六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

尾張瀬戸を訪れる・1

2024-06-16 16:40:53 | 写真とおしゃべり

 人の生涯には、様々な転機があります。それは自ら決断したものであったり、自分の意志にかかわらず周りの状況などからそうなってしまったものなどいろいろでしょう。
 私が自分の生涯を振り返ったとき、まだ物心つかない前に、そうした転機を迎えていたことが事後になってわかってきました。

 そのひとつは、私が生まれてまもなく、その母が亡くなってしまったということです。いわゆる産後の肥立ちが悪くというのでしょうが、その意味では私は鬼子というべきかもしれません。

         

      名鉄瀬戸線栄町駅で 地下駅のため水漏れがもたらしたフォルム

 私の実父は、もともと女系の家に婿養子に入ったのですが、 その妻たる私の母の死後、やはりその家系を守るべく、母の妹と再婚をすることになりました。これは 戦前の「家を守る」という不文律の考え方のもとではよくあることでした。

 問題はその母の妹というのが女学校を出たばかりの18歳の若さであったということです。その若い彼女(つまり私の叔母)に、乳飲み子の私と私の2歳上の姉を養育することはとても不可能だったのです。

         

        私が乗る列車が入線してきた 折り返し尾張瀬戸行になる

 「家」をリセットするためには、姉と私は余計者になってしまい、親戚中をたらい回しにされた結果、それぞれ別のところへ養子に出されることになりました。私は岐阜へ、そして姉は愛知県の瀬戸へでした。
 こうして瀬戸は、私の実の姉の住まいではありましたが(これは実は、私が40歳過ぎてから知ったことです)、それのみではなく、私にとってもある意味をもっていたのは、私が岐阜へ養子に入った際、その仲立ちをしたのは瀬戸にいた私の養母の親戚筋だったからですです。

          

                尾張瀬戸駅到着

 ですから瀬戸は、実母を亡くすという第一の転機に次ぐふたつ目の転機の場所、つまり、岐阜の養父母と家族になるということが決められた場所ということになります。
 そんなこともあってか、幼少のみぎり、私はよく養母に連れられて瀬戸へ行ったことがあります。それというのも、養母には10人の兄弟姉妹があって、そのうちの三人の姉妹が瀬戸に嫁いでいて、そのうちの長姉の家が、私の養子縁組を斡旋したらしいからなのです(これも四〇歳過ぎに知ったことです)。

     

               尾張瀬戸駅ホームにて

 養父が戦争に取られ、敗戦時に満州にいたため、ソ連軍によってシベリアへ抑留されたまま消息不明であった時期、養母は心細く思い、私を連れて縁のある瀬戸へ何度も訪れたのでしょう。

 むろんその後も、養母の姉妹の家での冠婚葬祭などに、何度も訪れたことがありますが、私にとっては幼少の頃に訪れた瀬戸は忘れがたいものがあるのです。

     

      尾張瀬戸駅 私が懐かしいのはこの駅ではない 次回にでも紹介

 前置きがダラダラ長くなる悪癖のせいで、まとまりがつかなくなっていますが、これはこの度、改めて瀬戸へ出かけた経緯と関連するのです。つまり、まだ意識も定かでない頃、私の人生がこのように始まったという土地を再確認してみようという思いもあったのですが、同時にこれが見納めというちょっと感傷めいたものもありました。

 以下は、たった半日間の瀬戸体験ですが、とても一回では無理なので、日にちをまたいで三々五々書いてみます。

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洗濯を三回した!

2024-06-14 16:53:44 | よしなしごと
今日は日差しも強く風もそこそこあるので、三回の洗濯を試みる。
一回目は通常のもの。
二回目は、合物のズボンやシャツ、ベストなど何枚か。自分で洗うのもいくぶんやばいかなというものもあったが、それだけクリーニングに出すのはと、思い切ってエイヤッと洗ってしまう。
三回目は余勢をかって、シーツとフトンカバー、枕カバーなど寝室周りのも
の。
         
布団はもう片付けてタオルケットにする。
三回洗濯といってもそれ自体は洗濯機がやってくれるからいいのだが、汚れたものを二階の寝室から降ろし、乾いたものをまた二階へというのが大変だ。
また洗濯機の在り処から干場までが離れているため、濡れて重いものを運ぶのも大変だ。
持病の腰痛が、「お前大丈夫か」と訊いてくる。
 イラストのような爽やかな洗濯だといいんだけど・・・・。
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それでもカニはカニ、あるいは時期外れは時期外れ?

