今回の旅のメインは、現地に住む旧知のNさんの取材によるオーラル・ヒストリーの中国語の出版本を、その取材に応じてくれた人々に配って歩く行脚に便乗し、それらの人たちやその暮らしぶりに接することでした。
Nさんの取材対象がほとんど山の民でしたから、発展著しい中国というより、そこから取り残され、今後どうなるかわからないという何百年も続いてきた伝統的な風習の中に生きる人々との接触が主になりした。
山羊を飼う人
<蛇足>私が訪れた山の村々では、おそらくそこを訪れた最高齢の日本人だと思います。戦争時、日本軍が徘徊していはましたが、おそらく軍には73歳の老人はいなかったはずです。誰かギネス・ブックに登録してくれないかなぁ。
とはいえ、その往復の途次で立ち寄った大都市の様相はたとえ不十分とはいえ目に入り、それと山の人々の暮らしとのあまりにも激しい落差に思わずめまいを覚えたほどでした。
積み上げられたもの 厳冬期の防風用だろう
それもあってか、まとまったかたちで今回の旅を叙述するには今なお脳が激しく攪拌されたままでとても困難なのです。
今のところは、気づいた点をメモ風に書き残すのがやっとという有り様です。
以下がそれです。
村のお葬式 黒い門は風船式 空気を抜けば撤去できる
*山の村へ到着して最初に見聞したのがそのお葬式風景だったのは象徴的でした。
とりわけ、楽隊も入ったそのきらびやかな儀式は、日本のそれのしめやかさとは対照的でした。
そこには人の死生観(中国では生死観というらしい)が顕れているようです。
日本では仏教の、とりわけ浄土宗や真宗の影響もあって、無常観が中心になるようです。
しかしこちらでは、その一生を成し遂げて土に還ったというその帰還に力点があるのではないでしょうか。
日本や仏教の輪廻という考え方が「生命」の輪廻に限定されているとしたら、この地でのそれは「大地からいでて大地へ還るというもう一つ異なる円環」があるのかも知れません。
村の谷あい これに沿った道が時折崩落するという
*こんなのどかな山村が、すぐる日中戦争の折、その戦禍に巻き込まれ、大勢の人命などが失われたことはショックでした。
そのクライマックスが、賀家湾村の一挙に273名がヤオトンに通じる洞窟でいぶし殺された(私たちから言えばいぶし殺した)1943年12月19日から20日にかけての出来事でした。
当時私はすでにこの世に生を受け、大きくなったらお国のために憎っくき敵をやっつけるのだと固く決心していたのです。
しかし、そのとき、私と変わらぬ歳の幼児や少年たちもこの洞窟で理不尽な死を迎えていたのです。
100年前のヤオトン住居跡
*それからの連想です。
結果として日本は敗戦したのですが、もし勝利を収めていたとして、この広~い中国を統治し得たでしょうか?
おそらくそれは、軍事的経済的優位をもってしても無理だったろうと思います。
黄河
*さらにそれからの連想です。
現在中国は共産党の一元的な支配下にあります。そして人民共和国を名乗っています。しかし、この国がスーパー資本主義の道をまっしぐらに進んでいることもまた周知の事実です。
ここにはある種の虚構というべき背理があります。
そして、それを指摘することはたやすいのですが、しかしながら中国は、方便としてであれその虚構を今のところ必要としているのではないでしょうか。
もちろんこれは、論理や倫理を越えたリアルポリティックスの世界ですが、その虚構の失墜は同時に中国という巨大な民の集合体が崩れる瞬間だと思うからです。
やがてその瞬間が来るかも知れません。
そのとき、様々な悲惨が到来する可能性があります。
都市の住民や、あの山の民をも巻き込んで・・・。
そしてまた、近隣の日本というこの国をも巻き込んで・・・。
天安門広場 手前の塔が人民英雄記念碑 その後ろが毛主席記念堂
*どんな国にでもその地域差や格差はあります。
しかしこの国のそれは一段と凄まじいのです。
やや大げさに言えば、古代農耕文明とポスト・モダンとが共存しているようなものなのです。
ほんらい通時的なものが共時的に併存し展開されているといってもいいかも知れません。しかもその間を多様な価値観がアト・ランダムに交錯しているのです。
それは同時にこの国の時間的な広がりと空間的な広がりの巨大さをまざまざと示しています。
太原の市街風景
それらの片鱗に接してきた今、私はその抗うことのできない茫漠たる事実性の前にうちのめされ、己の卑小さに打ち震えています。
