明日、7月1日、岐阜サラマンカホールで、モーツアルト晩年のオペラ『魔笛』の公演がある。苦労して手に入れたチケットだが、最前列の端と、あまり場所は良くない。
レオシュ・スワロフスキー指揮、マルティン・オタヴァ演出、プラハ室内歌劇場管弦楽団、並びに、プラハ室内歌劇場合唱団によるものだ。
この歌劇、イングマル・ベルイマンの映画や、TVなどでは数回観ているが、ライブでは初めてである。
ストーリーもどこにどんなアリアがあるかもだいたい掌握しているし、公演に際しては字幕も出るとのことであるが、音楽に集中したいため、今一度予習をと思い、手元にあった、サー・コリン・デイヴィス指揮によるものを、海老沢敏対訳の台本を見ながら聴いてみた(この録音、面白くて、アリアの場面と語りの場面のキャストが異なっている)。
貴族や上流階級向けではなく、庶民をも対象とし、従って、イタリア語ではなくドイツ語で書かれた台詞入りの歌劇(シングシュピール)の台本は、初演の折りにパパゲーノ役をも演じたシカネーダーによるものだが、対訳を観て驚いたのは、アリアの詩の部分も、そして台詞の部分も、ヨーロッパ詩の伝統にのっとり、ちゃんと脚韻を踏んでいるということである。
ドイツ語に堪能な方からいえば、そんなこと当たり前だということであろうが、私にとっては新鮮な驚きであった。そう思って聴くと、脚韻を踏んだ歌は、それぞれ収まりが良いと思った。明日の本番でさらに確認してみよう。
ところで、魔笛の内容であるが、様々な解釈が成立する。
それは、この脚本が最初のモチーフから途中で変化しているからであるが、同時に、様々な対立軸、ザラストロと夜の女王、タミーナとパミーナのカップルに、パパゲーノとパパゲーナのカップルなどのそれぞれの位置づけが絡んでくるからだ。
一番大きな対立軸は、ザラストロと夜の女王にあるのかも知れないが、それを、その勝敗だけで観ると、単なる勧善懲悪に終わってしまう。
また、タミーノとパパゲーノは、同じ陣営の差異であるかに思われがちだが、彼らの生に対する構えは明らかに異なる。それはまた、パミーナとパパゲーナという二人の女性のの違いでもあり、この二人の男性への関わり方は対極的ですらある。
私としては、抹香臭い「道」を説いたり信じたりする側よりも、夜の女王やパパゲーノの奔放さと逸脱の方に魅力を感じる。
ひょっとして、モーツアルトもそうではなかったかと思うのは、夜の女王やパパゲーノ(パパゲーナ)に当てられたアリアの方が、独創的で面白いからである。
思いっきりそちらへ傾斜した演出を観たいと思うのだが、やはり無理であろうか。
さて、明日の演奏は、そして演出はどうであろうか?楽しみである。
*なお、写真はこれまでの公演のものから拾ったイメージですから、今回のものとは関係ありません。