イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

弘田三枝子さん永遠のVACATION ~あれはかりそめの~ 

2020-08-10 22:43:54 | 音楽

 弘田三枝子さんの訃報は先月の末、新聞か、ネットニュースサイトで拾って脳内にありました。

 ここのところの情勢から、ひょっとしてコロナ?それほどご高齢じゃないはずだけど、でも団塊世代ではあるよね?志村けんさん岡江久美子さんの例もあったし、70歳代ならあるいは・・と思いましたが、報道によれば前日まで変わったところもなく、心不全で救急搬送、ほとんど突然死のような最期だったようです。

 報道後一日、二日経ってから、現役の同年代ベテラン歌手さんたち、もう少し若い、邦楽ポップス界クリエイターの皆さん、山下達郎さんや桑田佳祐さんらからも惜しむ声が数々上がって、こんなに幅広い層にリスペクトされていた人だったんだ・・と驚いた向きも多かったのではないでしょうか。

 近年はマス媒体への露出がほとんどなかったので、いまのアラフォーより下で弘田さんの名前を聞いて、楽曲と歌声が一致する人はいないでしょう。ヴィジュアルはなおのこと。

 しかし1960年代初頭、というより昭和30年代中盤から40年頃にかけて、日本でジャズやアメリカンポップスを好んで聴いて憧れていた人なら、歌手弘田三枝子に惚れない人はいなかったのではないでしょうか。月河はリアルタイムではまだ子供だったし、弘田さんの歌のすごさが実感できるほどの観賞力もなく、レコードプレーヤーもスピーカーも縁遠く、テレビさえ白黒、あまつさえ受信状態が悪くてNHKしか映らないような環境にいましたから「弘田三枝子ってすごかったんだよ」と実感をもって語ることはできません。

 ただ、周囲の大人たちの「弘田三枝子、歌うまいねえ」「パンチきいてるねえ」「声量あるよねえ」という絶賛、定評がすごかった記憶が鮮明なのです。この人歌うまいなアと自分が思うより、「歌がうまい」と褒められている、そのベクトルがすごかった。熱量ではなく、「弘田三枝子と言えば→歌がうまい」への、まっしぐらな一直線収斂のし方がすごかったのです。

(月河が、1947年生まれ弘田さんを含む団塊世代ベビーブームが終わって「世の中静まってから」の生まれなことが大きいと思う。前にも何かの話題でここに書きましたが、何でも月河が認識して好きになったり、あんまり好きになれなかったり態度を決める頃には“固体化”“客体化”していて、ワーワーキャーキャー、熱っちっちでなく、おおかたから冷静に評価され整理順列されているのがつねでした)

 月河が物心ついて初めて知った弘田さんの歌唱曲は『VACATION』、次いで『夢みるシャンソン人形』。どちらも洋楽ヒット曲の日本語歌詞カヴァーで、この分野に関しては弘田さんは、同年代(『VACATION』日本盤リリース時15歳)はもちろん、同時代のほかの歌手の追随を許さない、前人未到の野を駆けるパイオニアでした。

 いまでも動画サイトなどで他の彼女の代表曲とともに聴くことができますが、歌い出しの有名な♪う゛いえいすぃえいてぃあぃおえん~ がすごいだけじゃなく、ここと同じメロディーで♪待っちぃどっうぉうしひぃのわぁ~ と、原曲にはもちろん無い日本語詞を歌うリフレイン箇所の、それこそ“パンチ”のきき方が、日本人の女性歌手離れしていると言うより、ほとんど人間離れしているのです。これは弘田さんの、原曲の音程を聴き取る耳の良さであり、日本語歌詞を外来の音程に沿わせてはじけさせる、歌いこなしの才でもある。あの時代、日本的歌謡曲や演歌に飽き足らず、新来の洋楽にふるいつきコードやビートをスポンジのように吸収していた世代にとって、弘田さんという天才が切りひらいて見せ、歌って聞かせてくれた世界の広さ高さ輝きは唯一無二のものでしょう。たとえば桑田佳祐さんは、自身80年代にリスペクトソング『Mico』(ミコ=三枝子さんの愛称)で歌っておられたように、弘田さんがいなければ恐らくサザンオールスターズをやらなかったしシンガーソングライターにならなかった、少なくともああいう一連の曲想でああいう歌詞の当て方歌いまわし方で世にうって出ることはなかったはずです。

 だからむしろ60年代中盤以降、若者の洋楽志向が英国発のビートルズに接し、GSブームが起きて、世の中猫も杓子もの勢いでエレキギター・サウンドに傾斜していった時代からの弘田さんが、音楽的には大人しくなり、筒美京平さんや川口真さんの和製オリジナル曲を専らにして歌謡曲寄りになって行ったのは物足りない気がするのです。