若いころ、自らの行為によって日本という国と、そして世界をも変革できると思い上がった私は何だったのでしょう。
私は往時、硬直した理論の槍を掲げ、自分が勝手に思い描いた風車(=世界)へ立ち向かうドン・キホーテではなかったかと思うのです。
もちろんこれは、現状に甘んじ、理不尽に屈せよといっているのでは決してありません。
私自身、それは譲れぬところです。
上に記したのは、形而上学的に思い描いたある思想やイデオロギーにこの現実の世界を力ずくで押し込めようとした私のうちの「暴力」への反省なのです。
宵闇の北京西駅前
*この日記で述べてきた事実は多かれ少なかれ衝撃的なものでした。
私はこうした現実を目の当たりにして、自分が安住すべきポジションを見失ったかのようです。
しかし、中国の都市の民、山の民、そして私をも貫いて呼びかける一つの言葉があります。
それはハンナ・アーレントの、「ひとは必ず死ぬ。しかし、死ぬために生まれてきたのではない」という言葉です。
この言葉に励まされ、これからもヨタヨタと生きてゆきます。
中国での経験はまだ未消化ですが、私の生きるよすがに、ひとつの大きな参照項を与えてくれました。
それらを受け止めながら、私自身の最終章を生きてゆきたいと思います。
中国は広い 北京空港も広い 東京ドームがひとつや二つ落ちていても誰も気づかないだろう
この旅に私を誘ってくれ、滞在中は言うに及ばず、事前の段階から手取り足取り準備を進めてくれたNさん、日本の歴史(20冊は読んだという)にやたら詳しく、出来事の年号や武将の名前などがスラスラ出てきて私をタジタジとさせた通訳の温さん、そして同行した多士済々な方々へ、改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました。
2011・11・16 小春日和の岐阜にて
山の民の笑顔を偲びながら
Nさんの取材対象がほとんど山の民でしたから、発展著しい中国というより、そこから取り残され、今後どうなるかわからないという何百年も続いてきた伝統的な風習の中に生きる人々との接触が主になりした。
山羊を飼う人
<蛇足>私が訪れた山の村々では、おそらくそこを訪れた最高齢の日本人だと思います。戦争時、日本軍が徘徊していはましたが、おそらく軍には73歳の老人はいなかったはずです。誰かギネス・ブックに登録してくれないかなぁ。
とはいえ、その往復の途次で立ち寄った大都市の様相はたとえ不十分とはいえ目に入り、それと山の人々の暮らしとのあまりにも激しい落差に思わずめまいを覚えたほどでした。
積み上げられたもの 厳冬期の防風用だろう
それもあってか、まとまったかたちで今回の旅を叙述するには今なお脳が激しく攪拌されたままでとても困難なのです。
今のところは、気づいた点をメモ風に書き残すのがやっとという有り様です。
以下がそれです。
村のお葬式 黒い門は風船式 空気を抜けば撤去できる
*山の村へ到着して最初に見聞したのがそのお葬式風景だったのは象徴的でした。
とりわけ、楽隊も入ったそのきらびやかな儀式は、日本のそれのしめやかさとは対照的でした。
そこには人の死生観(中国では生死観というらしい)が顕れているようです。
日本では仏教の、とりわけ浄土宗や真宗の影響もあって、無常観が中心になるようです。
しかしこちらでは、その一生を成し遂げて土に還ったというその帰還に力点があるのではないでしょうか。
日本や仏教の輪廻という考え方が「生命」の輪廻に限定されているとしたら、この地でのそれは「大地からいでて大地へ還るというもう一つ異なる円環」があるのかも知れません。
村の谷あい これに沿った道が時折崩落するという
*こんなのどかな山村が、すぐる日中戦争の折、その戦禍に巻き込まれ、大勢の人命などが失われたことはショックでした。
そのクライマックスが、賀家湾村の一挙に273名がヤオトンに通じる洞窟でいぶし殺された(私たちから言えばいぶし殺した)1943年12月19日から20日にかけての出来事でした。
当時私はすでにこの世に生を受け、大きくなったらお国のために憎っくき敵をやっつけるのだと固く決心していたのです。
しかし、そのとき、私と変わらぬ歳の幼児や少年たちもこの洞窟で理不尽な死を迎えていたのです。
100年前のヤオトン住居跡
*それからの連想です。
結果として日本は敗戦したのですが、もし勝利を収めていたとして、この広~い中国を統治し得たでしょうか?
おそらくそれは、軍事的経済的優位をもってしても無理だったろうと思います。
黄河
*さらにそれからの連想です。
現在中国は共産党の一元的な支配下にあります。そして人民共和国を名乗っています。しかし、この国がスーパー資本主義の道をまっしぐらに進んでいることもまた周知の事実です。
ここにはある種の虚構というべき背理があります。
そして、それを指摘することはたやすいのですが、しかしながら中国は、方便としてであれその虚構を今のところ必要としているのではないでしょうか。
もちろんこれは、論理や倫理を越えたリアルポリティックスの世界ですが、その虚構の失墜は同時に中国という巨大な民の集合体が崩れる瞬間だと思うからです。
やがてその瞬間が来るかも知れません。
そのとき、様々な悲惨が到来する可能性があります。
都市の住民や、あの山の民をも巻き込んで・・・。
そしてまた、近隣の日本というこの国をも巻き込んで・・・。
天安門広場 手前の塔が人民英雄記念碑 その後ろが毛主席記念堂
*どんな国にでもその地域差や格差はあります。
しかしこの国のそれは一段と凄まじいのです。
やや大げさに言えば、古代農耕文明とポスト・モダンとが共存しているようなものなのです。
ほんらい通時的なものが共時的に併存し展開されているといってもいいかも知れません。しかもその間を多様な価値観がアト・ランダムに交錯しているのです。
それは同時にこの国の時間的な広がりと空間的な広がりの巨大さをまざまざと示しています。
太原の市街風景
それらの片鱗に接してきた今、私はその抗うことのできない茫漠たる事実性の前にうちのめされ、己の卑小さに打ち震えています。
若いころ、自らの行為によって日本という国と、そして世界をも変革できると思い上がった私は何だったのでしょう。
私は往時、硬直した理論の槍を掲げ、自分が勝手に思い描いた風車(=世界)へ立ち向かうドン・キホーテではなかったかと思うのです。
もちろんこれは、現状に甘んじ、理不尽に屈せよといっているのでは決してありません。
私自身、それは譲れぬところです。
上に記したのは、形而上学的に思い描いたある思想やイデオロギーにこの現実の世界を力ずくで押し込めようとした私のうちの「暴力」への反省なのです。
宵闇の北京西駅前
*この日記で述べてきた事実は多かれ少なかれ衝撃的なものでした。
私はこうした現実を目の当たりにして、自分が安住すべきポジションを見失ったかのようです。
しかし、中国の都市の民、山の民、そして私をも貫いて呼びかける一つの言葉があります。
それはハンナ・アーレントの、「ひとは必ず死ぬ。しかし、死ぬために生まれてきたのではない」という言葉です。
この言葉に励まされ、これからもヨタヨタと生きてゆきます。
中国での経験はまだ未消化ですが、私の生きるよすがに、ひとつの大きな参照項を与えてくれました。
それらを受け止めながら、私自身の最終章を生きてゆきたいと思います。
中国は広い 北京空港も広い 東京ドームがひとつや二つ落ちていても誰も気づかないだろう
この旅に私を誘ってくれ、滞在中は言うに及ばず、事前の段階から手取り足取り準備を進めてくれたNさん、日本の歴史(20冊は読んだという)にやたら詳しく、出来事の年号や武将の名前などがスラスラ出てきて私をタジタジとさせた通訳の温さん、そして同行した多士済々な方々へ、改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました。
2011・11・16 小春日和の岐阜にて
山の民の笑顔を偲びながら