六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【絵日記】日記らしい日記 かな?

2012-08-19 16:09:33 | インポート
            

 今日は絶不調。
 昨夜、パソコンの前で寝込んでしまったのがその前兆なのだろう。
 浜口京子さんの親父さんよろしく、「気合だ、気合だ!」と自分に活を入れてみたが、どうやら寄る年波と夏バテにはあまり効き目はないようだ。

 パソコンの前で倒れるというのには、苦いというか怖い経験がある。
 今から13年前、パソコンのキーボードに顔を押し付けたまま気を失ったのだ。
 自力で目覚めたが、左手が完全に麻痺していた。
 診断は脳梗塞。

 さいわい最も軽い部類で、10日間の入院と一ヶ月半ぐらいのリハビリで回復したが、その折の恐怖感はある。
 昨夜も目覚めた折、五体の状況を確かめたぐらいだ。

 で、今日であるが、起きているのが辛く、何もする気が起きないので、ピリン系のSG顆粒を服用し、今まで午睡をしていたら幾分回復したようなので、初めてパソの前に座った次第だ。

 相変わらず陽射しは強いが、「風のおとにも驚かれぬる」で、いい風が入ってくる。
 やがて、ツクツクボウシも訪れるだろう。
 そうすれば私の73回目の夏は終わりを告げる。

 あ、そうだ、まだ宿題が残っていたっけ。
 これをこなさないと、本当の夏は終わらない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ガラクタと戦争(2) なぜ消えたのだろうか?

2012-07-22 02:26:50 | インポート
 前回は、変に気をもたせる終わり方で申し訳ありませんでした。別に「ガマの油売り」のように気を引いておいて何かを売りつけるような魂胆はありませんからあしからず。

 話は私がサラリーマン時代(半世紀前です)、休日に私が担当していた代理店の前を通りかかったら、そこの社長夫妻が、在庫(私のいわゆるガラクタ)をトラックに積み上げているのを目撃したというところまででした。

 翌日、普通に私は出社しました。私の住まいもその代理店も岐阜でしたが、勤務先は名古屋でした(本社は東京)。
 午前の勤務が終わろうとする頃、岐阜の別の代理店から私宛に電話がありました。
 「六君、いま用事があってOさんのところへ行ったら《都合により臨時休業します》という紙が貼ってあったが、君、なんか知ってるか」
 とのことです。
 Oさんというのは昨日述べた、トラックに荷物を積み込んでいたあの代理店です。電話をかけてきたのは、Oさんちの週末麻雀会の主要メンバーのひとりです。

          

 「ん~、そうなのか」という思いもありましたが、そこはひとまず、
 「そんな、あなたがご存じないものを私が知ってるはずはないでしょう」
 と電話を切りました。
 そして午後、一番にOさんのところへ駆けつけました。

 ここまで読まれた方は当然、倒産、夜逃げを連想されますよね。しかし私は、それだけは絶対にないと信じていました。
 私は彼の経営の内情を熟知していたのです。あるときなど、預金通帳の残高迄見せてくれました。私の家計の四桁か五桁は上でした。

          

 利益分を何かに投資をして損失を被ったなどということも考えられません。なにせ彼は、現金以外は小切手すらも透かしてみなけれが信用しないという古典的な守銭奴だったからです。それに当時は、稼いだ金を簡単に信用投資するような時代でもありませんでした。

 博打で擦るとということも決してありえません。前回述べたように車で来たやつを歩いて返すようなことはあっても、彼が大負けをしたという話は聞いたことがなかったからです。
 でも負けが込むこともあるのは事実でしょうが、「そういう時は、疲れたといって寝るのだよ」というのが、Oさんが私に語ってくれた大負けしない秘訣です。
 
 そのためにこそ、Oさんは茶果や酒肴まで用意して自宅を賭場に開放していたのです。自宅でなければ勝手に引っ込んで寝たりできませんものね。もっとも切り上げ時を計れるというのも、Oさんの博才のうちだったとはいえます。

