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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

『夢十夜』と『ユメ十夜』、そして夢

2007-02-17 00:30:04 | よしなしごと
 1906年、夏目漱石『夢十夜』という、文字通り十の夢を集めた短編小説を書く。

原作については『夢十夜』でググると、全文掲載のものが出てくる。短いのですぐ読める。
 
 それから百年、2006年にそれを題材とした映画が出来た。今、名古屋地区で上映している『ユメ十夜』である。百年後というのは、夢の中にも再三出てくる時間の単位であってみれば、この企画はタイムリーであろう。
 それを観てきた。

       

 映画は、それぞれの夢を、10人の監督が映像化するといういわゆるオムニバス形式のもので、監督の名前を挙げれば、実相寺昭雄(この映画のあと故人となる)、市川昆、清水祟、清水厚、豊島圭介、松尾スズキ、天野嘉孝&河原真明(アニメ)、山下淳弘、西川美和、山口雄大で、この順で1夜から10夜までを撮っている。

 いちいちの作品について述べると長くなるので、夢というのは一体なんなのか考えてみよう。
 私が、フロイトなどから学んだ限りでのおさらいであるが、むろん専門家でも何でもないので穴だらけの説明である。

      
 
 人間を、二つの部屋をもったものとして考えてみよう。
 ひとつの部屋は、きちんと整頓され、ひとつひとつのものも輪郭は明白で、ある程度秩序だっている。これが意識の部屋である。ひとはここでは、自分が何であり、何であろうとしているのか、世界とどう関わっているのかといった像をもっている。

 しかし、もうひとつの部屋があって、そこでは、不定形でよく分からないもの達が、ゴチャゴチャしている。そして、それらは、さっきいった整頓された部屋の方へと行きたがってひしめいている。
 ところが、その部屋とさっきの部屋との仕切には、恐い番人がいて、そのゴチャゴチャしたもの達が別の部屋へ行くことを阻んでいる。

 ところで、先ほどのきちんとした部屋の方の住人である「私」は、もうひとつ部屋があることも、そこの仕切が番人によって守られていることも知らない。
 
 もうひとつの部屋にあるもの、それがいわゆる無意識である。それらは、私がそぎ落としてきたさまざまな欲望や、禍々しい願望であるかもしれない。「父を殺したい」、「母と寝たい」、「世界を破壊したい」という、してはならないこと、言葉に出来ないこと、考えることさえ許されないこととして、抑圧されてきたもの達。

 でも、とき折り、そのもうひとつの部屋の魑魅魍魎たちが、番人の制止を振り払ってもうひとつの部屋へ侵入することがある。なんかでショックを受けたり、急いでいたりで、番人がちゃんと機能しないときである。
 しかしこの番人、意外としっかり者で、その場合でも、別の部屋への移動を必死で阻止するため、魑魅魍魎たちはまるまるそのままでは、整頓された部屋へ行けるわけではない。

 それは断片に、言い間違いや、錯覚、錯視、行動の誤り、などとして現れるのみである。
 「アレッ、何でこんないい間違えをしたんだろう」とか、「ア、何でこんな大事なことを忘れていたんだろう」とか、「あれ、こっちへ来るつもりじゃぁなかったのに」といった具合である。

         


 もうひとつ、番人の力がゆるむことがある。これは睡眠時で、この番人の力が弱まった折りに出てくるのがである。しかし、ここでも番人はしっかり者で、やはり魑魅魍魎をそのまま整頓された部屋へ入れない。
 そこでは、いろいろな加工や変形によって、魑魅魍魎は姿を変えさせられる。
 だから、夢は、時間軸や空間軸がでたらめで、人や物の形式論理的同一性が失われ、一貫性を欠く場合が多い。さらにそれには、覚醒時の想起(思い出し)によって加工が加えられるので、一層なんだか分かりにくくなる。

 それを解きほぐし、夢の言語を翻訳し、魑魅魍魎の正体を突き止めるのが夢分析や夢解釈であるが、それは一般に考えられるよりはるかに困難を伴う。細木数子のいい加減なはったりとはわけが違うのだ。

 まず夢を見た人の生後以来のキャリア全般、近い過去で経験したり印象に残ったことなどを掌握した上で分析されねばならないのだ。というのは、夢はその材料を洒落や連想による言葉遊びのように、どこからでも拾ってくるからだ。
 よほど修練を積んだ分析士でもっても困難な作業なのである。

以上は私のつたない解釈に過ぎないので真面目なフロイディアンからな怒られそうだし、それ以外の方からの異論もあろう。
 なお、部屋の例は、分かりやすくするために挙げた例で、実際にそんな部屋があるわけでもないし、「意識」というものや「無意識」というものがあるわけではない。
 それは、「はたらき」に付けられた名前と了解して頂きたい。


 さて、夢一般についてはこの辺にして、映画に戻ろう
 この映画にしても、別に夢が解き明かされるわけではない。漱石が文字で表記した夢を、映像化したに過ぎないからだ。しかも、ここには監督自身の受容の仕方や解釈が入っているので、余計に事態は複雑である。

 実際に原作と比べてみると、第2夜の市川昆や第3夜の清水祟(それ第7夜のアニメ)のように、割合原作に近い筋書きを追ったものと、思い切ったデフォルメを施したものとがある。
 どれが好みかは観る人によって違うだろうが、まあ、じっくり映像化されたものを鑑賞するという点では贅沢な映画ではある。まるで、幕の内弁当のように、沢山の味を楽しめだから。

 私の個人的な好みからいえば、1、4、6、7、9夜などであった。
 なお、第10夜は、あれはあれでありとしても、最後の締めとしてはどうも坐りが悪いように思ったのは私だけであろうか。
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