イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

無理の現場

2008-10-22 00:30:42 | 世相

先日の記事で触れかけてやめた“よく耳にし活字でも目にし、自分もつい使ってしまうけれども気に入らない言葉”とは「○○現場」という言葉です。

いちばん使用頻度が高いのは“教育現場”“医療現場”かな。“医療”関連で“介護現場”、あと“製作現場”なんてのもあるか。

もちろん、もっともっと昔から使われていた“工事現場”“作業現場”の類はこれに含みません。少なくとも20年、30年前は“現場”という言葉が“医療”“教育”と接合されて使われることはなかった。

なぜこの言葉、と言うか用法が自分は不快なのかなと考えるに、第一に“過剰に婉曲”

日本語には、具体性やピンポイント性を敢えて避けて曖昧に言うという伝統的表現法がありますが、なぜ“病院”“病棟”“手術室”“処置室”“調剤室”もしくは“○○科”ではダメで“医療現場”なんてもやもやっと丸めるのか。「いま医療現場で起きている問題は~」ではなく、「○○科でこれこれこういう治療や、処方をするときに起きる問題は~」と特定できないのか。

なぜ“学校”、あるいは“小学校”“中学校”“高校”さもなきゃ“幼稚園”、ひいては“教室”“職員室”“PTA”等ではダメで“教育現場”なのか。「教育現場の声にもっと耳を傾けて~」なんて言わずに、「ドコソコ小学校の何年何組の誰某先生、生徒誰某くんの父兄誰某氏からの、かくかくしかじかの意見に耳を傾けて」と言えないのか。

なぜ漠然とした、「どこからどこまで」と境界のはっきりしない状況全体を指す様な言い回しを採るのか。

気がつけば“医療”“教育”って、何が起きても、何を問うてもいつも責任の所在がはっきりしない、誰も責任を取ろうとしない分野の“東西正横綱”です。

第二に、第一とも関連することですが“迂回した軽侮”が濃厚に匂う言葉だから。

奇しくもいつかの、某TVドラマ劇場版のキャッチコピーが、月河の不快感の源泉を明快に指し示してくれました。

「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ」。

とりわけ“医療”“教育”と“現場”が接合するときには、“現場”からは姿かたちの見えない、“会議室”的なもの=“裏で糸を引いてすべてを差配管理している力”が暗示されている。「医療現場の実情にもっと向き合う(←この“向き合う”って言葉も実にまた別クチで厄介なのですが)べきだ」「教育現場にこれこれが活かされなければ意味がない」などの表現を使うとき、字ヅラだけ追えば“現場が優先、現場第一”ということを一見言っているようでありながら、結局は「なんだかんだで裏の、上層部の、管理システム次第なんだから」という前提条件をまる呑みに是認称揚している。

「ある学級、ある診療科、ある幾つかの病院でどれだけごまめの歯ぎしりしても、結局事態を変えられるのは政策だけだから」という無力感、放り投げ感も強烈に立ち昇って来る。

“医療”“教育”は、“制度”“政策”“官主導”色の強いことにおいても日本の2大フィールドです。

現場、現場と繰り返すたびに、「“非現場”のほうが圧倒的に強力」ということを暗黙のうちに強調刷り込みしている。この迂回した、負け惜しみの透けて見える感じが非常に不快。

とは言え巷間流布している表現であることは確かだし、流布している状態を月河ひとりで変えることはできないので、せめて、自分で文中、あるいは論中、ついこの言葉を使いたくなったら「具体を避け漠然とした状況にすり替えてごまかそうとしてないか?」「“どうせ”的な負け犬感、曳かれ者感を含ませて言葉を発していないか?」とまず自問自答してみて、「ない」と確答が得られてから使うようにしたいと思います。

さて、目下の“医療現場”『愛讐のロメラ』は第16回。早くも第4週に入っています。ヒロイン珠希成人後篇も、今週が終われば少女期篇と同話数消化したことになります。

人物の敵対感情が12週と違い過ぎで取ってつけたみたいなんてことは、この際もうあまり気にしないことにしました。恭介(染谷将太さん→相葉健次さん)が珠希に純な恋心を抱いていたのは受験期前の高校生時代で、異性に対してはいちばん熱しやすく冷めやすく、自分のことは棚に上げて妙に潔癖症だったりもする時期ですから、自分の実父を転落させた犯人なんて聞いたら、真逆の感情に凝り固まってしまうこともあるかもしれない。ないかもしれないけど、あるかもしれない。これは「ある」という前提で進むお話なんだから、それに沿ってやらなきゃ視聴続けられません。

血縁はなくても姉弟として、母失踪後は珠希に面倒みてもらっていた弟・亮太までが珠希を「アイツ」呼ばわりして「今度会ったら何するかわからない」まで言うのはもっと納得性がないのですが、幼くして白血病で死線をさまよってますからね。人格のひとつやふたつ(ふたつはないか)変わるかもしれない。同じ病気で治療中に惜しくも亡くなった本田美奈子.さんなどは、骨髄移植で血液型がO型からA型に変わったそうですし(そういう問題じゃないか)。

それよりどうにも呑み込み辛いのは、珠希が少年院を出た後努力して外科医となったまでは百歩譲って認めるとしても、互いに恨み恨まれている加賀見家経営の病院にいきなりわざわざ勤務していて、いちいち「恭介さんがアメリカから帰国してくる」「あの女がなぜここに」「七瀬珠希ってまさか」と珠希も恭介も亮太もいちいち目の玉ひん剥いて驚いたり睨みつけたりしている。加賀見家経営の病院に勤めりゃ、会うに決まっているだろうに。

表向き、優秀な成績で医師となったものの傷害致死の前科の噂に付きまとわれ決まった就職先を得られずにいた珠希に、いまや院長となった謙治が「最もつらい場所に身を置いてこそ贖罪の価値もあるし、命を救う仕事にふさわしい本当の医者に成長できる」と助け舟なんだか、何なんだかわからない提案をして雇い入れたという理由があるのですが、謙治もいろいろウラがありそうとは言え、黙って言葉だけ聞いてるとこれでもかってぐらいのヘリクツだし、「わかりました」と鉄仮面のような顔で従ってる珠希もまともな神経と思えない。謙治の提案を蹴ったら本当に就職先がないという不安もあったかもしれませんが、普通に考えれば本当に優秀な成績で大学を修了し国家試験を通った若手医師ならば、まず指導教授の覚えが相当めでたいはずで、少年院云々が問題にならない地味な職場のひとつやふたつ斡旋してもらって当然。

いくら系列病院とは言え、いち民間病院の院長を13年もつとめてきた謙治が、今日の16話で「最終的な目標は大学学長」なんてホラ吹いてる辺り、脚本家さんが医学界の現実をよく調べていないのかもしれない。よほど莫大な額の寄付でもすれば別かもしれませんが、大学医学部生え抜きの医師と、民間病院の医師とでは“国籍”が違うくらいの立場上の差があるものです。

狭い世界で濃密な人間関係が縺れ合い繰り広げられるのがこの枠のドラマの古典的枠組みで、それはむしろ歓迎なのですが、幾つかの作品でたまさか「この人物たち、人間関係を好きこのんでややこしくする以外、仕事も趣味も何も無いんじゃないか」と思うような局面にぶつかります。

今作はその前段階で「この人たち、好きこのんで狭いほう、狭いほう選んで生きようとしてないか」と思ってしまう。濃密な人間関係も前述のようにかなり無理やりな感情ベクトル設定で無理やりに濃密にしているけれど、濃密を濃密たらしめるウツワ部分たる“世界の狭さ”も、かなり無理して作られた狭さです。

枠組みも道具立ても無理やりなら、人物の感情の発生と表出も無理やり、そこらじゅうに立ち込める“無理やり感”をどう楽しめるか、面白がれるか、ここ当分はそこにかかってきそうです。

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