          

 Oさんの店に着くとやはり張り紙があります。勝手知ったる他人の家で、裏口から声をかけてみましたがまったく反応がありません。それのみか、ある種の生活反応すらないのが気がかりです。
 こんな時に頼りになるのは隣のおばさんです。それに多少の顔見知りでもあったのです。というのはその頃は路上駐車は当たり前で、Oさんのところへ来た折はやはり路駐でしかも混み合っている折には隣家にまではみ出し、「おばさん、ごめんね」と声をかけていたからです。

 おばさんもまったくの不審顔です。
 「いえね、朝からまったく人の気配がないのよ。それに番頭さんたちも出てこないし」
 番頭さんというのは幹部社員で、ほかに2、3人の従業員さんもいました。
 「でも娘さんたち、学校があるでしょう」
 と私。
 そうなんです。このOさんには当時中学生と小学生高学年の女の子がいて、子煩悩なOさんにとっては可愛くて仕方がない娘たちだったのです。

          

 よく出入りしていた私も、当然その子たちと仲良くなり、他社の担当者に比べ若かったこともあり、親しく口を利く間柄でした。
 そんなある時、上の娘がポロリと、「今度、◯日が誕生日なの」いったのでした。私は当日、彼女に可愛い花柄の万年筆(当時は中学生も万年筆を使っていたのです)と、その妹には同じく花柄のボールペンをプレゼントしました。

 当然、娘たちは喜んでくれましたが、それ以上に喜んでくれたのがOさんです。とりわけ彼は、妹への配慮を忘れなかった私をいたく評価してくれました。Oさんが預金残高を見せるほどに、また、自分が麻雀で負けない秘訣などをも教えてくれるほどに信頼してくれたのはこんなことがあったからでしょう。

 そんなわけで、私の心配はその担当者たる私の立場を離れて、その一家の命運に関するものでした。ついでながら、幾分バタ臭い顔をした奥さんも私をとても可愛がってくれていました。
 
 すでに見てきたように、古典的な守銭奴で、しっかり者のOさんでしたが、そこにこそまさに、彼が稼いだカネを資本に転用し得ない限界、そしてある日、突然姿をくらまさねばならない原因があったのです。

          

 あ、またしても長くなりすぎました。
 Oさんが、倒産でもなく、行方をくらました経緯については次回また述べます。
 え?「ガマの油売り」の手法に似てきたって?
 そんなつもりはありません。
 (といいながら、次回には振込口座が添えられていたりして)
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

♪アーアーアーアーア~ 高校三年生~♪(なに、飛び級にするって?)

2012-06-06 16:18:58 | インポート
 高校時代の同級生たち4人で遊ぶ。
 岐阜市内が私を含め2人、一人は各務原から、そしてもう一人は岡崎からだ。
 まず、とりあえずの目的は谷汲の日帰り温泉。
 
 途中、学生時代にも、卒業してからもよく遊びに行ったやはり谷汲山近くにある恩師の墓に立ち寄る。かつて、その師のもとに集まるということそのものが私たちの青春にとって欠かせない一面であった。
 有縁の人が周辺にいなくなったせいか墓は淋しい。
 とはいえ、近隣の人や、私たちのように教え子が時折立ち寄るのか、それほど荒れた感じはない。
 私自身も、2、3年前、近くを通りかかった折に立ち寄り、近くで採った野花などを手向けたことがある。

 簡単な掃除をする。やはり花を手向けようかということになったが、ちょうど墓前に矢車草などが咲いていたので、わざわざ折り取るよりそのままの方が良かろうということでそれに任せる。
 一同、頭を垂れてそこを離れる。

       

