イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

詩ル・ヴ・プレ

2009-03-05 16:02:16 | 夜ドラマ

事件解決しても一抹二抹の苦さが、人物たちにも観る側にも残るのが個性であり魅力の『相棒』ですが、4日放送のseason 7“天才たちの最期”は後味どうこうより、お話がやや陰惨に過ぎましたかね。

若き天才女流詩人の、聴衆の面前での抗議の自殺、彼女から触発を受け世に出たやはり若い天才美形詩人も7年後に同じ状況で自殺。天才女流の草稿ノートからの盗作に、彼らからすれば親世代・祖父世代で師匠格の詩壇大御所2人が手を染めていたのみならず、天才美形の詩集を手がける出版社社長が「どうせ自殺するなら、きみの尊敬する女流の名誉を回復する死に方をしたらどうか」と示唆していたという、いやはや日本の“詩壇”なるもの、というか詩を商品・商売にする人々の世界はどんだけろくでもないんだよという話。

草稿を盗まれた被害者なのに、相手が大御所なばかりに逆に疑われ自殺した天才女流・朋美(清水美那さん)、若年性アルツハイマー症と診断され、詩が書けなくなる恐怖と苦悩に耐え切れず自殺を考え、出版社社長の教唆で「僕が詩の世界を変えて見せる」と白紙の原稿で、大御所2人の前で勧進帳を敢行、2人に毒殺の容疑がかかるよう偽装した上で、盗作された女流の作を絶誦して服毒と、目いっぱいの大芝居で息絶えた天才美形・安原(三浦涼介さん)、ともに周囲にゲタはかされたわけではなく、詩才も、詩に取り組む姿勢も本物だったのがせめてもの救いか。“言葉の表現力”の優秀さを謳われた若者たちが、自分を虐げる不条理への闘いに言葉を使うことなく、“永遠に沈黙する”ことでしか怒りや悲しみを伝えられなかったことが悲しい。言葉というものは何と無力なことでしょう。

大御所2人=大学教授城戸(中島久之さん)にしても、重鎮五十嵐(西沢利明さん)にしても、若い頃は本当に汲めども尽きぬ才能があり、名作が溢れるように生まれたのでしょう。画家ならば新鮮な作品を描くネタがなくなれば外国へ行って“生まれてこのかた見たことがなかったもの”を描くことでかなり時間稼ぎができるし、作曲家なら新人の演奏家・歌手との出会いで、同じような曲想しか作れなくても新鮮に聴かせることはある程度可能です。音楽の場合、過去の作品が利益を生んでくれる、リバイバル・コンピレーションリリースや印税という仕組みもあり、事実上新曲が作れなくても、ほぼ終生第一線に踏み止まることができる。

しかし日本人の詩人が日本語で、日本人相手に詩を書き続けようとする限り、過去作と似かよっていればすぐ露顕してしまう(同じ“言葉”でも、長編の小説等ならゴマカシの余地がたっぷりあり、極端な話、登場人物の名前と職業、舞台となる時代と国籍を変えるだけで「おぉ新作だ」と錯覚させることも。そうして世に出回っている作品や作家は実際多い)。常に真新しいもの、オリジナルなものを中年老年になっても生み出し続けるのは至難の業、というより、それができるということのほうが天変地異もしくは呪いでしょう。大御所、重鎮と世間で称される人数分だけ天変地異がもれなく降臨しているはずがない。

助手だった城戸に助教授の椅子を餌に「朗読会用の作品を明後日までに」と代作を強要した五十嵐も、思い余って新進の朋美のノートに手を出し、朋美の死後も隠し持って自分の作品として小出しに発表し続けていた城戸も、その時点ではすでに詩人として死んでいたのです。「書けなくなったら死ぬべき」との覚悟がなかったことだけが若手2人との違い。”が日本語で“命が絶えること”を示す言葉と同じ発音を持つのは偶然ではないのです。

三浦涼介さんの顔を見ると、いまだに一昨年の『美味(デリシャス)學院』のマシューが記憶に新しく、一人称を「ミーは…」と言い出さないかとヒヤヒヤしてしまうのですが、シリアスな芝居がどうかという不安はまったくなく、天上的な容姿が役柄に似合っていましたね。朗読会場の青白い照明の中で喉をかきむしり倒れる場面は、本当に天使の末期(まつご)のようだった。

他方、初めて担当を任された安原の処女詩集出版に打ち込む新人編集者・瑛子役黒川芽以さんは、一昨年の昼ドラ『愛の迷宮』の頃よりもさらに肉付きが良くなったようですが、穏やかな場面でも息づかい音の顕著な喋り方といい、天使をどうにか消えさせまい、繋ぎ止めようと奮闘する“地上性代表”のような土俗的な熱気が感じられて、こちらも悪くなかった。大卒23年めなら、まだ在学中の安原とは同世代。警視庁に乗り込んで「自殺じゃありません、もう一度調べて」「ワタシは出版社の人間だから警察は杜撰だって書きますよ」と直談判する破れかぶれの度胸とウザいくらいの図太さ、自殺した2人の、潔すぎるか弱さと好対照に見えれば成功。

ただ冒頭にも書いた通り、結末は沈痛なものです。朋美からの盗作の真相が明るみに出た城戸は大学を辞め詩壇からも引退、五十嵐は内定していた文化勲章が見送られ、重鎮としての最晩年を汚名にまみれる結果になりはしましたが、所詮自殺した2人の命は還ってこない。屈辱に耐えかねての朋美の場合は「若いのだから生きてペンで闘い続ける道もあったのに」「詩人といえども商業出版界で生き残るには精神が繊弱過ぎた」とエクスキューズのつけようもありますが、若年性アルツハイマー症を苦にした安原の自殺だけは、もっと積極的なフォローがあってもよかった気がしますね。

かねてから、贖罪や逃避目的の自殺に同情しない立場を取る右京さん(水谷豊さん)は自殺幇助の出版社社長(三上市朗さん)に「彼がみずから命を絶った事を肯定するつもりはありませんが」と言っていましたが、きっぱり否定を、誰かにしてほしかった。“書けなくなる病気では世を儚んでも仕方がない”という地合いが続いたまま終わってしまったのです。真相判明後の後味悪さより陰惨の印象が強いのはこのせいでしょう。

たまたま先日当地で映画『博士の愛した数式』が放送された直後だったので、室内一面に貼られた無数のメモ用紙、同じ歯ブラシや消耗文具が大量に買いためられた引き出しの場面で、安原がなんらかの脳障害をわずらっていることは推測できました。あたら文才に恵まれただけに、知性や創作能力が鈍麻していく病気の恐怖と苦痛は筆舌に尽くしがたいものがあったでしょうが、アルツハイマー症、医療で根治までは難しくても、進行を遅らせる治療法は徐々に確立されてきているし、進行しつつもそれを受け入れ、残された日々を有意義に全うせんと努力している患者さんやご家族も大勢いる日本なわけです。「病気と闘って1日でも長く書き続けてほしかった、書けなくても、生きる手助けをしてあげたかった」と瑛子にでも言わせてくれたら、全篇の救われ感、せめてもの癒し感がだいぶ違ったと思います。

特命ルームで瑛子が安原のプロフィールを右京さんに説明するとき、「アイドル並みの容姿」という突き放した表現をあえてしていた辺り、“封印した恋愛感情”の暗示だったかもしれない。…

(ちょっと脱線しますが、児童施設から少年安原が出したファンレターに、脚光を浴びていた頃の楚々たる女子大生詩人・朋美は何通も励ましの手紙を送っているし、白皙の文学青年の面影をとどめる五十嵐は詩作を始めた安原を自邸の一室に住まわせて親代わりサポートしていました。明示はされませんが安原は両性に熱愛されている。“ランボーの再来”と劇中キャッチを冠せられる所以。そして彼自身の最も恋愛感情に近いベクトルは、実はがっしり体躯不精ヒゲの出版社長堀江に向けられていたと思しい)

…あるいは盗作を認めたときの城戸が「バカですよ、自殺なんて」「この宇宙を映し出すような、人の心を打つ詩の一篇も自分では書けないまま、世間を偽って卑怯に醜悪に年老いて行かなければならない人間がいるのに、才能ある若者が、なぜ書かずに死ぬんだ」「バカですよ、書けるのに死ぬなんて…書かないなんて、私よりずっとバカだ…そう思いませんか、思うでしょう」と絶句してもいい。

冒頭、瑛子に受付で食らいつかれ中、通りかかった右京さんを渡りに船とばかり「これはケイブドノ~♪」と満面の笑顔の伊丹(川原和久さん)はお約束だけど、先週の“髪を切られた女”で特命ルームに忍び込み依頼にまできていたはずの芹沢くん(山中崇史さん)も伊丹先輩と同席だと「ちょりーす(逃腰)」って冷たい冷たい。『相棒』の時間軸は前後するのか、相変わらずよくわかりませんな。

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