2024-06-14 02:48:13 | よしなしごと
 昨日、あるSNSで、古くからの友人が、故郷・田原(渥美半島)で、親族の方が獲ってきたワタリガニ(ガザミ)を暴れ食いしているのを羨んでコメントを付けた。
 そんな矢先の今日、いつもゆくスーパーの魚売り場で、セコガニ(勢子ガニあるいはセイコガニ)の足を折りたたんだ状態が25センチほどのものを見かけた。うまそうだがどうせ価格が・・・・と通り過ぎようとして足が止まった。

     


 え、え、え、198円?何度見直してもそうだ。ならばということでゲット。
 湯がくのではなく、せいろで十数分蒸した。

 セコガニはズワイの雌。時期ならば抱卵していてそれもうまいのだが、いまは時期はずれ、それはない。甲羅を外すと、いくばくかのカニ味噌を味わうことができた。

     


 その他、甲羅の肉も、脚のそれも、そこそこ美味かったのだが、やはりこのスリムさ、口中でのボリューム感がもの足りない。

 結局、少しばかりの満足感と、かなりの欲求不満が残るカニとなった。

 

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近場の風景 意外なものがまだあった!

2024-06-09 15:04:49 | 写真とおしゃべり
 わが家から数百メートルのの箇所に所要で出かける。あまり来なかったり、来てもしげしげとあたりを見渡したりしない場所がけっこうある。
     

 帰途、多少の回り道をしながら散策。
 この田植えの時期しか配水されない水路に、カルガモが一羽。どうやら母鳥から独立したばかりの若い個体のようだ。なんかドギマギして落ち着きがない。私が接近したせいもあるが。

     

 近くの生け垣に、埋もれるようにして咲いているクチナシを見つけた。
 そういえばかつて、わが家にもクチナシがあった。入手した経緯も覚えている。半世紀以上前のサラリーマン時代、大きな背負い籠(通称:ショイカゴ)を担いだ女性二人が会社のオフィスにやってきた。
 訊けば山口県からやってきた行商だという。ショイカゴから食い物など含めた山口の物産をいろいろ取り出し、買ってくれという。

 たまたまオフィスにいた社員が、好みに応じてさまざまなものを買った。その折、私が買ったのがクチナシの苗であった。二株ほど買ったその苗は、その後、今頃になるとかぐわしさとともに白い花を付け、わが家の庭を賑わしていたが、いつの間にか、他の植物に侵食されたのか、姿を消してしまった。

 会社のオフィスに、地方からの行商の人たちが気軽に立ち寄った古き良き時代を思い出した次第だが、その折気づいたことに、その女性たちが話す山口弁が、「~しやぁ」とか「みやぁ」とか「~だぎゃ」とか、それに「~しんさい」という名古屋弁や岐阜弁にも似ているということであった。
 それをその女性たちに話すと、「この地区ではよくそう言われるんですよ」と言っていた。

     
         

 最寄りの幼稚園を通りかかる。家の子どもたちも行っていたところだ。その横にある駐車場も、幼稚園の雰囲気を備えていて微笑ましい。

     

 近くにある国道21号線の交差点に差し掛かる。ここは、郊外近くを走る国道と、岐阜市内中心部を結ぶ道路の交差点で、けっこう交通量が多い。将来の高架化が計画されているが、その完成時には私はもうこの世には居まい。

    

 広い道路から集落の中に入って進むと、水路の端にイグサの群生を目撃する。これは随分前に見かけたことがあり、この辺の自然環境が激変するなか、「おう、お前無事で生き延びていたか」と声をかけたくなるくらいだ。

 ちなみに、イグサの和名は「い」であり、これに「草」がくっついて「イグサ」なので、和名としては最も短い植物となる。都市でいえば「津」が短いのと同じだ。

     

 次はすぐ近くの洋菓子屋さんの駐車場のエントランス付近のミニ庭園。何となくそれらしい雰囲気が出ている。

     

 帰宅。最後はわが家の紫陽花。今年は赤が例年に増して鮮やかなような気がする。

 これだけ歩いても5,000歩しか稼げなかった。
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人工の建造物、そしてそこから見える風景@岐阜

2024-06-07 13:06:14 | 写真とおしゃべり

 所用で岐阜ふれあい会館にあるオフィスに。
 この中には、岐阜では随一のコンサートホール、サラマンカホールがある。今日は残念ながらコンサートとは無縁の事務的な用事であったが、用件が終わったあと、この先のコンサートの予定のパンフをあさってきたので、日程が合うものは来たいと思う。

       

      

 このフロアの写真を撮っていたら、やや派手っぽい衣装の6,70代ぐらいの女性がつかつかとやってきて、「いま、私の写真を撮ったでしょう」と詰問された。
 「いやいや、あなたが通り過ぎるのを待ってシャッターを押しましたよ」と、このホールで撮ったスマホのすべての写真を再現してみせた。

     

     
 
 「アラ、ほんと。ごめんなさいね、疑ったりして」と彼女。
 あらぬ疑いをかけられたわけだが、不快感はなかった。彼女の抗議の仕方、その引き際がどこかさっぱりしていて、とても自然だったからだ。
 変に矛盾した話だが、そんな彼女の写真を撮っておけばよかったと思ったほどだ。

          

 ここまでの5枚の写真はこのふれあい会館で撮ったもの。

 その後、せっかくここまで来たのだからと、すぐ近くに昨年はじめに出来上がった新しい岐阜県庁舎へ立ち寄る。ここでの見どころは、20階にある360度が見渡せる展望回廊だ。長年県民税を払い続け、それがこの新庁舎の建材の一部になっているかもしれないのだから、それを見ておかない手はない。

          
  
          



 20階へ上がる。平日の午後とあってか ほとんど人影は無い。エレベーターから出た所はほぼ中央部分なので、そこを起点に時計回りで回ることにする。
 かつてこの場所に県庁ができたおり、なぜ田んぼの中との批判もあったが、そのせいで周りには高い建物は全くなく、したがって遮るものがない展望は360度どこまでも広がる。

      
          
 
      
 
 最初は北東部、 岐阜市の中心部で 右側の高いビルのあるあたりがJR岐阜駅である。 そして中央の山が岐阜のランドマークともいえる頂上に岐阜城をいただく金華山である。

      
 
 次は南東方向で、右上に白く見えるのは一宮市のいわゆる138タワーである。 これは一宮(イチのミ・ヤ)との洒落で できた138メートルの展望塔である。 そのすぐ下に広がる緑の帯は木曽川であり、これが岐阜県と愛知県の県境をなしている。

      


 続いては、南南東の名古屋方面を望むもので、中央の白い塔は稲沢市にある三菱の高層エレベーターの実験棟である。そしてその左側が名古屋駅周辺の高層ビル街である。

     

 南西部に目を移すと、長良川があり、その向こうには養老山脈が連なっている。

      
 これは西側。完全な逆光だが、中央の建物はここへ来る前に行ってきたふれあい会館で、その背後に光っているのは長良川である。さらに背景に聳えるのは伊吹山である。

          

 最後は、北側眼下、国道21号線から県庁へのエントランスの並木道である。この道は緑に囲まれゆったりとしていて、私の好きな通りである。

          
 この回廊の床は、まさに「岐阜は木の国」、と言われるようにタイル等ではなく木材が使われている。かつての材木屋の息子としては、 木材についてはやはり好ましい印象を持ってしまうのだ。

