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【花物語】グローバリゼーションと作られた花々

2016-09-14 11:31:01 | 花便り&花をめぐって
 小学校の高学年の頃、どういうわけか男の子のなかで、花の栽培が流行ったことがあった。もう65年ほど前のことだ。
 当時は借家住まいだったが、幸い、戦争中はサツマイモや野菜を作っていたというわが家の敷地と同じくらい空き地が隣接していて、そこでいろいろな花を育てた。実際のところ、そこの分は借地料を払ってはいなかったのだが、地主が父の知り合いで、当分、使う予定はないから花ぐらいは自由に植えていいよといってくれたのだった。

            

 思いつくままに列記すると、矢車草、貝殻草、コスモス、ホウセンカ、金魚草、百日草、セキチク、水仙、アサガオ、ヒマワリ、菊の仲間(思い出せないものもある)などなどであった。だいたいが育てるのに易しい花々であるし、借地ということもあって木に咲くものは避けていた。
 

            

 花屋さんへ行って袋入りの種を求めて蒔くのだが、うまく育たないものもあった。逆に、たくさん芽が出てそれぞれが育ちすぎるものもあった。そんなときは、それを間引いて、友人のところで余っているものと交換したりした。
 時折は、友だちと花の見せっこをするのだが、上に述べたような事情で、借家のくせに私の花の面積は一番大きかったと思う。まだ、ガーディニングという言葉も知らず、それら全体の配置などもほとんど念頭になかったから、まったく無政府的な植え方だった。
 今ではその配置すら思い出せないが、一つだけ記憶にあるのは、ホウセンカの株がとても多かったので、私の花壇の中央を通る通路の両側に植えたことである。赤、白、ピンクのそれらが、そこを通る者たちの足もとを飾っていて、とても満足した覚えがある。
 
            

 やがて父が岐阜駅の南口近くに自宅を新築し、そこへ移住したが、そこは敷地いっぱいに家が建つような状況で、花づくりをする余地はまったくなかった。同時に、少年の間での花づくりブームも終わりを迎えていたと思う。
 引っ越す際に、地主さんに植えてある花はどうしましょうと訊いたら、いいからそのままでということで済んだ。いくらそこを去るからといって、自ら種を蒔き育てた花々を引っこ抜くのはやはりはばかられた。

            

 ここでも何度も書いたが、野菜に仕入れはもっぱら農協でしているが、上に述べたような経歴があってか、その花売り場でも足を止める。もちろん伝統的な花々もあるが、私が子供の頃には見たことも聞いたこともない花々も多い。
 今年の春、私の畏友が亡くなって、その弔問の際に花束でもと思い、繁華街の花屋さんにいったのだが、その店頭を飾る花々は、見たことがあるぐらいのが僅かにあるほかは、ほとんど知らない花だった。そしてそれらの花々の名前は、ほとんどがカタカタ表記の外来種のようであった。
 農協の花売り場のそれも、そうした趨勢が強まった。伝統的な花々に混じって、外来種のそれがどんどん増えてくる。
 ユリやキクの仲間だとはわかるが、それらは単純に百合や菊ではない。

            

 決して外来種の到来を嘆いているわけではない。日本の伝統種と思われてる桜や梅だって、遠い昔の外来種だったのである。
 グローバリゼーションが加速しつつある現在、花の世界でもそれが急速に増えるだろうことは必然だからだ。心を広くもって、それらを拒むことなく、伝統種同様に愛でてゆきたい。
 共和党の米大統領候補のいうように、外来種到来を防ぐべく、高い塀をめぐらしても、しょせんは無駄な努力なのだから。
 もっとも、どんどん増え続ける新しい花々の名を、老いたる頭脳で収納し切ることはもはや無理だから、今後は興に任せて眺めるだけとしよう。
 人為的な交配や、遺伝子組み換えなどによって生み出されたものもあるだろう。そうした人為性にはいささかの抵抗もあるが、それが可能なのも、もともとその植物に内在していた可能性の発露によるものだと思うことにしよう。





コメント
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