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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「国難」を叫び、日の丸を林立させる人たちのもたらす難儀

2017-11-14 12:07:06 | 日記
 過日、ある集まりで名古屋へ出た折、その駅頭で出くわした光景がある。
 街宣車の上に立つ男の大音響の演説を取り巻いて、日の丸の旗が取り巻いているのである。とっさに、去る総選挙の最終日、秋葉原での安倍首相の締めの演説を連想した。
 いわゆる右翼の街頭集会である。

          
 
 目にも鮮やかな日の丸が林立しているので、参加者は多そうだが、実際に数えたところ二〇人前後にすぎない。日の丸を掲げず、立ち止まってそれを聞いている人(その中には私も含まれるのだが)が何人かいて、それを含めても三〇人がいいところだろう。
 他の人たちは、そうした喧騒を無視して、むしろ逃れるように通り過ぎるのだった。

 ただし二枚目の写真に写っているように、主催者が用意した日の丸が数十本ほど束になって用意されていて、実際に集まったのはその思惑をかなり下回るものだということがわかる。
 しかし、たとえ二〇本の日の丸でも、それが立ち並ぶと、そのあでやかさから言って、もっと大勢の人たちがいるかのように思えるのである。

          
 
 写真を撮りながら、その演説を聞いた。
 それは、朝鮮半島の南北の国家と中国をとりあげ、レイシズムやヘイトスピーチとほとんど変わらない非難を浴びせ、取って返す刃で日本の諸政党をなぎ倒すものであった。

 共産党や立憲民主党に、さらには自民党内のリベラルと目される人を捉えての「売国奴」呼ばわりは分かるとしても、その非難が決して安倍政権並びに安倍氏へは及ばないことに特色がある。
 むしろ、それらの売国奴どもと闘って状況を切り開いているのが安倍氏だという位置づけで、何の事はない内容は安倍ヨイショという演説なのである。

 これは、かつて大音響で軍歌などを流して歩いたいわゆる「街宣右翼」ともかなり異なっている。街宣右翼は、左翼やリベラルへの攻撃は当然したのだが、同時に、自民党を中心としたその政権が生ぬるいとして、より過激な主張を繰り返していた。その意味で彼らは、右からの反体制派として公安のマークをも受けていたはずであった。

          

 この二〇本の日の丸を相手にした演説では、安倍氏に対する批判はいささかもなく、むしろ、「賢明な首相」としての安倍礼賛の言辞が続いた。これがかつての街宣右翼との大きな違いであると思われる。

 右翼自身が、そのピュアーな右翼性を投げ捨ててリアルな政権支持に回ったのか、政権そのものが右翼のイデオロギーをうちに秘めた存在になったのか、おそらくその双方が歩み寄ってこの種の街宣になったのであろうが、どちらかというと、現政権の右傾化が主であるともいえる。

 毎回の選挙最終日に見られる、安倍氏の街宣と、日の丸を林立させる集団との近親性が如実に感じられる一幕であった。

 こうした光景を、なんだか気味の悪いものとしてつい忌避してしまう私は、戦後民主主義の洗礼のなかで、民族の魂を失った「売国奴」として糾弾される立場にある。

 私自身としては、無批判に国家を礼賛することへは決して与みし得ず、国家の名においてなされる民衆への過分な抑圧、規制こそが危険であり、それが過ぐる戦争の総動員体制を導いたものとしてむしろ断固として拒否したいと思っている。

 すぐる選挙で、安倍氏が掲げた「国難」は「国家の背負う難儀」の意味であるが、私たちが背負っている難儀はそれには決して還元されないこと、むしろ、「国難」の名のもとに私たちを同一のものとしてカテゴライズしようとするものに抗うことこそが、私の立場であり、実感であるとあらためて思った次第。
 








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