いま日本でやっている絵画展でいちばんみたいのが国立新美術館で行われている「ミュシャ展」である。
http://www.nact.jp/exhibition_special/2016/alfons-mucha/
彼の名を一躍知らしめることになった女優、サラ・べルナールのポスター、あるいはその様式になる絵画群も知っているし、うちにはかなり大きなジグソーパズルになったものもあった。どこかで直接作品を見たこともある。
以前の名古屋でのクリムト展での関連展示であったろうか。
ついでながら、このクリムト展は、どういうわけか私にはいささか欲求不満を感じさせるものであった。
今回のミュシャ展でとりわけ観たいのは、晩年の連作、「スラブ叙事詩」だ。
これらの作品群は、自由と独立を求めて闘ったスラブ民族の歴史の描写というそのテーマ性もさることながら、その群像を描写する作家の視線の置き所、描かれた人物が定型化されず、それぞれの実存を秘めた眼差しを宿しているところなどだ。
いってみれば、これらの絵画はその事件や出来事を描いているのではなく、そこに立ち会った人々のそれぞれありようそのものが描かれているということなのだろう。
でも多分行けないだろうな。
老いの身にとっては東京は遠すぎる。それに、その絵画展にのみゆくにはもったいない。誰かと親しく話す機会でもあれば決心がつくのかもしれない。
ところでこのミュシャだが、1939年、チェコに侵攻してきたナチスにより捕らえられ、反ナチ的な民族意識の高揚を図るものとして厳しい尋問に晒された。しばらくして釈放されたものの、それがもとで体調を崩し、4ヶ月後には他界している。享年78歳はまさにいまの私と同年である。
なお、1945年、チェコはナチ支配から開放されたが、その後の共産党政権はミュシャの民族性のようなものを警戒し、その存在を黙殺し続けた。
ようするに、ナチズムからも、スターリニズムからも忌避されたということである。
もちろん観たいのはそれだけによるのではないが、いわゆるイデオロギー体制が忌避するもの、いってみれば何ごとも単一に統制したい者たちにとっての余剰が何であるのかを観てみたいとも思うのだ。
http://www.nact.jp/exhibition_special/2016/alfons-mucha/
彼の名を一躍知らしめることになった女優、サラ・べルナールのポスター、あるいはその様式になる絵画群も知っているし、うちにはかなり大きなジグソーパズルになったものもあった。どこかで直接作品を見たこともある。
以前の名古屋でのクリムト展での関連展示であったろうか。
ついでながら、このクリムト展は、どういうわけか私にはいささか欲求不満を感じさせるものであった。
今回のミュシャ展でとりわけ観たいのは、晩年の連作、「スラブ叙事詩」だ。
これらの作品群は、自由と独立を求めて闘ったスラブ民族の歴史の描写というそのテーマ性もさることながら、その群像を描写する作家の視線の置き所、描かれた人物が定型化されず、それぞれの実存を秘めた眼差しを宿しているところなどだ。
いってみれば、これらの絵画はその事件や出来事を描いているのではなく、そこに立ち会った人々のそれぞれありようそのものが描かれているということなのだろう。
でも多分行けないだろうな。
老いの身にとっては東京は遠すぎる。それに、その絵画展にのみゆくにはもったいない。誰かと親しく話す機会でもあれば決心がつくのかもしれない。
ところでこのミュシャだが、1939年、チェコに侵攻してきたナチスにより捕らえられ、反ナチ的な民族意識の高揚を図るものとして厳しい尋問に晒された。しばらくして釈放されたものの、それがもとで体調を崩し、4ヶ月後には他界している。享年78歳はまさにいまの私と同年である。
なお、1945年、チェコはナチ支配から開放されたが、その後の共産党政権はミュシャの民族性のようなものを警戒し、その存在を黙殺し続けた。
ようするに、ナチズムからも、スターリニズムからも忌避されたということである。
もちろん観たいのはそれだけによるのではないが、いわゆるイデオロギー体制が忌避するもの、いってみれば何ごとも単一に統制したい者たちにとっての余剰が何であるのかを観てみたいとも思うのだ。