 1969年=昭和44年リリースの『人形の家』は彼女にとって久々の大ヒットになったのですが、これ以降の弘田さんはどちらかというとダイエット本ベストセラーや美容整形イメチェンのほうで世の興味関心を惹く“タレント”“芸能誌物件”化して、「弘田三枝子と言えば→歌がうまい」のベクトルの明晰さは色あせていきました。ヒットチャートは日本人作詞家作曲家のオリジナル作品中心になり、彼女の稀有な日本語洋楽歌いまわしのテクがもてはやされる時代ではなくなっていたし、そうでなくても彼女が「歌がうまい」ことはもう十年来既定の事実になりすぎて、砂にめり込んで飽きられてしまっていたのかもしれません。

 『人形の家』でのあまりに瞠目すぎた変身イメチェンについてはいまだによくわかりません。1968年頃のジャケ写から、前髪を下ろしアイラインと付け睫毛を強調したバービー人形風メイクになってきているので、あるいはその少し前に渡米しジャズフェスに参加したことが心境の変化につながったのかな、とも想像します。言っては何ですが日本は敗戦国ですから、60年代はまだアーティストでも海外、特に欧米へのハードルは高く、カルチャーギャップも大きかったようで、短期でも欧米滞在経験がきっかけとなってイデタチが一変する人は少なくなかったように思います。

 そうでなくても、60年代の所得倍増時代、中学生でデビューして、休みもなく、(たぶん)ほとんどまともな学校生活もなく歌い続けて二十歳を迎える頃には、「自分を変えたい」「このままじゃいけない」的なことを考えるには違いない。「→歌がうまい」の直球一本鎗な呪縛、まるで歌がうまい事以外何も長所がないかのような見られ方に嫌気がさしてきて、「歌がうまい、だけじゃなくて美人でもある」にしたかったのかもしれません。

 ただ歌唱法まで変える必要はなかったのではないかと、陰に陽に「イメチェン前のほうが良かったのに」という意味の論評も、当時から聞こえてはいました。前述の桑田さんのリスペクト・ソングも歌詞ではっきりそう言っています。

 しかしこればっかりはなんとも。音楽シーンの変遷ははやく、十代の弘田さんの唱法での洋ものカヴァーに往時の需要が無くなっていたのだし、弘田さん本人の自分史、ダイエット等も含めた“芸能人”キャリアも、巻き戻すことはできなくなっていましたから。

 先週、8月7日にBSテレ東で追悼番組が放送され、何とか滑り込みで“最後のシングルリリース曲”だけ聴けましたが、ロマンティックバラード調の、訃報のあとで聴くと一層“乙女な老女の晩年感”に満ちた楽曲ではありながら、♪おンもいひぃっでへェだっけをぉ~ と、ともすれば歌いまわしのオカズ満載にする気満々なのは弘田さん、変わっていませんでした。最盛期を大人たちの会話からの仄聞で知ったレベルの月河が聴いてさえ、切なくなるくらい変わっていなかった。ヒットした楽曲だけ拾えば大人しく、コンサバ寄りになっていたとしても、晩年まで、“攻めて歌う”情熱は失っておられなかったのです。

 月河も一応(一応かい)女性なので、外観の“造作替え”イメチェンにネガティヴなことはあまり言いたくありません。令和のいまでこそ美容整形の敷居は低く、芸能有名人だけでなく一般の勤め人や主婦でもカジュアルに選べる選択肢になっていますが、1960年代の一般常識の中で、当時の外科技術レベルでの造作です。二十代前半で一度ガツンと直したとしてそれで“一生モノ”になるわけもなく、二度も三度もそれ以上も手を加える必要が加齢とともに絶えず生じたはずです。

 あれが無ければ、晩年いま少し露出して歌声、歌魂(だましい)を、『VACATION』時代を知らない皆さんにも伝えられる機会があったのではないかと、そこだけは残念です。皮肉にもいまは、放送画質も60年代の比ではなくリアルに、鮮明になっている。歌声を披露しても、往時を知る視聴者の、お茶の間からの視線や所感が“顔”“造作”にどうしても行ってしまい、歌を聴くことに集中できない事態は、番組制作側より視聴者より、誰より弘田さん本人が望まなかったでしょう。

 「歌がうまい」ということは間違いなくギフト、幸福な天賦であるには違いないのだけれど、それ単独では意外に儚く、流されたり飽きられたり、摩耗したり埋没したりしやすいものなのかなとも思います。

 ナマ身、あるいは近影を晒さずとも、盛りの頃の画像と音源で堪能可能なサイト、アプリ、サブスク・・等々が行きわたった時代に旅立てたことだけは弘田さんラッキーでした。あの歌唱は不老にして永遠です。ご冥福をお祈りいたします。


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