 さあ温泉!と駐車場に着くと、ほかの車両が全く見当たらない。
 そして入り口には「本日休業」の無情な札が・・・・。

 ならば別の温泉をと車を巡らせたところで、運転者がガス欠寸前に気づく。
 谷汲山門前に近いスタンドで給油をしたついでに、そこのおばさんに近辺の温泉事情を尋ねる。
 なんと、そこから5分も行かないところに日帰り温泉があるという。
 その名も「満願の湯」。
 なるほど、西国三十三所観音霊場巡りの第三十三番札所、結願・満願の古刹、谷汲山華厳寺の門前にふさわしいネーミングだ。

 こじんまりとした温泉だが、泉質もよく、涌泉量も多いようだ。
 チャラチャラとした余分な施設がなく、内湯と露天風呂のみの入浴一筋がいい。
 それに、カルキ臭(晒粉の匂い)が全くないのがいい。

 帰途、そば懐石の店によるかどうかで意見が別れる。
 そこの食事がうまいことは先刻承知だが、そこを利用するとなると運転者のみ、飲酒ができない。彼はそれでもいいというのだが、彼を尻目に飲むのは気が引けて落ち着かない。
 しかし、その本人がそれでもいいというので立ち寄ることに。
 だが、やはり駐車場ががらんどう・・・・。
 やはり休日か、あるいは閉鎖してしまったのかもしれない。
 いずれにしても今日はよく蹴られる日だ。

 岐阜へ取って返す。
 旧知の居酒屋へ。
 ここは今時の若者向けの喧騒がなく、大衆店だがそれなりに落ち着ける。
 料理も、レトルトやチ~ンではなく手造りだ。

       

 話題は多岐に及んだが、まず車中では、以前もここで紹介した、現役で商店を営んでいるH氏がかかわる、不合理極まりない同業組合との戦いの報告が主体であった。
 かつて1,300人いた組合員が今は300人だという。その300人も決して楽な営業ではない。営業成績は低下し続け、後継者もいない中、せめて自分の代はと必死で店を守っている人がほとんどだ。

 H氏にしたところで、海外旅行はおろか国内での一泊も難しいという。
 そんな中でである、理事連中がその組合を食い物にしているというのだ。
 前の専務理事は、年間900万の給与をとり、2,400万の退職金を得て逃げ出すように去ったという。
 どこにそんな金があるかというと、やむなく廃業した人たちが残した積立などが残っているからだ(組合規約ではそれらを返さないことになっている)。
 要するに、死屍累々の業界にあって、落ち武者の屍から金目の物をむしりとるような所業といっていい。
 どうも、日本の官僚機構のミニチュア版であるような気もする。

 ところで、彼の改革の運動だが、その問題提起がじわじわと浸透し、同意者も増えているという。しかし、切り崩しや裏切りもあって予断は許されないらしい。
 彼自身が、理事でもなんでもなく、自ら営業をしながら、しかも身銭を切ってのチャレンジだから、常任の専従などに比べたら、物量戦でもかなり困難な戦いであることは想像に難くない。

 彼自身、いろいろ勉強したという。ことを構えた以上、もちろん勝利が目標だが、その過程で学んだことも多いという。こうした達観の上で進めるなら、たとえ敗れても彼が傷つくことはあるまいとは思うが、やはり勝たせてやりたい。
 その他、当然のこととして原発の再稼働を巡る状況なども話題に登ったが、それらは省略する。

 帰りに一悶着あった。
 メンバーの一人が、あらかじめ公言していた帰りの時間を急に一時間早めたのだ。
 これにH氏が反発した。
 もちろん、大げんかになったわけでもなく、名鉄の岐阜駅まで4人で歩き、そこで互いに握手をして別れることができた。

 H氏にしてみれば、早朝の仕入れから日常の営業、それに加えて今回の組合の改革運動と多忙な日常なのだが、その中で気を許してなんでも語れる場や相手が貴重なのだろうと思う。
 帰宅を早めたN氏にしても、相方に先立たれて以後の独居でいろいろ事情もあろう。
 
