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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

かくて怠け者の秋はいぬめり

2017-11-10 20:04:48 | 写真とおしゃべり
 秋について何ごとか書こうと思って、それなりに写真を撮りためてはいたのだが、季節の歯車はガッタンと音を立ててめぐり、立冬を過ぎてしまった。

 生来の怠け者、それなりの用件がなければ冬眠の熊よろしく、自分の巣穴から動こうとはしない。
 実際のところ、日常の買い物などのほか、家を離れたのは名古屋での事務的な用件の2、3度を除いてはなかった。

   
               

 秋の行楽とか、紅葉狩りなどはほとんど無縁の世界であった。
 唯一の例外は、ウェルズ国立美術館の所蔵展を観に、岡崎美術館へ出かけたことぐらいである。
 岡崎美術館は、ここ何年か前、村山槐多展を観に来て以来2回目である。市の郊外の丘陵地帯にあって、そのロケーションはいいのだが、鉄道の駅とを結ぶバスが1時間に一本というのがいささか不便である。



 今回の展示で、とりわけ印象に残るものはなかったが、やはりターナーの絵に惹かれた。
 彼は港や海、あるいは産業革命真っ只中で、蒸気機関車や蒸気船などを描いているが、その対象よりもそれを取り巻く空気、あるいは気、ないしは雰囲気=アトモスフィアを描くのがうまいと思う。
 それを描ききることによって、その対象がまた引き立つという弁証法的な(?)作風だと勝手に思っている。

   
               

 なお、夏目漱石の「坊っちゃん」には、瀬戸内の風景描写に、「まるでターナーの絵」といった記述がある。彼はイギリス留学でその作品に触れたのであろう。
 岡崎美術館で多少の秋を見たものの、あとは身近な場所ばかりである。



 岐阜県立図書館と道一本を隔てたところには、私がウオッチングしているナンキンハゼの樹がある。つい先日行ったのだが、ちょうど五色に紅葉していた。
 五色というのは写真で見ていただくように、たいがいのナンキンハゼが赤単色に色づくのに、この樹は色とりどりに色づくのだ。
 その紅葉のなか、真珠を散りばめたような実が白く輝く。これぞ、ナンキンハゼのもっとも美しい瞬間であると私は思っている。



 最後は私んちの菊である。なんの手入れもしないまま、狭い庭の片隅で勢力を拡大しつつある。直径3センチほどの黄色単色の花をつけるが、この透明感のある黄色が好きだ。他所で咲いている菊を覗くが、この黄色はありそうであまりないような気がする。
 大きく一輪を撮したものには、小さなカメムシのような虫がいる。大きさは5ミリ以下である。もう一つ虫がとまっているのがあるが、これはハエではない。ハナアブの一種である。


   
               

 ご覧のようになんの手入れもしていない。よくみると雑草も混じっている。近年、草を引いたりするのがおっくうでそのままなのだ。そこで「ポジティヴな」言い訳を考えた。
 「世の中に雑草などというものはない。それはたんに、商品価値や利用価値、歴史的に形成されてきたに過ぎない人の美意識なるものによって選別されているに過ぎない。だから、それらを雑草として引っこ抜くのは、人の僭越なエゴに過ぎない」
 というのだがどうだろう。

 え?それは単に怠け者の屁理屈に過ぎないって?それに対しても「ポジティヴ」な言い訳を考えてある。
 「確かに私には怠け癖などの欠点がある。しかし、それは私の個性ではないか。それらすべてを是正したら、私はもはや私ではなくなってしまう」
 というものだ。

 というわけで、怠け者の「秋はいぬめり」である。
 「いぬめり」は以下のように使われている。
 
 
   契(ちぎ)りおきし させもが露を 命にて
             あはれ今年の 秋も去(い)ぬめり

      「百人一首」第75番  藤原基俊 『千載集』雑・1023より

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