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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

棄てられる短編  時差・2

2012-10-01 14:10:06 | インポート
 昨日の続きですが、これのみお読みいただいても結構です。
 またこれを先にお読みいただいて昨日のものをお読みいただいても自由です。


            

         時差              六文銭太郎


(承前)
 家を出たのは通常の時間だった。
 ほんとうは向こうへ着いてから、いつのも仕事の前にしなければならないことがあったので少し早めに出なければならなかったのだが、つい、いつもの時間になったてしまったのだ。
 まあ少しとばせばなんとかなるだろうと車を走らせた。

 いつもの交差点が前方に見えた。直進の黄色が消え、右折の矢印が出て二、三台の車が右折をし始めたところだった。
 「間に合うだろうか」
 と自問した。その時、通常の仕事の前にするべきことがったのが頭をかすめた。
 「間に合わせよう」
 アクセルを踏んで加速し、突っ込んでいった。
 交差点の少し手前で信号が黄色になり矢印が消えた。
 少しひるんだが
 「まだ間に合うはずだ」 
 という判断が勝り、さらに加速した。

 ハンドルを右に切り続けると、タイヤが不気味にきしみ必死に路面を捉えようと甲高い悲鳴を上げた。
 「よし、もう少しで曲がりきれる」
 と安堵しかかったとき、視界にいち早く飛び出してきた大型トラックが迫ってきた。
 「あっ」
 とばかりに渾身の力でブレーキを踏んだ。
 結果的にはそれが良くなかったのだろう。
 車は完全にコントロールを失って、吸い込まれるように大型トラックの前部に接近していった。

 「どこかで見た風景だ」
 という思いが頭をかすめたが、思い出す間もなく、大型トラックのボディが視界全体に広がり、いままで経験をしたことのない衝撃が全身を貫いた。
 一度痛打した頭部が不自然にねじ曲がった。

 その時、確かに見たのだ。
 大型トラックに遅れて一台の乗用車が止まっていて、その運転席で満面の恐怖と驚愕をたたえて自分のほうを見ているもうひとりの自分を。

 そしてそれが最後に見たものであった。
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2 コメント

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Unknown (杳子)
2012-10-01 22:45:33
連作拝見して思い出したこと。
学生の頃、研究室で駄弁っているときに、ふと私が「時々、自分の声が耳に入って『私ってこんな声だっけ?』とびっくりすることがある」と言ったら、先輩の一人が「それは離人症おこしとるんや」と言ったのです。
その先輩は、卒業を待たずに自殺してしまいました。
私はちょっとそのひとが好きだったので、かなり落ち込みました。もう30年近く前のことです。

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Unknown (六文錢)
2012-10-01 23:35:31
>杳子さん コメント有難うございます。

 これを書いた動機は単純で、作中にも述べましたようにある日、毎日通る交差点に九〇度違う角度でさしかかり、「へぇ、ちょっと視角が変わるだけでこんなに感じが変わるんだ。そうするといつもはあちらから右折をしてきて・・・」などと考えているうちに思いついただけです。
 
 自分が自分を見てしまうのを西洋ではドッペルゲンガー現象といって、それを見たひとは死んでしまうともいわれていますね。
 
 ある程度親しかったひとの自死、二、三度経験していますが、衝撃的であると同時に後味が悪いものが残ります。
 一度は私宛の遺書がありました。
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