 そんなことを反芻しながら、夜風を頬に受けて自転車を漕いで帰宅するのだった。
 家の近くの田圃で、ケリが甲高く一声、三声、鳴いていた。

 岡崎のM氏は、時折私のブログを見ていてくれるとのこと。嬉しかった。



 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忍者の撒き菱? と間奏曲としてのお相撲の話

2012-05-22 01:32:41 | インポート
 稲の品種(はつしも)からして田植えの遅いこの地区では、やっと田起こしが行われつつあります。
 これまでどこにいたかと思われるようなムクドリの群れがやってきて、掘り返された虫けらたちを求めて耕運機のあとをついて回るユーモラスな風景があちこちで見られます。
 近くの苗代を見たら稲は15センチほどに成長し、もういつでもいいよという感じでスタンバイしていました。

       

 私の窓から見える田んぼは、比較的のんびりしていて、昨日やっと田起こしをしました。その前日、この田圃で青黒く点々としているものの写真を撮りました。
 都会地の人にはなんだかわからないかもしれませんね。
 この青黒いものはそのまま鋤き込まれましたから、たぶんまた来年現れるはずなのですが、その答えは最後の写真に譲ります。

              

 話はその前日に飛びます。たまたまつけたTVで旭天鵬の優勝シーンを見ました。
 花道を引き上げる時、ほとばしるような涙を流していたのが印象的でした。

 相撲のことはあまり詳しくはありませんが、幕内最年長(しかも歴代で)の優勝のようです。しかもこの人、相撲界にモンゴルブームを呼ぶこととなったそのモンゴルからの一期生なのだそうです。
 ようするに、白鳳はもちろん、朝青龍などよりもうんと先輩らしいのです。
 それでいて初優勝。涙がでるはずですね。
 説明や解説を聴いていて、「ああ、この人でよかったな」という祝福の気持ちが自然に湧いてきました。

       
 
 これも説明で知ったのですが、この人の優勝でモンゴル勢の優勝回数は50回目だとのこと、これにもいささか驚きました。

 私がある新聞社の時事川柳欄に「君が代が虚しく響く国技館」と投稿して入選したのはもう10年ほど前でした。その頃は、まだこんな句でもそれなりに時事性があったのですが、現在、こんな句を投稿しても絶対に採用されないでしょうね。今では時事性もニュース性も全くない当たり前のことになってしまっているからです。

 さて、上の青黒いものの正体は、ここに掲げたレンゲ花が変化したものです。
 花が散り、そこにできた青黒いさやの中に実が入っているわけなのですが、よく見ると、もうはじけて実が飛び出たものと、まださやが閉じているものとがあります。

       

 昔はこれを鋤き込んで肥料にし、そのためにわざわざ収穫後の田にその種を撒いたのですが、いまや化学肥料全盛の時代、かえって適正な肥料の投入を混乱させるとかであまり積極的にはレンゲを育てないのだそうです。
 ですから、私が子供の頃そうであったような一面に広がるレンゲ畑はほとんどなくなりました。
 実はこの花、岐阜の県花なのですが、そのお膝元においても一面のレンゲ畑はもはやそんなには見られないのです。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出番を待つ 晩春から初夏へ

2012-04-25 01:47:54 | インポート
 ちょっと遅くやってきただけに今年の春は駆け足なのでしょうか。
 24日には30度越えの真夏日を観測したところもあったようです。
 2日続きの雨とそのあとにやってきたこの暖かさに誘われて、わが家でもいろいろな植物が出番を待ちかねています。

       

 まずはアケビの新芽なのですが、実はこれおじゃま虫なのです。
 もう30年ほど前、渓流釣りに行った帰りに山からとってきたものを二、三本植えたのですが、それが伸びるは伸びるは、ついには何本かの植木を完全に覆い尽くすほどになりました。それでいてあけびの実は二、三個しか採れないのです。
 