      
 4時を回った帰り際、来たときよりもかえって人影が増えていた。

      
 下に降り、駐車場に歩を進めていると、庁舎前を新しい消防車が差し掛かるのに出会った。

 今日は、人工の建造物、ないしはそれから見えるものを味わった半日であった。
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NHKのドキュメンタリーと唐牛健太郎

2024-06-04 01:10:22 | 想い出を掘り起こす
NHKで「映像の世紀 バタフライエフェクト 安保闘争 燃え盛った政治の季節」を観た。
最近、私が所属する同人誌に2回にわたって連載し書いた時代とほぼ一致するもので感慨深かった。
NHKの描写はこの番組特有の淡々とした事実の積み重ねだが、かえってそれが今様の忖度を廃して、当時の様相をかなり忠実に伝えていたように思う。
映像はもちろん東京中心だが、愛知の地で同時刻、同様の状況に身を置いていた自分の青春が改めて偲ばれた。

             

特に懐かしかったのは、60年安保当時の全学連委員長だった唐牛健太郎の映像だ。
お互い多忙な身、交流の機会は少なかったが、秋葉原の高架下で地方大学の出身者のみ4人で飲み明かした日、宿を取りそびれて彼の下宿へ泊めて貰ったことなどが思い出される。
これらの機会に彼が主張していたのは、反中央、反東大、反権威であった。それが、あれほど著名であった彼が、その後の人生を、高度成長にもおもねることなく、無頼ともいえる生活を選択して生きた要因だと思う。
この番組でも、漁師生活を送っていた頃のものが出てくる。
私が最後に出会ったのは、彼が亡くなる半年ほど前、徳洲会病院のオルガナイザーとして名古屋へ来た折だった。居酒屋の店主だった私に、入口を入る早々、「よおっ、元気そうだな」と明るく声をかけてきた映像が、いまでも焼き付いている。
唐牛は自分の生き様を自由に選択し、47歳でその生涯を終えた。それ以後、40年近く、私は無様なまま生き延びている。

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カエルの歌が 聞こえてくるよ

2024-06-03 00:55:46 | よしなしごと
 何を知らせたいかというと、久々に夜遅く帰宅し、遠く離れたバス停から家まで歩く途中、うちからはとっくに見えなくなってしまった田んぼに、田植え近しと水が張られていて、蛙たちが一斉に鳴き出した風情である。
 
 
 水がなくて田んぼが干からびた状態だった頃、蛙たちはいったいどこにいたのだろう。
 
 半世紀以上前、わが家は周囲四面が田んぼで、エアコンもない時代とてすべての戸や窓を開け放って風を通していたいた。
 で、その全方位から蛙の凄まじい鳴き声に攻められ、ラジオもTVもボリュームを大きくしないと聞こえなかった。
 
 ちょっと玄関など開けておくと、いつの間にかトノサマガエルの来訪があったりと・・・・還らぬものはすべて「いとをかし」である。
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キス!キス!キッス!

2024-05-30 17:01:51 | グルメ
 スーパーに入っている魚屋の店頭、10センチ前後のキスが15尾で200円と格安。ただし「そのままのお持ち帰りですよ」とのこと。ようするに、鱗を取って腹出しなど自分でしなさいということ。

      
 
 そんなものお安い御用と早速ゲット。調理は唐揚げにすることに。塩コショウと手持ちの香辛料などを降って、片栗をサッとまぶし、まずは低温でじっくりもっくり、骨が柔らかくなるよう時間をかける。仕上げは高温にし表面がカラッとなるように。
 だいたい、思ったように仕上がり、頭からボリボリ食べることが出来る。

      

 それにチクワと胡瓜の射込みとキハダ(300円)の山かけ、水菜のおひたし、これが夕餉。合わせるのはやはり冷の日本酒でしょ。

      

 キス15本のうち6本は残す。これは翌日、わかめと一緒にうどんに乗せた。天ぷらうどんならぬ唐揚げうどん。出汁が淡白なキスに沁みて結構美味しい。

 でもこういう魚の売り方って最近少ないんだよなあ。

 

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「廃」の「あはれ」と硫黄島の少年兵たち

2024-05-29 15:42:16 | 歴史を考える
 先般、私のうちの近くの廃屋やもはや使われないままに打ち捨てられた農機具などについて書いた。こうした廃屋や廃車など「廃された」ものへの哀れ(古語でいえば「あはれ」。ただし、「枕草子」などでみるように、古語のほうが「しみじみとした」情感一般を指していて、その用途が広いようだ)の感情はなぜ起こるのだろうか。
 
 さんざん利用された後に打ち捨てられたその「もの」に対する感情だろうか。それとも、それを利用した人たちへの「来し方行く末」を思う気持ちからだろうか。

      

 ここに載せた廃車は、やはりわが家の近くにあるもので、最初に気づいてからもう10年は経っていると思う。かつての田んぼを埋め立て、埋め立てた山土を均し固めたのみの駐車場の一番端に鎮座しているのだが、廃車を物置として使っているケースともやや異なる。

      

 物置として使用の場合は普通、ナンバープレートは外してあるが、これにはれっきとしてそれが付いたままであるし、ものを出し入れした形跡もない。
 ルーフキャリアには作業用はしごを乗せ、中にもやや小さい脚立とホースやコード類がびっしり詰め込まれているので、何かの工事屋の車と思われる。
 それがなぜ、長年にわたってここにあるのかは謎だが、今度近くの人に会ったら訊いてみよう。

      

 廃屋、廃車、廃線などに「あはれ」を感じはするが、廃フェチというほどではない。ただ、これらの「廃」を貫いて思い起こすのは「故郷の廃家」という古い文部省唱歌だ。この歌は、最近ではほとんど聞かれないが、私の子供の頃には時折耳にする事があった。

 しかし、私が特に感慨深く思うのは、1945年、硫黄島において歌われたそれだ。
 この年の2月から3月にかけて、硫黄島に配属された約2万1千名の日本軍は、アメリカ軍に包囲され、連日の艦砲射撃に穴蔵生活で耐え続けた。そしてその中には、およそ数百人の15、6歳の少年兵たちがいた。
 彼らは夕刻、米艦の砲撃が止むと穴蔵から出て、北の方角・故郷を見つめながらこの歌を合唱したというのだ。
 https://www.youtube.com/watch?v=DQAstpXLkmE
 https://www.youtube.com/watch?v=zu2rS1-gV0g

 この歌の作詞は犬童球渓であり、彼は「ふけゆく秋の夜 旅の空の わびしき思いに ひとり悩む・・・・」の「旅愁」の作詞者でもあるが、「故郷の廃屋」もこの「旅愁」も、曲の方はアメリカ人であり、特に後者は当時存命中のアメリカ人作曲家であった。普通なら敵性音楽として公の場所では歌ったりできないものであったが、文部省選定の「中等教育唱歌集」に収められたものであったせいで生き延びたのであろうか。
 なお、硫黄島の少年兵たちがこれを歌ったのも彼らの年齢層が接していた、まさに「中等教育唱歌集」の歌だったからだろう。
 
      
      

 その硫黄島であるが、3月に入り、圧倒的な火力の米軍が上陸作戦を強行し、日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」の東條英機の「戦陣訓」に従い、絶望的な玉砕・バンザイ攻撃の中でその9割が戦死した。その割合は、少年兵も同じであったろう。

 私は、このくだりをできるだけ淡々と書いてきたが、実際にはこみ上げる寸前の思いをたぎらせて書いている。明日をも知れぬなか、歌い続ける少年兵たち、そんな彼らを微塵の情けもなく消し去ってゆく圧倒的な戦火・・・・。
 私は彼らを殺した者たち、戦争をした大人たち、少年兵をそこへと送り込んだ者たち、そのくせ、戦後はのうのうと生き延びてなおかつ人の上に立ち続けた者を憎み続けてきた。

 「廃」からの繋がりが広がりすぎた感があるが、しかしこれはこじつけではなく、私の中ではごく自然に行き着く流れなのである。
 「廃」は哀れ(古語では「あはれ」)を呼ぶと冒頭で述べた。だとすれば、硫黄島での少年兵たちの合唱「故郷の廃家」はまさにその全幅の意味を込めてその対象というべきであろう。

