イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

『いだてん ~東京オリムピック噺~』 ~不思議無き敗者、最後の考察~

2020-01-30 19:16:23 | 夜ドラマ

「勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなし」

 引退した野村克也監督がいろんな場面で発言しておられた言葉ですが、野球の試合の勝ち負けだけでなく、競馬でも、選挙でも、芸能や芸術のコンクールでも、およそ勝負事と名の付くすべてのカテゴリーにあてはまる至言です。

 客観的にも主観的にも、力量やパフォーマンスが抜けていたわけではないしトレーニングも人一倍死に物狂いで積んだとはいえず、なんなら勝ちたい意欲もそんなになかったにもかかわらず何となくうかうかと、気がついたら勝っていたということは、しょっちゅうではないが、忘れた頃に一回や二回、確かにある。

 一方、負け試合には必ず敗因がある勝つときには理由なく不思議に勝てても、理由なく負けることはないものなのです。最初は自他ともに「何で負けたんだ、わけがわからん」「判定ミスじゃないのか」ぐらいに思うんだけど、時間がたち冷静に、虚心坦懐に最初っから分析かえりみてみると、ちゃんと負けるべくして負けているんですな。 

 我らが(誰らがだ)『いだてん ~東京オリムピック噺~』は何故負けたのでしょうか。

 『新春テレビ放談』パネラーの佐久間Pは、コンテンツ視聴者・ユーザーの“世代間分断”という背景を踏まえて「冒険作でありながら“大きく取り込んで”いくためには、(ヒットした)『あなたの番です』がやったように、ありとあらゆる手を打っていかないといけない」「ぜんぶやらないと、ヒットコンテンツは作れない」と、ネットでのバズらせやSNS活用、まとめ配信などの、相撲で言う“手数(てかず)”が足りなかったから負けた(=低視聴率に終わった)、という分析を披露していましたが、これは月河あまり頷けませんでした。

 (他局=テレビ東京の社員Pでありながら、日曜夜8時の敵性商品を視聴して「めちゃめちゃ好き」と言ってくれたことには敬意を表します。佐久間さん本当は『いだてん』限定で、あるいは真裏の『ポツンと一軒家』の人気も絡めて、もっといろいろ発言したかったし実際言ったのかもしれませんが、『テレビ放談』サイドで編集したような印象も受けた)

 『いだてん』制作側も放送開始当初からネットに向かって、かなり惜しみなくいろいろやっていたように思うのです。ツイッターやSNSは月河の守備範囲に無いので直接はわかりませんが、放送翌日・翌々日あたりにはネットニュースやドラマ関係のBBSに絶賛コメントや上げあげ記事があふれていたし、視聴率が一桁転落した第6話以降もこのテンションはほとんど変わらなかったところをみると、たぶんひと握りの同じ人がリピート書き込み、投稿していたと思われる。佐久間Pの言う「放送序盤についた、体温の高いファンの発信力を利用する」に近いことはすでに試みられていました。

 第23話の関東大震災エピソードで6パーセント台にまで落ちた頃には、出演俳優さんたちのみならず制作スタッフ自身からのなりふり構わない発信も増えました。特に女子陸上の人見絹枝選手役菅原小春さんの熱演が話題になった第26話の前の週などは、演出大根仁さんも音楽大友良英さんも自画“大自賛”発信で、発信したというそのことがさらにネットニュースにもなって、これは何かが起こる気配・・と思ったら結局前回比0.数パーセント続落、なんて脱力イベントもあった。

 結局、手数が不足だったわけではないのです。笛は吹かれたけど、誰も踊らなかった踊らせることのできた人が、あまりに少なすぎた。

 かなり好意的で、低体温ではない視聴者だったと自任する月河も、1話から視聴していてこのドラマ、佐久間さんの言う「“大きく取り込んで”いってるな」という感触は、残念ながらありませんでした。自分は楽しんで観ているんだけど、自分の外っかわで、見えない誰か彼か不特定多数を引き込んでいってる、そこはかとないざわめき、たかぶりのようなものは感じられなかった。真空の中で興がっているようだった。