 笑い話にしているうちはよかったのですが、電話の引き込み線にまで這い上がり、とうとう、当時の電電公社に注意を受けるに至りました。一度は無償で除去してくれましたが、次回からは故意の損傷として有償にしますと脅されました。
 ここにいたっては、ついに、泣いて馬謖を斬らざるをえなくなったたのです。
 できるだけ根っこから除去したつもりなのですが、根が地を這っているものとみえ、それ以降、毎年新しいものが何本か生えてくるのです。鮮やかな新芽を除去するには忍びないのですが、放置しておくと前の二の舞で、民営化されたNTTは無償で除去はしてくれないでしょうから、見つけ次第取り除いています。
 これももう少し猶予を与えてやりますが、あと何日かの運命です。



 ツツジのつぼみもはち切れそうになって来ました。
 赤いのものと白いものがあるのですが、どういうわけか白いもののほうが早いようです。
 写真を撮っていたら何やらもぞもぞしています。数ミリの可愛いてんとう虫です。
 
       

 このてんとう虫、なかなかの愛嬌者で、最初、花のつぼみのところでもぞもぞしていたと思ったら、私のカメラのレンズの方へやって来るではありませんか。そこで「ハイ、ポーズ」です。
 実は私、去年まで、このてんとう虫は赤星てんとう虫だとばかり思っていました。しかしじつは違うのですね。赤星の方はもっと大きな楕円の赤が背中に付いているもので、こちらの方はナミテントウムシというのだそうです。

       
 
 しかもこのナミテントウムシ、実に色々なバリエーションがあるのです。
 これはネットの図鑑から拾ったものです。

          

 最後はスズランの新芽です。日陰に置いてあるので少し遅いかも知れません。
 うっかりすると花が咲いているのも見落としてしまいます。
 葉陰で人知れず静かに咲く奥ゆかしさ、まるで私のようですね。
 (今笑ったひと、廊下で立っていなさい!)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新緑の候の川柳もどき(今年はじめてかな)

2012-04-18 23:39:44 | インポート
       

      【夜】
       たわむ夜 不眠がメルトダウンする
       あの日から私の夜に色がない
       夜という赦しのなかでまるくなる

       

      【流れる】
       さよならはいつものっぺり流れ着く
       拾われずいまも流れる桃でいる

       

      【人生】
       人間を辞めたくなった日の日記
       一篇の詩を葬って苦い朝
       セ・ラ・ヴィと見定めたから蒼い空

       

      【日本】
       にっぽんはさわがしすぎるからにほん
       インパルで散った親父のあゝ日本
       日本を消化せぬまま古希過ぎる

       

      【帰る】
       帰り道今日着たものは脱ぎ捨てる
       数だけは合わせて今日の終電車
       闇に背をまあるく溶かし帰るひと

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渓流解禁・ひいなの日・お花をどうぞ!

2012-03-02 03:58:02 | インポート
 いよいよ3月、月初めから渓流釣りが解禁になったところもあります。
 昔なら寒かろうが何だろうが、このイベントに参加せずにおくものかといそいそとでかけたものですが、もう渓へゆかなくなって何年経つでしょうか。
 そのおかげで命拾いをしたアマゴやイワナは何匹いることでしょう。彼や彼女たちは私の老化と怠慢に感謝すべきなのです。
 しかし今も、何かの拍子に渓流の近くを通りかかると心踊るものがあります。でももう、車から降りて簡単に竿を出せるようなところではほとんど釣れないのです。

         

 渓の話はともかく、明日はひな祭りですね。百歳の老女がひな祭りに華やぐという話を聞きましたがとても感動しました。何歳になろうが「ひいなの祭り」は女の祭り、おおいに華やいでほしいものです。

         

 このお雛様の写真はノリタケ・カンパニーのウインドウで撮したものです。高さはわずか10センチほどですが、陶磁器製とは思われないほど精妙にできています。
 お値段もセットで17万円とお値打ちなのでこのブログをご覧の女性全員にプレゼントしようと思ったのですが、それだけのセット数が揃わないとのことでした。残念です。
 その代わりに、すべての女性がひいなの日を幸せに迎えられますよう、私が手塩にかけた(という程でもないのですが)水仙をお届けします。
 ひな祭りといえば桃の花でしょうが、今年は桃の開花が遅いのです。

