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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

われらみな「迷惑」をかける存在

2016-07-27 23:40:33 | 社会評論
 以下は、本年三月に発刊した同人誌に私が載せた小論です。
 別に、今回の障がい者殺戮事件を予言したわけではありませんが、弱者切り捨てや、差異をもった者へのヘイトといった一般的な風潮の中で、ひしひしと感じるものがあって書いた一文です。かなり長くなりますが、今回の事件とも関連すると思い、あえて再掲いたします。


        
       
 かつて私は、無邪気にも自分は健常者であり、そうではない障がい者がいると考えていました。差別や排除をしたことはあまりないと思うのですが、ただし、同じ人間なのに気の毒にという同情や憐憫の気持ちはあったと思います。
 しかしながら、私が陥っていたそうした同情や憐憫も含めた「常識的な見方」そのものに、実は差別や排除に至る要因があるのではと次第に気づくようになりました。
 その契機はというと、障がい者という規定そのものが実は歴史的、地理的、政治的に事後的に規定された極めて恣意的な区分にすぎないと知ったことによります。ようするに「障がい者そのもの」などというものはどこにもないのです。

 ある地域のある文化においては双子は障がいとみなされ、その子供もその両親も忌避されたといいます。それは両親の妊娠中の性交の結果とみなされ、倫理的な批判の対象ですらあったといいますから非科学的で滑稽ともいうべきでしょう。
 老いること自体が障がいであるというのはわが国でも近年までありました。深沢七郎の小説「楢山節考」(一九五六年、木下恵介が五八年に映画化)はそうした背景によるもので、現に「姥捨」の地名は全国に散見できます。長野県の駅名や地名としてその存在は有名ですし、近くでは愛知県の豊橋市にもあるようです。
 しかし、この姥捨てはまだいい方で、直接、老人を物理的に始末したり、餓死させたり、あるいは自殺を強要することもあったようです。
 
 私はあるところで、「人類の歴史には、連綿として継承されてきたひとつの流れがあリます。それは、適者生存という原則をさまざまな差異を持った人たち、相対的に弱い個体にも拡散し、全体として共存して行く環境をつくろうという適者そのものの拡大の動きで、それが人間の文明といわれるものの内容をなしてきました」と書きました。しかし、それに至る過程のなかでは悲惨な事実もあり、そうした過程を経てやっと現状に至ったということでしょう。
 では障がい者とそうでないものの線引きは、その言葉の意味においては現実的にどのようにしてなされているのでしょうか。
 ちょっと変な言い方で抵抗があることを承知のうえでいうのですが、そのひとつのキーワードは「迷惑」ということにあるかもしれません。それは例えば、車椅子で通行したり公共の乗り物に乗車したりするのは迷惑だという非難が現実にあることからも伺えますが、他の人からの助力が必要であるという点からもいえるかもしれません。
 先にみた双子の例はともかく、老人の例でみれば、やがては介護など人の手助けを必要とする迷惑な存在といえるようです。さらにこの国の老人には、年金をいたずらに増大させているという暗黙の非難が重なります。
 重ねて、経済至上主義の立場からは、障がい者というものは生産性にほとんど寄与しないという面でもお荷物扱いされます。
 
 しかしここで考えなければならない点は、私たちの誰しもが、さまざまな点で周りの人たちへ「迷惑」をかけながら生きているということです。この世に生まれてすぐに、まったく自分ひとりで自給自足をしながら生きてきた人などというのはいません。多かれ少なかれ、ほかの人の力を借りながら生きているわけです。とりわけ生誕してから自活できるまでの年月が長い人類においてはそうなのです。
 だとするならば迷惑は万人が万人に対して依存しているという人間社会のありようそのものにほかならないといえないでしょうか。大金持ちが「俺はそれにたいしてちゃんと対価を支払っている」といっても事態は同じです。むしろ彼が大金持ちであればあるだけ多くの人たちの迷惑ないしは助力の上に生存しているとすらいえるのです。

(略)
 
 障がい者は迷惑をかける存在という規定は、しかし、その迷惑のおかげで成り立っている社会が既にあることを明らかにします。ようするに「迷惑」という観点からみればそれは万人に共通するものであり、したがってわれらみな障がい者、あるいはわれらみな健常者といえるのです。
 いうならば、障がい/健常の問題はこの世界における人間の複数性というあり方のなかで生み出される単なる差異にすぎないのです。にもかかわらずそれを労働生産性の効率などに一元化して捉えたり、社会的弱者として捉え、ただただ憐憫や同情のうちに福祉の対象とする立場は、少し条件が異なると、生産性や社会的効率を理由に、容易にそれらの切り捨て論に転じたりすることになります。
 冒頭に述べた、障がいについての常識論の限界です。
 
 現在この国で進められようとしている自己責任論的な新自由主義によるセーフティ・ネット縮小の動きは、その一環であると思います。 政権周辺には障がい者、老人、貧者などに対し憎しみを隠さないイデオローグもいます。そうした姿勢から打ち出される諸政策には薄ら寒いものがあります。
 前世紀、私達はその極端な例をみてきました。ナチスといえばユダヤ人抹殺を思い浮かべますが、それに先行して、あるいは同時進行的に障がい者も抹殺されているのです。その数は、三〇万人ともそれ以上ともいわれています。「あるべき」人間像を中心において、そうではないものたちを駆逐しようとする思想はとても危険なのです。
 
 これを書き終わった折、私は左腕の骨折のため入院を余儀なくされました。私もまた他者に「迷惑」をおよぼす存在であることを身をもって示したのです。

  
障「害」という文字の含意に反対し、障「がい」と表記しました。
この一文は『不穏なるものたちの存在論』(李珍景著・影本剛訳 インパクト出版会)の第四章「バクテリア:私たちはみなバクテリアだ」からの示唆を受けています。
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