 月河はテレビに関してはどう考えてもマジョリティでない感覚の客なので、完走したドラマで世間的に成功したとされる作品はごく少数なのですが、『ゲゲゲの女房』や『カーネーション』、『あさが来た』あたりには、自宅でひとりで見ていても「・・あ、いま掴んだな」「掴まれたな」とグッと引っ張り込まれる場面、台詞が、毎話は無くても、週6話の中で三~四度は確実にある。乗ってくると、次週予告、次回予告にもある。今日は無かったなと思って終わっても、「明日は何かしらあるかも、あるだろう」と思うから、同じ時間帯にほかのチャンネルに回すことはない。

 なぜ『いだてん』が、多くの人にとってそうならなかったのかと考えると、思うに、皮肉なようだけど「“完成度”が高すぎたから」とは言えないでしょうか。低調に終わったドラマに“完成度”という言葉が適当でなければ、“自己完結度”と言ってもいい。

 歴史もの大河の宿命もありますが、ネットでバズろうにも、考察で侃々諤々盛り上がる余地がないのです。「あの人この後どうなるんだろう」と思ったら、スマホで友人・親族と意見交換するまでもなく、検索かければいい。唯一の正解がすぐ読める。スポーツもの、アスリートもののフィクションなら最も多くが気になるのは“勝敗の行方”“アノ人とこの人どっちが勝つか”ですが、“何所そこオリンピック 何野誰某”とググれば、何種目に出場して何位だったか、完走したか棄権したか、速攻わかってしまう。実在の人物が実名で出て来るドラマだから、負けたものを勝った話には書けないし、或る年に没した人をその後の時制のストーリーに、存命人物として登場させることもできません。

 劇中、死去場面や葬儀シーンもなくいつの間にか登場しなくなった人物に「大竹しのぶ出なくなったけど?」・・調べると「幾江ばあちゃん、太平洋戦争開戦の年に八十で死んでるわ」、そうか・・で止まって終了です。ネットでざわつく=興味持たれるのも、がちゃがちゃ延々盛り上がるざわつきと、すぱっと静まって後を引かないざわつきとがある。『いだてん』は、近代オリンピックという、実在し記録も鮮明に残っている勝ち負けイベントを題材にしたために、否応なし完成度高く、ツッコミ異論余地なくまとめなければならなかった。いろんな負の材料はあったにしても、主因はこれだと思います。ヒットさせるために講じた“手数”に関しては、佐久間Pが言うほど疎かではなかったと思う。

 それにしても、「史実で決まっていて考察の余地がない」を言うなら、毎度関ヶ原も、川中島も、大坂夏の陣も冬の陣も勝敗が教科書に書いてあって動かせないけど、何作も何作も大河ドラマになっていて、その都度凸凹はあれど『いだてん』からすれば夢のような数字を取っているじゃないか?と疑問を投げかける向きもあるでしょう。

 しかしこれもフェアではないのです。たとえば織田信長や豊臣秀吉や、その一族、家臣、有名どころの誰彼ほどに、金栗四三や三島弥彦や田畑政次が認知されキャラ付けされ、一般視聴者の脳内で立体的に脚色されていたか。ヤツらはなんたって義務教育から教科書に載っているのです。百も二百も承知、結果は隅々お見通しでも「小早川裏切るよ、裏切るよ、ホラ裏切った」「じ~ん~せ~い~ごじゅうううねんん~って歌うよ、ホラ歌った」と半笑いで見る人があっちにもこっちにもいれば、それなりに毎度バズりは尾を曳く。

 対するに我らが(誰らがだ)金栗さんや田畑“河童の”マーちゃんは、1912ストックホルム五輪1920アントワープ五輪などと同様、ぐぐった結果の中にしか存在しない。ぐぐって結果を見ればそこで止まってしまう。一年間放送される連続ドラマの主人公として、放送前からの深耕度が、あまりに水をあけられ過ぎです。

 一部で盛り上がらないでもなかった“架空人物の関係性”については、これは盛り上がるまでもない、難易度低レベルに組みすぎたと思う。第39話、満州エピで“すべてのピースが嵌まる”ずっと前、五りんが「親父の遺言で行水は欠かさない」発言した時点で、五りんの父は金栗に師事した人物だな・・と誰が見てもわかるヒントが提示されてしまった。種明かしされる前から「だったとして、それがどうだっていうんだ」との声さえかなりの多数派になっていました。それより、母親の代から本筋にからんできたりく(杉咲花さん)の最後が描かれず、美川(勝地涼さん)が終戦後日本に帰国できたのかもわからないままで、全般に作り手が客に食い下がってほしくてプレゼンしてきたところと、客が気になってしょうがないところとが最後まで噛み合わずに終わった感がある。

 「東京2020の前年だから、日本近代オリンピック事始め話をやろう」と最初に企画立案したのが、NHK側だったのか、NHKのどこセクションの誰だったのか、逆に脚本宮藤官九郎さん側だったのかは月河、寡聞にして知りませんが、「こういう(史実スポーツ勝ち負けごと)題材で、この程度の認知度の人物を主人公にしたら、こうなりがち」の轍にはまってしまったようです。

 皮肉にも、“ぐぐればわかる”“ぐぐってわかって止まって、バズる余地なし”というのは、“単身世帯”“独り暮らしの高齢者”に多いテレビ視聴態度で、ある意味『いだてん』は大河固定客である高齢者層に最もフィットした作りのドラマだったかもしれないのですが、その高齢者がこぞって裏の『ポツンと一軒家』に行ってしまったのですから、やはり「“大きく取り込む”でなく、見てほしい客を絞って作ると当たらない」を実現したお手本のようでもあり。前述のように、題材への取り組み、“完成度”に殉じた感もあるので、宮藤官九郎さんにはまた朝ドラ『あまちゃん』のような作品を通年枠で書いてほしいと思います。

 最後に、佐久間Pも触れていませんでしたが、“ありとあらゆる手を打つ”ことに関して、月河が唯一不満に思うのが、“落語界・演芸界の巻き込み”が放送期間中、まったくと言っていいほどみられなかったことです。これはNHKともあろうものが、どうしちゃったのと思うくらい無策だった。放送中の、視聴者側からの否定的な意見のほとんどが「落語パートが邪魔」「入ってくるたびにいま明治?昭和?と時制が混乱する」「志ん生役たけしの台詞発声がもさもさして聞き取りづらい」「オリンピックの話が盛り上がろうというところでいつも流れが途切れる」と、落語パートに対する厳しいものだったのに、これをひっくり返す策がひとつもなかった。“落語ってこんなにおもしろいんだよ”“志ん生ってこんなユニークな人だったんだよ”をアピールして、“志ん生と一門の人たちが出てくるのが楽しみ”と感じてもらおうとする企画が、放送日や前日に地上波で全然打ち出されてこないので、客が「本筋に邪魔」と感じるのもある程度当然です。

 あまりに放置なので、クドカン、落語協会に嫌われてるのか?NHKは協会との付き合いのほうが圧倒的に長いから間を取り持つ気が無いのか?等と余計な想像をしてしまいました。顔も知らない亡き父親のたった一通のハガキを頼りに志ん生の門を叩いてきた若者が、実は・・とオリンピックに寄せて行く構成は素晴らしかったのに、そのパートがここまで嫌われてはしょうがない。打ってきた布石がすべて協奏し、構成の妙がみごと開花する前に、布石期を見てくれた客は大半いなくなっていた。ここもまた“完成度を高めることに殉じた”と言えなくもないですが、こここそ、NHKの、NHKでなければ打てない“ありとあらゆる手”の出番だったのに返す返すも残念無念です。

 「負けに不思議な負けなし」。野村克也監督の言に戻れば、敗戦は勝ち試合の何十倍、何百倍も学習材料をのこしてくれます。『いだてん』も、将来に遺したものの物量では大河ドラマ史上最高でしょう。2020年、いい節目になりました(いいのか)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする