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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

無骨な英雄・木曽義仲と無敵の女性武者・巴御前

2020-04-10 01:28:49 | 歴史を考える

 もともと蟄居同様の生活を送っているところへもってきてこの騒ぎ、ほとんど外出しないから新たな出会いもないし、ひたすら身辺雑記のようなことを書いたり、過去の思い出の引き出しから何かを手繰り寄せるしかない。
 しかし以下は、それほど過去の話ではなく、外出規制が今ほど厳しくなかった三月下旬に訪れ、印象に残った箇所についてのレポートである。

 場所は大津市内の義仲寺。「ぎちゅうじ」と読むが木曽義仲の墓所がある寺である。
 源平合戦といえば、西方へ逃走する平家を追って、その滅亡まで戦った源義経がもっぱらそのハイライトを占めているが、その平家一門を京の都から追っ払ったのが他ならぬ木曽義仲(『平家物語』では朝日将軍あるいは旭将軍とも呼ばれている)だった。

          
 義仲は頼朝や義経兄弟にとっては従兄弟にあたり、もともとは武蔵国の出身だが、子供の頃、源氏の内紛で殺されそうになり、信濃の国に逃れた。木曽義仲と称せられる所以である。
 そんな形で僻地へ追いやられたにもかかわらず、源氏としてのアイディンティティはもち続けたようで、一一八〇年、天皇の一族、以仁王による平家打倒の呼びかけにいち早く参戦している。

 義仲の武勇はいろいろ語られているが、私の少年時代、読んだもので強く印象に残っているのは、いわゆる倶利伽羅峠の戦いである。何かの本で読んだのだが、講談のようなものでも聴いたかもしれない。
 挙兵はしたものの平家十万の大軍に押しに押され、北陸路へと追われた義仲軍は、加賀と越中の国境、倶利伽羅峠で反攻に転じる。
 
 その折の作戦が奇抜だった。夜陰、数百頭の牛の角に松明をくくりつけ、火を点じるとともに平家の軍勢をめがけて放ったのだ。その奇襲により平家軍は大混乱に陥り、それに乗じた義仲は、一挙に優勢に立ち、一気呵成に京にまでのぼりつたのだった。

        
 この話は『源平盛衰記』にあるのだが、中国の故事のパクリだとか、松明に火をつけられた牛が前方に進むのか、という無粋なイチャモンを付けるのがいるが、そんな事はいいのだ。
 考えてもみるがいい、松明を灯した無数の牛が、夜の倶利伽羅峠を雪崩のごとく駆け下るその壮観さを!
 少年の頃の私は、すっかりその光景の虜になった。後年、この場所を通った折、暗い谷間から、炎とともに押し寄せる牛の大群を幻視したものだ。

 こうして京に入った義仲であったが、当初は平家の抑圧を取り除いてくれた救世主と、天皇家や公家たちに寵愛されたものの、やがてその田舎育ちの無骨なナイーヴさが疎まれるようになり、鎌倉方の源氏に暗に追悼の命令が出され、数万の軍勢を率いた義経が京へと出兵することとなる。

 紆余曲折はあったものの、鎌倉方の義経軍との対決では宇治川の戦いで敗れ、さらには瀬田に戦いにも敗れることとなった。それも道理で、義経軍が万単位であったのに対し、いろいろな経過で消耗し尽くした義仲の軍勢は数百単位のにしか過ぎなかったという。

               
 この過程にも少年の私を惹きつけたひとつの物語があった。それは義経軍の佐々木高綱と梶原景季の「宇治川の先陣争い」といわれるもので、高綱が「馬の腹帯が緩んでいる」と今でゆうところのフェイク情報を景季に伝え、これに気を取られた景季がそれを確認する間に、高綱が先陣を果たすというもので、まあ、これは、機知というか詐術というか、あまりフェアではないと思ったものだ。

 義仲に話を戻そう。敗北に敗北を重ねた義仲の軍勢は、ついには今井兼平ら側近の数騎を数えるのみとなり、現在の大津市の粟津(琵琶湖畔)で、ぬかるみに馬の足をとられたところを討ち取られたという。
 一一八四年、享年はわずか三一歳であった。

             
 義仲について語る際、その戦いに付き従った大力にして強弓の女性武者、巴御前を外すわけにはゆくまい。彼女の凛々しい武者姿は、やはり子供の頃、絵本か何かで見て強い印象を残したものだ。
 彼女は、義仲敗走の折の最後の七騎に残っていたが、最後まで行動をともにすると譲らない彼女に、義仲は、お前は生き延びよと強引に別れを告げたという。『平家物語』によれば、その折、巴御前は、「ならば最後のわが戦いを見よ」とツワモノとして知られた敵将の首をねじ切って倒したあと、鎧、兜を脱ぎ捨てて静かに姿を消したという。
 なんともしびれる去り際ではないか。

 この義仲の最後といい、後の義経の最後といい、戦さや革命で、最前線で戦った者たちが、その後に現れた「政治家」や「官僚」の権力行使により、むしろ邪魔者として排除される図式がみてとれるようにも思われる。そうした実直で不器用な者たちに対し、後世、それを憐れみ、共感を抱く者たちが現れることは想像に難くない。

 それらの人々が出会う場所のひとつが、この小文を書くはじめた際に述べた義仲寺であるのだが、すでに充分長くなりすぎた。ユニークなこの寺の内容については、後日に述べることにする。

コメント
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