ひょんなことから名鉄電車の切符を二枚手に入れた。名鉄沿線ならどこへでも行き、帰ってこられるということだ。
当初、名鉄沿線に住む友人二人に連絡をとり、久しぶりに一献どうだろうかと提案した。二人ともそれを受け入れて実現のための条件を探ってくれたが、諸般の事情でそれが不可能となった。ならば一人でどこかを目指すほかはない。
こうなったら、ひとと逢うとか何かを行うとかは決めないで遊ぶために遊んでみよう。
生まれついての貧乏性、ただとはいえ、近くへ行くのはもったいない。岐阜からできるだけ遠くへ行きたい。となると知多半島では中部国際空港、内海、河和などが候補となる。あとは東三河で蒲郡、豊川、豊橋といったところになる。
予定としたら、昼過ぎに現地に着いて、どこかのんびり時間を過ごせるところを散策し、旨い酒と肴でいささか早い夕餉を済ませ、そんなに遅くならない時間に岐阜へ戻りたいということで、やはり自分の歳も考え、ある程度土地勘があり、帰途も安全単純なところということで、豊橋に落ち着いた。
豊橋は、1960年前後の学生運動関連で2,3度行ったのを始め、サラリーマン時代の特約店訪問などなどで結構通い慣れている。居酒屋時代の30年間はご無沙汰していたが、その後、美術館訪問や、誘われた集会での報告者として訪問したこともある。
学生時代の訪問は、虚実をとり混ぜて短編小説にしたことのあるが、いちばん強烈に覚えているのは主に愛知大学の活動家を対象にした真剣な討議の後の二次会の模様である。自分の家の小型トラックを持ち出してきたひとがいて、これで海辺へ行こうという。豊橋は、南に走ると太平洋の大波が直接押し寄せる遠州灘である。そこでの夜の酒盛りだ。
メンバーの一人が酒屋の娘さんで、家からトリスウイスキー数本と、日本酒数本を持ち出してきた。つまみは駄菓子屋で買ったあられやせんべい。総勢一〇人弱がトラックの荷台に乗って繰り出したのが、その遠州灘海岸。
海岸を叩きつける波は夜目にも白々と、しかも想像以上に高い。私たちは車座になって酒を酌み交わし、論議し、語り、歌い、踊った。しかし、それらの喧騒も、波の音によってほとんどかき消されてゆくのだが、得もいわれぬ快感があった。私が選んだ道は、当時、閉塞感に満ちていた。しかしどうだ、私はこうして生きているではないか。生きているということは、こうして大自然のなか、ひとと交わり、自分の言動を開示してゆくことではないか、それが実感された時間であった。
明け方、日の出を迎えるまでそこにいたと思うが、どのようにして帰ったかは記憶にない。運転手を含め、全員が深い酩酊のなかにあった。
二度めの節目のような豊橋経験は、いろいろあった後、就職してはじめに受け取った電話であった。一応、電話での応答の仕方は教わっていたが、その電話は予想外だった。目の前のベルが鳴り、私が受ける羽目になった。「もしもし、こちら〇〇株式会社の営業部**です」との滑り出しは良かった。問題は相手の方だった。「あののんほい」が第一声、「はあ?」と私。「あののんほい」と再び相手、「はあ?」と私。それが三度ほど繰り返された後、私は「少々お待ち下さい」と電話を上司に代わってもらった。「あの~、なんか変な電話がかかってきているのですが・・・・」
その上司は、私と代わって相手とスムーズに話を交わしている。電話が終わった後、上司は、「あれは豊橋の大切な特約店さんだ。失礼があってはならない」と私に軽い叱責をくれたのであった。
「あの」はともかくとして、「のんほい」というのが「ねえねえ」とか「ですね」とか肯定の意を含む三河地方の方言であることをはじめて知った。
ただし、これはいまや古い言葉で、三河地方でもほとんど死語になっているようである。しかし、私のなかでは、豊橋といえば「のんほい」というイメージが生きている。
そんなわけで今回の豊橋行きは、豊橋でJR東海道線に乗り換え、一つ先の二川まで行き、そこにある「のんほいパーク」を散策することにした。
ここは数年前に訪れ、二回目なのだが、広い園内には動物園や植物園、それに遊園地が併設されている。無理して全部回らなくとも、自分の見たいところを重点にのんびりマイペースで過ごすこととした。
この前訪れた折には、アジアゾウのお母さんが臨月で大きなお腹をしていた。その一週間後、無事出産とのニュースに接し、なんだかほっこりした気になっていたのだが、どれほど経ってからだろうか、その仔象が発育不全かなんかで亡くなったと聞いて、がっかりしたことがあった。
まず動物エリアから見て、時間があれば植物エリアをと歩を進める。数年前の経験で大体の土地勘はあるはずとの思いがあったが、これが大間違い。自分の記憶力がいかに劣化して曖昧になっているかを嫌というほど知らされた。
でも象の居場所を見つけた辺りからなんとなく記憶が戻りはじめた。象の飼育スペースは、名古屋の東山動物園などより広々していて、数頭のうち二頭がいろいろなスペースを移動し、目を楽しませてくれた。ただし、今回は臨月に近いそれは見当たらなかった。
こちょこちょ動き回る猿たち、逆にのったりしてしまって動いてくれないカンガルーたち、どちらも写真には撮りにくい。
その点、シロクマとペンギンは陸上でも水中でもよく動いてくれておもしろかった。もっとも、平日とあって、それを喜んで見ているのは、八十路すぎの私めと、そのひ孫に相当する就学前の児童たちだからその落差は面白い。
やはり、植物園を見ている時間はなくなった。閉園時間になったということではなく、私自身ができるだけ岐阜へ早く帰れるよう、その夕餉を豊橋駅近くの夕方四時からやっているお店に設定していからだ。
豊橋に戻る。予めネットで目星をつけておいた四時からの営業で近海物の海産物があり、日本酒の在庫が豊富で価格がまあまあリーゾナブルな店ということで、「路地裏かきち」という店を選んだ。
酒は、最近流行りの試しのみセット三種で、リストの中から三つを選んで少量のグラスにいぱいずつ。それほど舌に自信がない私でも、こうして三種類を飲み比べてみるとその違いがわかる。これが済んだあとは、父の故郷、福井の酒、黒龍を選んだ。
お造りは近海物中心に三種で盛ってもらった。どれも鮮度はマアマアだった。メヒカリの唐揚げというのがけっこううまかった。自分でも作ってみたいが、岐阜あたりの、しかもスーパーの魚売り場には出てこないだろう。
四時から営業といっても、その時間から客がどっと来るわけでもないので、カウンターで人当たりのいい店長=板長とゆっくり話しながら飲むことができた。コロナ禍での営業はやはり大変らしい。ただし、今日は予約が二組ほど入っているということで、その準備をしつつの私との対話であった。
もう少し飲んでゆっくりしたかったが、まだこれからおよそ150kmを帰らねばならない身、カウンターから身を引き剥がすようにして店を出た。
まだ早い時間なのだが、行き交う人もまばらで、霜月後半の夕刻はとっくに夜半の様相を呈していた。まだ、バスが運行している時間帯(わが家方面は早くなくなるのだ)に岐阜へ達することができた。
かくして私の「のんほい」な一日は終わった。
当初、名鉄沿線に住む友人二人に連絡をとり、久しぶりに一献どうだろうかと提案した。二人ともそれを受け入れて実現のための条件を探ってくれたが、諸般の事情でそれが不可能となった。ならば一人でどこかを目指すほかはない。
こうなったら、ひとと逢うとか何かを行うとかは決めないで遊ぶために遊んでみよう。
生まれついての貧乏性、ただとはいえ、近くへ行くのはもったいない。岐阜からできるだけ遠くへ行きたい。となると知多半島では中部国際空港、内海、河和などが候補となる。あとは東三河で蒲郡、豊川、豊橋といったところになる。
予定としたら、昼過ぎに現地に着いて、どこかのんびり時間を過ごせるところを散策し、旨い酒と肴でいささか早い夕餉を済ませ、そんなに遅くならない時間に岐阜へ戻りたいということで、やはり自分の歳も考え、ある程度土地勘があり、帰途も安全単純なところということで、豊橋に落ち着いた。
豊橋は、1960年前後の学生運動関連で2,3度行ったのを始め、サラリーマン時代の特約店訪問などなどで結構通い慣れている。居酒屋時代の30年間はご無沙汰していたが、その後、美術館訪問や、誘われた集会での報告者として訪問したこともある。
学生時代の訪問は、虚実をとり混ぜて短編小説にしたことのあるが、いちばん強烈に覚えているのは主に愛知大学の活動家を対象にした真剣な討議の後の二次会の模様である。自分の家の小型トラックを持ち出してきたひとがいて、これで海辺へ行こうという。豊橋は、南に走ると太平洋の大波が直接押し寄せる遠州灘である。そこでの夜の酒盛りだ。
メンバーの一人が酒屋の娘さんで、家からトリスウイスキー数本と、日本酒数本を持ち出してきた。つまみは駄菓子屋で買ったあられやせんべい。総勢一〇人弱がトラックの荷台に乗って繰り出したのが、その遠州灘海岸。
海岸を叩きつける波は夜目にも白々と、しかも想像以上に高い。私たちは車座になって酒を酌み交わし、論議し、語り、歌い、踊った。しかし、それらの喧騒も、波の音によってほとんどかき消されてゆくのだが、得もいわれぬ快感があった。私が選んだ道は、当時、閉塞感に満ちていた。しかしどうだ、私はこうして生きているではないか。生きているということは、こうして大自然のなか、ひとと交わり、自分の言動を開示してゆくことではないか、それが実感された時間であった。
明け方、日の出を迎えるまでそこにいたと思うが、どのようにして帰ったかは記憶にない。運転手を含め、全員が深い酩酊のなかにあった。
二度めの節目のような豊橋経験は、いろいろあった後、就職してはじめに受け取った電話であった。一応、電話での応答の仕方は教わっていたが、その電話は予想外だった。目の前のベルが鳴り、私が受ける羽目になった。「もしもし、こちら〇〇株式会社の営業部**です」との滑り出しは良かった。問題は相手の方だった。「あののんほい」が第一声、「はあ?」と私。「あののんほい」と再び相手、「はあ?」と私。それが三度ほど繰り返された後、私は「少々お待ち下さい」と電話を上司に代わってもらった。「あの~、なんか変な電話がかかってきているのですが・・・・」
その上司は、私と代わって相手とスムーズに話を交わしている。電話が終わった後、上司は、「あれは豊橋の大切な特約店さんだ。失礼があってはならない」と私に軽い叱責をくれたのであった。
「あの」はともかくとして、「のんほい」というのが「ねえねえ」とか「ですね」とか肯定の意を含む三河地方の方言であることをはじめて知った。
ただし、これはいまや古い言葉で、三河地方でもほとんど死語になっているようである。しかし、私のなかでは、豊橋といえば「のんほい」というイメージが生きている。
そんなわけで今回の豊橋行きは、豊橋でJR東海道線に乗り換え、一つ先の二川まで行き、そこにある「のんほいパーク」を散策することにした。
ここは数年前に訪れ、二回目なのだが、広い園内には動物園や植物園、それに遊園地が併設されている。無理して全部回らなくとも、自分の見たいところを重点にのんびりマイペースで過ごすこととした。
この前訪れた折には、アジアゾウのお母さんが臨月で大きなお腹をしていた。その一週間後、無事出産とのニュースに接し、なんだかほっこりした気になっていたのだが、どれほど経ってからだろうか、その仔象が発育不全かなんかで亡くなったと聞いて、がっかりしたことがあった。
まず動物エリアから見て、時間があれば植物エリアをと歩を進める。数年前の経験で大体の土地勘はあるはずとの思いがあったが、これが大間違い。自分の記憶力がいかに劣化して曖昧になっているかを嫌というほど知らされた。
でも象の居場所を見つけた辺りからなんとなく記憶が戻りはじめた。象の飼育スペースは、名古屋の東山動物園などより広々していて、数頭のうち二頭がいろいろなスペースを移動し、目を楽しませてくれた。ただし、今回は臨月に近いそれは見当たらなかった。
こちょこちょ動き回る猿たち、逆にのったりしてしまって動いてくれないカンガルーたち、どちらも写真には撮りにくい。
その点、シロクマとペンギンは陸上でも水中でもよく動いてくれておもしろかった。もっとも、平日とあって、それを喜んで見ているのは、八十路すぎの私めと、そのひ孫に相当する就学前の児童たちだからその落差は面白い。
やはり、植物園を見ている時間はなくなった。閉園時間になったということではなく、私自身ができるだけ岐阜へ早く帰れるよう、その夕餉を豊橋駅近くの夕方四時からやっているお店に設定していからだ。
豊橋に戻る。予めネットで目星をつけておいた四時からの営業で近海物の海産物があり、日本酒の在庫が豊富で価格がまあまあリーゾナブルな店ということで、「路地裏かきち」という店を選んだ。
酒は、最近流行りの試しのみセット三種で、リストの中から三つを選んで少量のグラスにいぱいずつ。それほど舌に自信がない私でも、こうして三種類を飲み比べてみるとその違いがわかる。これが済んだあとは、父の故郷、福井の酒、黒龍を選んだ。
お造りは近海物中心に三種で盛ってもらった。どれも鮮度はマアマアだった。メヒカリの唐揚げというのがけっこううまかった。自分でも作ってみたいが、岐阜あたりの、しかもスーパーの魚売り場には出てこないだろう。
四時から営業といっても、その時間から客がどっと来るわけでもないので、カウンターで人当たりのいい店長=板長とゆっくり話しながら飲むことができた。コロナ禍での営業はやはり大変らしい。ただし、今日は予約が二組ほど入っているということで、その準備をしつつの私との対話であった。
もう少し飲んでゆっくりしたかったが、まだこれからおよそ150kmを帰らねばならない身、カウンターから身を引き剥がすようにして店を出た。
まだ早い時間なのだが、行き交う人もまばらで、霜月後半の夕刻はとっくに夜半の様相を呈していた。まだ、バスが運行している時間帯(わが家方面は早くなくなるのだ)に岐阜へ達することができた。
かくして私の「のんほい」な一日は終わった。