全く偶然の発見だが、上の記事に引用したボニー・ジャックスの方の「故郷の廃家」の2番の冒頭に出てくる写真、2008年に私が近所で写し、2015年のブログに載せたものの引用です。廃屋の雰囲気をよく出しているとして引用してくれたのでしょうから歓迎です。
 なおいまはその地にはこざっぱりとしたアパートが建っていて、かつてこのような情景があったことを覚えている人はもうほとんどいないでしょう。 
 その写真は以下です。
     
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廃屋、そして廃棄された農機具と夢幻の田園風景

2024-05-25 01:33:32 | フォトエッセイ
 私の周辺の市街化の勢いはすごく、ここ何年か前の田んぼの中に住居などが散見できるというかつての風景は完全に逆転し、もはやわが家からは田んぼも見えず、逆に市街化された地域を通り抜けてやっと田んぼが見えるといった感じになってしまった。
 
 この間の経緯は何度も書いたので、またかと思われるかもしれない。しかし、その変貌はここ2、3年、本当に早いのだ。新しく建つ家屋も、機能本位の無国籍風が多く、その間を縫って歩く気も起こらない。最近、この近辺をうろつく機会もめっきり減ってしまった。

      
         

 しかし、これでは足腰の衰えに対抗できないと、数日前、昔からあった集落の中を歩いてみた。結論をいうなら、ここでもがっかりさせれれることが多かった。
 昔の農家の常として、槇の生け垣などに囲まれた屋敷内に、住居のほか、そこそこの畑をもっていて、そこでは自家消費用の様々な作物が小分けされた面積で栽培されていて、それを覗き込むのが楽しみだったのだが、いつの間には生け垣はなくなり、かつての畑にはコンクリートが敷き詰められ、貸駐車場になっていたりする。
 また、どっしりした伝統的な日本家屋風の母屋が取り壊され、コンクリートの四角い塊りの家屋に化けていたりする。

      
         

 そして、こうした昔からの集落の中や周辺に、廃屋化した建物が交じるのだ。
 ここに載せるのは、二軒ほどだが、荒れ放題の生け垣の中で写真に撮れなかったところなどを含めると、この日、一つの集落の中のみで、数件のそれが確認された。
 集落のはずれの、つい先ごろまで田んぼであったところに林立する住宅の新市街とは対象的な光景である。

 次に載せているのは、私の家の二階から数十年にわたってウオッチングしてきた二反の田んぼの耕し手の屋敷内で、彼は数年前に急逝したため、今はもう使われなくなった農機具などがアトランダムに置かれている。
 ここは私の家から離れてはいるが、ここから彼はそれらの農機具を運転したり、トラックに乗せて運んだりして私の家のすぐ近くの田へやってきていたのだった。

 そしてその田は、今や埋め立てられて、コンビニとコインランドリーが華やかに営業していることは以前書いた。

      
         
      
         
      

 彼の屋敷内に散在している農機具は、こうしてみてもいかにも古臭い。それは彼の死後、もう何年も経っているからではない。彼が生前使用していた折に、それはすでに古びていて、知り合いの農機具メーカーの人も、もうこんな機械使っている人は日本中探してもめったにいないと太鼓判を押していたほどなのだ。
 そうしたエピソードも含めて、ひとり黙々と作業を進めてきた彼の人柄のようなものが偲ばれる光景である。

 最後に、彼が健在で自分の田で作業をし、それを私が2階からウオッチングしていた頃の写真を載せておく。
 
      

 1枚は夏の終わり、風になびく田のまさに穂波の様子。あとの2枚は刈り入れの様子。いずれも2010年代なかばのもの。

      
       

 いまは24時間営業で終日灯りが絶えないコンビニやコインランドリーの箇所に、ほんの何年か前までこうしたのどかな田んぼが広がっていたことを知る人は少ない。
 私のようにそれを知ってる者でも、かつての田園風景は記憶の底に押しやられがちで、それ自体が夢幻のように思えてしまうのだ。
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