         

 「ひなまつり」という歌がありますね(サトウハチロー作詞・河村光陽作曲)。子供の頃、あの歌の歌詞でいつも頭の中を巡るのは「お嫁にいらした 姉様に よく似た官女の 白い顔」というくだりでした。
 実の両親に死に別れた私に、二つ歳上の姉がいて、別々のところへ貰われて行ってずっと逢うことがなかったからだと思います。
 40歳過ぎに再会し、今では消息もはっきりして交流もあるのですが、子供のころに刷り込まれたものが残ってのでしょうか、スーパーなどでこの時期かかるこの歌のうち、その箇所だけが鮮明に耳に聞こえます。

 古希をとっくに過ぎた男の変な感傷なのは自分でもわかっているのですが、なぜかほんとうにその箇所だけはっきり聞こえるのです。
 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近況報告

2012-01-18 15:46:35 | インポート
 ピークは過ぎて回復傾向にあれど、一行タイピングしては肩で息つく有様。
 まだまだ文章化は無理。
 それに論理的思考力も・・・。


 え?それは前からですって?
 誰ですか?そんなこと言う人は?
 風邪、うつしてあげますよ!
(と、まあ。このへんまでは書けるようになりました。とはいえ体に力が入らない)

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昨日・今日・そして明日は? 雪に寄せて

2011-12-25 18:02:28 | インポート
 昨日は晴天、近くの田圃ではお兄さんが堆肥のようなものを運び込み、その後それを田んぼ一面に均していた。
 有機農法の準備とみた。

       

 そして今日、朝から降ったり止んだりしていた雪が、ちょっと外出をして帰ってきた夕方頃から本格的に激しくなり、見る見る辺りを白くしていった。
 早く帰ることが出来て幸いであった。
 
 下の写真は昨日とほぼ同じアングルである。田んぼが白くなってきはじめた。

       

 私の部屋の窓辺もすっかり雪景色である。
 いずれも午後4時ぐらいの写真だが、その後も降り続き、零度ほどの気温とあって、家の前のバス通りも今はついに冠雪して白くなっている。
 道行く車がスリップなどしなければいいが。

       

 明日は午後から天気が回復するとのことだが、このまま降り続くと明朝は白一面になりそうだ。

 雪が降るとなんだか楽しかったのはいつの頃までだったろうか。
 私の場合、奥手だから成人してもかなりの間、雪が楽しかった。
 こんなことを言うと豪雪地帯の人に叱られそうだ。

 しかし今は、雪はきらいではないが、つい後々のことを考えてしまう。
 車を出すための雪除けとか、あとのぬかるみとか。
 これとて雪国のそれに比べたらなんでもないことには違いない。

     いざさらば雪見にころぶ所まで

 と芭蕉が詠んだのはいくつぐらいの時だろう。
 なかなか風雅であると同時に、当時の俳諧の「諧」が生きた句ではある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もう始まっていた悪夢の始まり・カルト・壊滅

2011-12-08 16:06:18 | インポート
 12月8日を迎え、思いつくままに以下のことを述べておきたい。

        

 ちょうど70年前の今日、真珠湾への奇襲攻撃であの無謀な戦争は始まった。
 あの戦争は、ABCD包囲網により日本が引っ張りこまれた戦争だという修正主義的な見方もあるが、火蓋を切ったのは日本であったことには間違いない。
 しかも、それ以前から日本は大陸や東南アジアでゴソゴソやっていたのだから、自分たちを一方的な被害者に仕立てようとしてもそうはゆくまい。

 百歩譲って、それら包囲網のなかでのどうしようもない状況から抜け出すための開戦だったとしても、戦争が「政治や経済の延長」だとしたら、落とし所、落ちどころの計算がなければならない。
 しかし、そんな冷静な計算はどこにもなかった。
 初戦の奇襲の成功で浮かれ立った日本軍にとってはそれゆけドンドンがあるのみだった。

 後でこの戦争の具体的な過程を調べると、日本軍が押していたのは開戦後のほんの僅かな時間で、分不相応で補給のあてもない戦線拡張を行ったあとは、その戦線もズタズタにされズルズル後退していたのが実情であった。
 それでも大本営は戦勝を叫び続け、ますます収拾のつかない泥沼へと落ち込んでいった。

 その愚を指摘する勢力はもはやなかった。明治から、大正の束の間の明るみを経て昭和へと至った過程で、日本の思想や言論の自由は徹底して奪われ、破壊され尽くしていた。それは、現在の北朝鮮と同様、ないしはさらに過酷だったとも言える。
 今でこそ殊勝なことをいっているマスコミもまた、大本営に輪をかけた報道で国民を鼓舞し、洗脳していった。だから、日本国民のかなり冷静な人たちも、敗戦間際になっても、そんなにズルズルに敗けていることはほとんど知らなかった。
 また、知識人や文化人といわれた人々も、あらゆる科学や芸術の分野を総動員して、そうした戦意高揚の手先となり、国民の洗脳を請け負っていた。
 
 戦争反対など叫ぼうものなら、官憲による弾圧もさることながら、それ以前に徹底的な皇民教育で洗脳されていた群衆によって、袋叩きにされ火をかけられていただろう。
 戦争末期、空襲や戦死者の激増のなか、「この戦争は負けるかも知れない」とつぶやいただけでそれをチクられ憲兵隊に引っ張られたケースがいくらもあった。

 対戦国の科学力や物量的優位に対し、ただひたすら精神力でもって立ち向かうことが強いられた。相手の重火器に対して日本軍は「消耗品としての兵力」の数とその無謀な突撃で対峙した。国内においてはB29の来襲に残された老人や女性、子供たちが竹槍で立ち向かうことが強制された。

 いよいよ最終局面になり、沖縄での地上戦で民間人を盾にした「武士道」にあるまじき無様な敗戦を喫した折、次は本土総決戦といわれた(沖縄は「本土ではなかった」ことに注意)。一人一殺(上陸してくる相手一人一人と刺し違えよということ)が叫ばれ、一億総玉砕が叫ばれた。
 しかし考えてもみるがよい、日本人すべてが死しても行うべき戦争とは一体何だったのか。ヤクザの意地の張り合いですら皆殺しになる前に、「手打ち」というものがある。

 加えて、元寇の役の「歴史的経験」が誇大にかつぎあげられた。
 敵が上陸する際には必ず「神風」が吹いて、敵の上陸を阻むというのだ。
 これではまるでカルト教団と同じレベルであるといわれても致し方あるまい。

 一億総カルトの目を覚まさせたのは広島と長崎の犠牲においてであった。
 これでもって米軍の原爆投下を正当化するむきがあるが、これに与するわけには行かない。いくら戦争を早期に終結させるためとはいえ、その兵器のもつ残虐性は覆うべきもないし、また、これこれの命を救うためには、そうではない命が犠牲にされてしかるべきだという論理にも与しかねる。
 広島と長崎の悲劇は、日本軍部のカルト的頑迷さと、米軍による残虐兵器の実験との共演によってもたらされたといってよい。

 今日はその愚かな、おおよそ4年間にわたる歴史が決定的な第一歩を踏み出した記念すべき日である。
 それは、私が3歳の時であった。
 そして1945年、敗戦時、私は国民学校一年生で、いっちょ前の少国民として、空襲警報に逃げ回りながらも、一人一殺をどう遂行すべきかに思いを凝らしていた。

   この戦争で犠牲になった内外の多くの人々の霊に合掌しつつ・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする