80~90年代に比べるとだいぶ減ったとは言え、いまだに月河の先輩世代、親世代には「パソコンやワープロで印字した私信・年賀状は冷たくて事務的だから嫌い」「もらっても嬉しくない、読む気がしない」「ビジネスや冠婚葬祭の通知ならともかく、季節のたよりや近況報告ぐらいは、少々悪筆でも拙劣でも手書き肉筆のほうが格上で正統」と信じてやまない人が結構います。相手がこういう考え方の人だとわかっていたら、否応なしこっちも手書きで書かなければなりません。
正直に言いますが本当に困ったものです。
別に手書きがスーパー苦手だったり嫌いだったりで始めたわけではありませんが、少なくとも月河は80年代に会社の仕事でワープロを覚えさせられることがなかったら、俳句も作り始めなかったし長い文章も書き始めなかった。これは間違いない。
特にイベントや用事のためでなく私信を書いて送る機会も、ワープロのおかげで飛躍的に増えました。何と言うか、文章を考えて書くという行為が親しく、身近な喜びになったのです。
プリンタ写りが良く、なおかつ行間・天地両袖の余白案配の好ましい便箋や、その便箋と出来合いのお揃いでなくてマッチングセンスのいい色調・デザイン・版型の封筒を探して買い集める楽しみを覚えたのもワープロがきっかけ。
数年前にワープロがダウンしてやむなくパソコンに切り替えたものの、これら“文字打ち機器さんたち”の存在がなければ、公私ともにいまの半分も、十分の一も“ものを書く”ということをしていないだろうと思います。
ちょっとした時候の挨拶をしたためるにしても、パソコンのほうがずっと構成しやすく、相手先の近況や気候に思いを馳せつつ推敲し書き直したり、ここはと思う箇所を違う字体にしたり、書き終えてから思いついたちょっとしたひと言を書き加えるときに、読みやすい位置に挿入して、レイアウトを整えてあげることもできる。パソコンがなければ、こういう作業をぜんぶ、お気に入りの便箋を何枚も書き損じにしながらやらなければなりません。便箋=紙=パルプ=森林伐採。実にちきゅうにやさしくない。肩も凝る、ペン胼胝もできる、からだにもやさしくない。
“冷たくて事務的”を理由にワープロ印字の私信を嫌う人に本当は心をこめて反論したいのですが、少なくとも月河はワープロ・パソコンを使って私信を書くようになってからのほうが、手書きしか知らなかった頃よりずっと“受け取って読む人の身になって、読みやすく気分を害さず、できれば読後少しでも温かく明るい気分になってもらえるように、文を書く”ことを意識し心がけるようになりました。
少なくとも、自分の書く私信が、“手書きでない”こと単体が原因で“冷たくて事務的”にはなっていないという自信は持っています。実際月河からの手紙を読んだ人が「なんて冷たくて事務的な、読む気のしない文章だろう」と思ったとしたら、それはパソコンのせいではなくて、それを書いたときの月河が冷たく事務的な気分で、その人に読まれるのがイヤでイヤでしょうがない気分だったのです。わはは。お気の毒さま。
それでも一時期までは、「自分はワープロで書くけど、手書きの私信には、手書きならではの味わいがあり、貰えば格別嬉しいものだ」と思わないこともなかったのです。しかし最近は、表書きから差出人住所から本文から、まるごとベタ手書きの、特に分の厚い封書など受け取ると、封を切る前から「…あぁこれを読まなければならないのか」と微量暗澹たる気分になる自分に気がつく。
年齢とともに、“ワープロ印字の手紙ならぜんぶ心がなくて事務的というわけでは決してないのと同じように、まる手書きの手紙にぜんぶ心がこもって真実味があり読んで温かい気持ちになるわけではない”ということがわかってしまったのがその理由のひとつ。
いやホント。“手書きで、かつさほどの悪筆でもないけど、なんか無神経で書きっぱなしで、読み手の読み辛さや読んで受ける印象の悪さに無頓着”という手紙が、実はかなり多い。世間で思われている“手書き”のイメージより相当多い。
もうひとつは、月河の個人的特殊な理由。
本文に入る前、表書きの宛名の段階で、誤字率がぶったまげるほど高い。
