨時の住まいだったものを買い受けて終の棲家にしてしまったわけである。
だから、この辺りは今なお、田園と市街地がまだらに入り混じる場所で、まあ、ど田舎でもないが小うるさい街なかでもないという、中途半端な私にとては適した棲家となっているとうわけだ。
始めの書き出しとは遠くはなれてしまったようだ。
*最後の写真、わが実家の倉庫のものですが、「青ヒバ 能面用」とあるでしょう。青ヒバというのは木材の名前です。能面用というのは文字通り、お能の面を作るための用材なのです。どういう需要に対応して生き延びているのかがお分かりいただけると思います。
今回はそれにまつわるわが家の歴史についてである。
私の実家は材木商で、亡父は15歳の折、福井県は石徹白川沿いの小さな集落から柳行李ひとつを背負って、徒歩で油坂峠を岐阜県側へ越え、(今はトンネルでアッという間に過ぎる)、岐阜の材木商へと丁稚奉公に入った。
父の苦労話は割愛する。ただ気の毒だったのはそれから20年近くをまじめに務め上げ、やっと自分の店の看板を掲げたと思ったらすぐにあの忌まわしい戦争が始まったことだ。
まずは父が各務ケ原の航空機製造工場に徴用で取られ、営業は実質的に不可能になった。
面会日には、母とともに徴用先の工場に面会に行き、飛行場の片隅の芝生の上で、心尽くしの弁当を食べた。
そのうちに、日本の兵力が逼迫してきたのか、35歳を過ぎた民間人でありながら、いきなり赤紙が来て、名古屋の6連隊へ入営したかと思うと、一月も経ずして満州の前線へ送られてしまった。
そして敗戦。直ちにシベリア送りに。木材に関する父の見識がシベリア開発に役立ったせいもあって、3年以上みっちり働いての帰国であった。それでも帰ってこられただけ幸運だったとも言える。
父が準備万端整えて、自分の店を再開したのはいろいろ経緯があってからだが、最初の場所は岐阜駅南口から徒歩10分ほどの住宅街や小商店の入り混じった地域であった。並びも別の材木商であった。
ところで、材木商が今日、なぜクレームの対象になるかというと、製材機が木を切る際に発する騒音のせいである。
出来合いのものを取り売りするところもあったが、原木の段階で仕入れ(その折すでに中の木目が読めなければならないという)、それをどの方向のどの角度から鋸を入れ、どんな柱や板を生み出すことはできるか、しかも、その原木の隅々まで無駄なく使えるようにするのか、それが材木商の目利きや技術であり、それによって出来上がった木材の負荷価値は天と地ほど違うという。したがって、製材機は、そうした技術を売りにする材木商にとっては欠かせない設備なのだが、問題はその騒音なのである。
当初はほとんど問題はなかった。岐阜は木材の集産地で、いわば木の町だったからあちこちから製材の音が聞こえたもので、町の人びとにとってはごく当たり前のことだったのだ。
しかし、いつまでもそうはいっていられない気配を悟った父は、郊外への移転を決意した。手に入れた土地は、全くの農村地帯で、周辺100mほど(方角によってはもっと)には全く人家のない箇所であった。
こうして土地は入手したものの、事務所や製材設備、倉庫などを整えるにはさらに資金を要する。
その準備を進めていた期間がちょうど高度成長期のまっただ中であった。
地方都市は、アッという間に膨れ上がり、移転するはずの土地のすぐ南には一階が商店、2階が住まいという3軒続きの家屋が建ち、製材を予定していた辺りには隣接してアパートが建てられた。その他、周りには様々な建物が点在しはじめた。
こうなると、そこへあとから製材所を持ち込むのは全く不利である。
ついに父は、そこも諦め、さらに郊外に土地を求めざるを得なかった。
最終的にはそこへと落ち着いたのだが、そこは周りにあるのも工場だったり倉庫だったりで、人家はほとんどない状態が今なお続いているので事なきを得ている。
「孟母三遷の教え」ではないが、先手先手と事を進めた父は賢明であったと思う。
