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故郷喪失の忘却と3・11がもたらしたもの  小林敏明氏の評論を読む

2018-07-23 16:45:42 | 日記
 昨日、外気が40度で脳味噌の沸点に至るような条件下で、私の友人が「文學界」(8月号)に連載し始めた評論を読んだ。
 小林敏明、「故郷喪失の時代 フクシマ以後を考える」がそれで、彼は今、ライプツィヒ大学教授で専攻は哲学、手軽に入手できる著作としては「夏目漱石と西田幾多郎 共鳴する明治の精神」(岩波新書)などがある。

 ということで一通り読んだが脳みそがグラグラする中では文字を追うのがやっとで文章の意味関連や論旨の概要がうまく整理できない。ということで諦めて中断。
 熱帯夜であまり熟睡できなかったが、脳内温度が少し下がったのを見計らって、午前からもう一度読み始める。

          

 さて、「故郷喪失」が一つのテーマなのだが、脳天気な私は、いつだって時代は故郷喪失だぐらいに思っていたのだが、筆者の観察によれば、1980年辺りから故郷喪失ということそのものが忘却され、人々の意識から遠ざけられたというのだ。
 1980年代といえば「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が叫ばれ、東大や京大でも政党支持で自民党が第一位になった頃であった。特にこの政党支持には驚いた覚えがある。私の在学中などは、自民党支持などと言おうものなら、その知性は無論、人格的にも著しい欠落があることは自明とされたものだった(実は密かにいまもそう思っている)。

 それはともかく、そうした表層から消されたかのような故郷(喪失)の問題が、3・11の原発事故による、もはや住めない故郷の存在があらわになるという決定的なその喪失によって改めてクローズアップされることとなった皮肉な事態を筆者は指摘する。

             

 ようするに、故郷を再生存続させるために原発を誘致し、その結末がその故郷そのものを失うこととなったというこの皮肉な結果を、使用済み核燃料を再び核燃料として再生させる「夢の核燃料サイクル・もんじゅ」の不可能性が顕になったこととを重ね合わせ、「近代が不可避に生み出す矛盾を同じ近代の産物たる科学技術によって克服するという自己完結的なシステム」の破綻の例として筆者は捉える。
 それは同時に、近代は近代自身によって修復再生されながら永遠に続くという幻想の破綻でもあるとするのだ。

 故郷の問題に戻ってもうしこし平たく言うならば、自転車操業の土建屋政治で故郷を食い物にしてきた意地汚いサイクルの結果がフクシマの破綻であるというだ。そしてそれは、再びそのサイクルによっては修復不可能なはずなのに、再稼働への懲りない動きはまたしても・・・・ということにもなる。

 ここで文芸誌の評論であるからして、話は文学の分野に至る。
 まず筆者は、東京生まれにしてもとよりの故郷喪失者である小林秀雄などに代表される「抽象人」の透明さが「西洋文学の伝統的性格」を歪曲することなく理解し始めたことどもを紹介し、その系譜としての故郷を持たざる文学者たちをみてゆく。
 しかしながら問題は、故郷の有無ではなく近代そのものであること、一見ニュートラルな抽象人たちも、戦前、農村問題などを背景に一種の知的エスタブリッシュメントを形成していた公認「マルクス主義」との対決を自己形成のバネにしてきたことなどをみてゆく。

              

 文学関連は少し端折るが、面白いのは、それぞれ「路地」と「苦海」という強烈な「故郷」を背景にした文学、いうまでもなく中上健次と石牟礼道子のそれだが、筆者はそれらが、冒頭でもみた1980年代に「透明で抽象人の抽象世界の未来」へと、すなわち村上春樹の文学へととって代わられたというのだ。

 しかしである、フクシマという故郷破壊の厳然たる現実は、一見無味無臭の抽象人の存在をも根底から揺さぶるものであったはずだ。
 一見、故郷とは無縁のニュートラルな未来を標榜していようとも、それ自体がじつは無数のフクシマを背景にし、それらを不可視の下層に追いやることによって成り立っていたに過ぎないことを3・11はまた暴露したのであった。

             

 ここでこの評論は終わるのではない。
 むしろこれを前振りとしながら、後半は廃屋フェチの私が好きな(?)「瓦礫」をキーワードにして話が展開される。
 次回、引き続きそれを追いかけてみよう。
コメント
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