多数の年賀状を受け取るとすぐにわかるのですが、月河の本名のうち一文字は…えーとね、名前の話だけに個人情報バレしないように説明するのが実にむつかしいな。ある画(かく)がある画を跨ぐ、て言うか突き抜けるのが、実家の親が命名し戸籍にも載ってる正しい書き方。しかし、一般的にはそこを“突き抜けない”のが、同じ読みで、義務教育で習い新聞活字にも使われている字なんですよね(ちなみに、正しいほうも、一般的なワープロソフトの変換候補にはかなり上位にあります)。
親が「ツキヌケた人間になって欲しい」と願って命名したかどうかは知りませんが、とりあえず幼い頃から自分の名を漢字で書くときには「突き抜けて書くように」と教わってきたし、手紙や年賀状などはもちろん、履歴書身上書、帳票類などあらゆる公的書類にはもちろん、プライベートのくっだらない手紙や年賀状暑中見舞いであっても、すべて突き抜けて書いてきて、名刺を作るときも突き抜けて印刷してもらい、取引先にも配って歩きました。
にもかかわらず、手書きで私信を寄越す人の半分以上が、“突き抜けない”宛名で平気(かどうか知らんが)で寄越すという、嘆かわしき現実があるわけです。
気がつけば、昨日今日知り合ったわけではない人からのそれでも“突き抜けない率”が噴飯モノ、血液逆流モノ、大動脈破裂モノ(それはさすがに)の高率。
しかもある年の年賀状は突き抜けて書いてくれた人が、次の年は腑抜けたように突き抜けてなかったりする。
「短い付き合いじゃないのに宛名からして誤字なんて、もうコイツには年賀状も何も死んでも出さねぇや」と思っていると、翌年何事もなかったように突き抜けた、しかも結構可愛い残暑見舞いか何か寄越したりするから油断がならない。
んで、「そうかやっぱりわかっててくれたのか、つまらないことでツムジを曲げた自分の心が狭かった」と反省して気持ちよく年賀状を出すと、行き違いに来た賀状がまた見事に突き抜けてないんだコレが(倒)。
要するに、突き抜けることに常にこだわってるのは月河本人だけなんだ。淋しいことだがこれが現実。“人の名前に対して、他人は自分がコレくらいはと望む十分の一も興味持ってないし無神経なものだ”ということがわかってしまったんですね。
手書きの手紙を貰うのがさほど有難くなく、嬉しくもなくなったのはその辺りからのような気がします。
ちなみに、月河に本名を授けてくれた実家両親も、それぞれの兄弟親戚も、現在同居中の高齢家族たちにも、なぜか“当用漢字・教育漢字と一画違い(ハネるか止めるかとか、ウ冠かワ冠かなどを含む)”や、読み方も“一般的に流布してる読みとは違う”、誤字誤読好発激発名前が多く、まるで「サルでもわかる・読める名を付けたら祟りがある」との家訓でもあるかのよう。
月河は十数年前仕事用のペンネームまで、なんとなく思いつきで名乗ったら書き辛く読み辛い漢字名前になってしまったので、せめてブログネームだけは“サルわか”系にと思って、まぁ、“突き抜けたい”つながりでもないけど、このブログのプロフィール←←←にも出した通り競走馬の名前から自己命名したわけです。
なんなら姓名ともに馬と同じカタカナ表記でもよかったんだけど。一応『ティファニーで朝食を』のヘンリー・マンシーニ作曲をイメージしてこう名乗ることに。いまさらですが今後ともよろしくお願いします。
誰に言ってるのか。
ところで先日(23日)の『お試しかっ!』“チャレンジ漫才”でのサンドウィッチマン「海江田万里の頂上まで」で出会いがしら爆笑してしまいましたが、気がつけばカイエダ・バンリって何をする、どんな人だったか瞬間、全然思い出してないのな(無礼)。
それどころか、ひとしきり笑った後でも思い出してない(無礼それこそセンバン)。
ご本人を思い出さないのに、バンリという音(おん)の響きだけで、瞬時に「“万里の長城”の万里」と、脳内で読みと表記が連結して笑いを誘発する、“ほかに有名どころの同名さんがいない珍しい名前”ってのも悪くないなと思った次第(悪くないと言っても漫才のネタに使われて笑い取る程度だけど)。
おしゃべりクッキング上沼恵美子さんは海原センリ・マリだし。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます