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引き裂く力に抗して 映画『判決、ふたつの希望』を観る

2018-09-15 15:27:29 | 映画評論
             

 レバノンを舞台にした映画である。したがって当然、レバノンの具体的な諸条件が背後にあるが、それが実に錯綜していて簡単ではない。ただ、70年代後半から約20年間、各勢力入り乱れての内戦が続き、それが現代にまで尾を引いていることは確かだ。
 現在のレバノンは、キリスト教徒の集団、イスラム教・スンニ派、同・シーア派などの勢力に比例する議員が選出され、それが中核となっている国家なのだが、それにイスラエルの拡張政策によって発生したパレスチナ難民、さらに近年は隣国シリアの政情不安による難民なども増え、決して安定しているとはいえない。

          

 そんな背景のゆえに、この映画で描かれるような当初は「個人的な侮蔑(この映画の原題はTHE INSULT=「侮蔑」)に端を発した小競り合いが、当事者の思惑をも越えて法廷にまでもたらされ、それが長引くことによって国を二分する勢力争いにまで膨れ上がる。
 そうした情勢は、当事者である自動車修理工場を営むキリスト教徒のトニーとパレスチナ難民で各種インフラ工事の現場監督であるヤーセルを、彼らの本意ではないところへまでもち上げ、それぞれを支持する側のヒーローに祭り上げられるに至る。

          

 法廷でのそれぞれの代理人(弁護士)による丁々発止のやり合いの中で、内戦時やその後に彼らが関わった過去の諸事件が、ある種のトラウマのように二人を捉えていることも明らかにされる。だからこそ、「当事者の個人的な」トラブルが国を挙げての勢力争いにまで発展し、ついには、大統領が仲裁役を買って出る事態になる背景は厳然として存在しているといえる。

          

 結局、それは法廷での結論に委ねられるのだが、その落とし所はまあまあ妥当といえるだろう。
 このように書いてくると、いわゆる法廷ドラマの感があり、事実、法廷場面がかなりを占めるが、それ以外の二人の出会いややりとりがけっこうあって、むしろそちらの方で「事実」は進展してゆく。
 ネタバレを避けるために遠回しな言い方になったが、つまるところ、事態は結局、この二人のドラマに収束される。それは同時に、悲劇の拡散を防ぐことにもなっている。現実にそんなにうまくゆくかなという思いは残るが、そのギリギリのところがこの映画のツボなのだろう。

          

 ところで、この映画の主人公は上に述べたようにトニーとヤーセルなのだが、あえてもうひとり(?)を挙げるなら、彼らをその当事者性を超えて引き裂く力といっていいだろう。それは、勢力争いの力、宗教やイデオロギーの力なのだが、その見えざる力を振り払うところにこの映画の眼目はあるようだ。
 法定外での二人の接触は、二人の当事者が、それを利用しようとする外在的要因(もうひとりの主人公=力)を振り払って、その当事者性を取り戻すドラマともいえる。

          

 「ヒューマンな感動作」というのが謳い文句だが、そのヒューマンなものはつねにより強大な現実的な力に晒されているのであって、けっしておいそれと一般的に可能なものではない。それを顧慮することなく、無前提のヒューマニズムを云々しうるのは、この国のように平和ボケした「一見」無風国家に住む者のみの特権なのかもしれない。
 
 トニーの「動」とヤーセルの「静」という二人の演技が光る。
 加えて、それぞれの代理人(弁護士)の男女の演技も。実はこの二人、ある特殊な関係にあるのだが、それは観てのお楽しみというところか。
 けっこう意外性に富んだエピソードが次々に出てきて、飽きさせない演出であった。

コメント
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