ところで、今日、岐阜の町を往来しても、もはや絶えて製材のあの、聞きようによっては胸のすくような音はしない。これはたしかに環境の問題もあるが、材木商そのものが激減しているのだ。
家業を継がなかったとはいえ、不肖材木屋の息子、町のどこにどんな材木屋があったかは覚えているが、それらはもはや製材所はおろか店舗そのものも綺麗に消えてしまった。
今どき、地方の分限者ででもない限り、純木造の家を建てるようなひとはいない。普通に見られる日本家屋と思われるものも、材木を使っている箇所はごく限られ、それも輸入材の規格品が多い。現今の家屋の建築は、工場で出来たパーツの組立であり、そこに材木商が関与する余地はない。だから、ある日、気がついたら忽然と新しい家屋が姿を現すということがありうるのだ。
で私の実家だが、取引対象は社寺仏閣など文化財の修復を行う宮大工さん、仏壇屋さん(これも減少)や仏像の木彫師、などなど伝統的なもので、いわゆる銘木専用ということになる。
さて、こうして、環境や営業対象の変遷と戦ったきた父であるが、その「三遷」のおかげを被っているのは私である。私が住んでいる場所は、父が最初の移転地と決めたその一角で、その土地は結局倉庫として使うことになったのだが、その留守番というか見張り役というかで、臨時の住まいだったものを買い受けて終の棲家にしてしまったわけである。
だから、この辺りは今なお、田園と市街地がまだらに入り混じる場所で、まあ、ど田舎でもないが小うるさい街なかでもないという、中途半端な私にとては適した棲家となっているとうわけだ。
始めの書き出しとは遠くはなれてしまったようだ。
*最後の写真、わが実家の倉庫のものですが、「青ヒバ 能面用」とあるでしょう。青ヒバというのは木材の名前です。能面用というのは文字通り、お能の面を作るための用材なのです。どういう需要に対応して生き延びているのかがお分かりいただけると思います。
六文さんは材木屋の御曹司でしたか。
私が名古屋下町の長屋で暮らしていた小学生のころ、
両端の家はそれぞれ大工と材木屋でした。
営林局に勤める父を持つ友人もいました。
高校時代は、今住んでいる三河に移っていましたが、
バイトした先の一つが製材所でした。
当時はまだ風景の中に当たり前のように材木があり、
しばしば製材の音も聞いていました。
お書きになっているように、
それを迷惑とする空気もありませんでした。
生活の中で自然木と触れ合う機会が減ったり
都市で働くサラリーマンが大半となったりで、
住宅に住む人々の感性も変わってきているのでしょうね。
それどころか、いまや原木輸入の自由化や住宅工法の変化などで
国産林業がほぼ壊滅。
人口杉は放置され日本は花粉症の国になってしまいました。
漂着者さんもなかなか材木とは縁のある生活をされてきましたね。しかし、現今はおっしゃるように、人びとが自然木と触れ合う機会はうんと減少してきました。
そしてこれもご指摘されていますが、林業そのものが危機的なようです。父方の遠い親戚に、林業地域に属する人がいるのですが、その人に先年会った時にもそういっていました。
何年も前に植林されたものを伐り出して出荷しても採算に合わないので手入れもできないとのことでした。そのため、ちょっとまとまった雨で林道が崩壊しても、もうそれ自身も直さないのだそうです。
彼は、私がかつてイワナを追いかけて車を乗り入れたいくつかの渓の名を挙げて、もう、ここもあそこも車では入れないのだといっていました。
そればかりか、崩壊を放置してあるため、渓を堰き止めるようになっていて、次に大雨が降った折など、それが一興に崩壊して、鉄砲水になる恐れもあるといっていました。
人間の暮らしと自然との間にはもともと深いつながりがあったものが、生活様式の変遷によって周囲の自然をも変えてしまった例だと思います。
山からの水を田へ分散し、それらをまた集めて海に放つという水の循環も、TPPなどで米作農家が激減するような事態になったら、大きく変わるでしょうね。