岐阜から久々に名鉄電車に乗った。着いたのは中部国際空港。ここは知多半島の西側。
その後、同じ知多半島の東側、河和口にも行ったが、それは次回。
1940年代中頃、幼かった私にとって、飛行機はアンビバレンツ(両価的)なものであった。
飛行帽にゴーグル、白いマフラーの特攻隊員は私のヒーローであった。むろん、彼らの置かれた極限状況など知る由もなく、ただそのかっこよさに憧れていたのだ。
しかし、44年、サイパン島が米軍の手に落ち、本土空襲が日常化するにつれ、飛行機は、とりわけ腹の底に響く重奏低音を伴うB29の爆音は恐怖の対象になった。
大垣の郊外に疎開していたにも関わらず、近くの紡績工場が軍需工場に変わっていたのを米軍は見逃すことなく、焼夷弾を雨・霰と降らし、なかには爆弾も混じっていた。そのうちのひとつが私たちが避難していた防空壕の至近距離に落ち、その衝撃でその防空壕の入り口が崩壊し、大人たちがそれを必死で手で掻き分けて、やっと脱出することが出来たのだった。
以来、飛行機の爆音そのものが恐怖の対象になった。敗戦が決まった後も、爆音が聞こえると目を泳がせてとっさに身を隠す場所を探すという状態が続いた。それは何年も続いた。当時、日本の上空には米軍機しか飛んでいなかったから、それは自然であったかもしれない。
それが今は、のんびりと飛行機の群れを観るためにわざわざ電車に乗ってやってくるのだから、平和ボケ以外何ものでもあるまい。ましてや、今なお空爆が続いていて、あの時私が抱いた恐怖心を日常的に覚えている人たちがいる地域があるというのにだ。
しかし、飛ぶという機能に特化された飛行機は美しい。もはやその形状などにおいて特異なものは少ない。一時期のコンコルドのような個性的なものはもうない。ただ、ある差異はその色彩やその塗り分けのようなものである。
いま言ったことにまったくそぐわず関係はないのだが、私の好きなのに石川啄木の「飛行機」という詩がある。
飛行機
見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。
給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたった二人の家にゐて、
ひとりせっせとリイダアの獨學をする眼の疲れ・・・・・
見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。
この詩は、1911年6月27日に作られたという。今から112年前のことだ。このとき、啄木が見た、ないしはイメージした飛行機はどんな形状のものだったろうか。ちなみにライト兄弟が有人飛行機の初飛行に成功したのは1903年のことだから、この詩はそれからわずか8年後のものである。やはり彼の頭脳にあったのは複葉機だったのだろうか。
*彼の詩集(斎藤三郎・編)では、この詩のあとに、やはり私が好きな「はてしなき議論の後」が続く。
ゴテゴテ書いてしまったが、以下は当日、撮してきた飛行機の写真。着陸、待機、離陸など入り乱れたまま。