goo blog サービス終了のお知らせ 

イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

買ってけ 買ってけ

2010-05-11 22:59:40 | デジタル・インターネット

 ……ふぅ。

 暇を盗んではユーザーレヴューをいくつかのネットショップに書いているのですが、このブログ同様、気ままに書いているとどんどん長文になってしまう悪い癖が出て、ほどほどでやめておくコントロールがいちばん難儀です。

 同じサイトの中で、買おうか買うまいか、レンタルしようかするまいかと考えている、どこかにいる人たちの決断の役に立つように…という使命感より、すでに購入済み、試用済み、視聴済みのアイテムに対する、自分なりの、自分への総括フンギリの一文のつもりで書いていますが。

 レヴューのひとつも書いておこうと思った時点で、思わなかったアイテムよりは良きにつけ悪しきにつけ愛着があるということでもあるので、長くなるのも仕方がないか。

 それにしても、レヴュー記述のルールによくある、★の数で評価するというシステムは悩みますね。

 自分が、他のユーザーさんのレヴュー欄を閲覧したとき、★が3つ以下だと、自動的に「買う価値なし」のハンコを捺して候補から抹消してしまいがちですが、自分がレヴューする段になると、気に入っていないわけではない、買って、使って後悔したわけではない、むしろ「よくぞこんなアイテムと出会ったものだ」と運命に感謝したいくらいなのだけれど、“評価”となると「どうしても★3つ以上はつけられない」というシロモノが、少なからずあるのですよ。

 特に、必要に迫られて買うわけではない、エッセイや小説の本、映像DVDや音楽CDなどエンタメタイトルによくある。

 できれば、より多くの人に存在を知ってもらい、味わってもらい、なんらかの感想を持ってもらいたい、共有してもらいたい、だがしかし、★…5つは無理でもせめて4ついけるか?となると「うーーーんちょっと」。

 ここ数日の自問自答で、こういうときには、★の数、3つか4つかで迷ったらとりあえず甘いほうを取り、「本来なら★3つですが、△△のユニークさと□□の魅力を重視して、ひとつおまけしました」「××さんの演技に対して、★ひとつプレゼントします」式に逃げる(逃げるって)ようにしてみています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

休眠なう

2010-05-05 15:03:04 | デジタル・インターネット

別に流行りモノに乗るつもりでもなかったのですが、“インターネットでこんなこともできる”の経験値を少しでも上げたいと思い、Twitter=ツイッターのサイトにアカウントを作ってみたのが昨年の10月頃です。このブログを始めた動機とほとんど一緒ですね。ネットを自分の、自分サイズの、自分流のツールにしてこなすスキルの一助になればと思ったのです。

 …が、ものの3日もしないうちに挫折。

ほとんど、ユーザー名っていうの?公開IDを、ヨソサマとかぶらないように、身内バレもしないように考え出すだけで、大半のエネルギーを使い果たしてしまった(爆)。

2回ほど、所謂“つぶやき”なるものをブチかましてはみたのですが、“いま思っていること”を140字に、たったの140字にまとめるのは到底月河にはできないということがわかったのみでした。

140字。120字の原稿用紙なら7行です。うわー少ねえ。その程度で言い切れて言い足りる内容、体温なら、別にネットの海に浮かべて流す必要もないんじゃないかと。

日頃、その時の風の吹き回しで朝ドラブログになったり昼ドラブログになったり発泡酒ブログになったりしているここでも、書きたいと思ったことを心おきなく書こうとするとアッという間に何百字にもなってしまうくらい。

少ない字数で意を尽くす練習もしたほうが、しないよりいいのでしょうけど、「したほうがいいのだろうなあ」と思っているうちに1ヶ月放置、2ヶ月放置で、結局休眠アカウントになってしまいました。

あと、ツイッターの魅力的な機能としてよく言及されるフォローとか、フォロワーというのも、どこがそんなに魅力的なのかさっぱりわからないうちにスリーピング入ってしまいましたね。基本的に自分、「人がどんな事について、どんな風に考えているか」ということに興味があまりないらしい。

Twitterのトップに、「自分の今を投稿して、他の人の今を知る。」というキャッチがありますが、他の人が“今”どうしているかなんて耳目を貸している余裕はないし、自分の“今”に至っては、現在時制では死んでも他人になんか知られたくないもの。

140字以内で発信するのは窮屈だ、人の発信には興味ないとなったら、休眠するしかありません。

…ユーザー名だけは入魂の命名だったんだけど。

ツイートなるもの、フォローなるものをこちゃこちゃやっている時間があったら、できれば1本でもDVDを観たり、CDを聴いたり、1冊でも、1編でも紙の本や小説やエッセイを読むのに使いたいですね。

あと、観たり聴いたり、飲んだりした感想をここに載せる記事の原稿をこねくり回したりも。

最近、試み始めているのは、ネット通販やネットレンタルのサイトにタイトルレヴューを書こうかなと。自分自身、購入を決める際、サイト内のすでに視聴or購読した人のレヴューが参考になることは多いし、一瞬興味を持った、あるいはサイト内を渉猟するうち偶然ぶつかってしまった人に、「スルーしないで!」「おカネを出すだけのことはある作品ですよ!」と教えてあげたいタイトルも結構、知っていたりするので。

…レヴュアー名を何にするかな。いつも、ここでエネルギー使いすぎるんだよなあ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

引っぱってフリフリ

2009-10-24 17:23:30 | デジタル・インターネット

えー、デジタル先進ピープルの皆さんにおかれましては、22日にリリースされたWindows 7(セブン)はお試しになられましたでしょうか。

発売2日以内に入手試用してみるほど先進マインド高くかつ、フトコロ具合に占めるエンゲル係数ならぬデジタル係数も高い皆さんが、ネットの辺境のそのまた端っこの、ご覧の通りのまとまらないブログにアクセスする用事があるとも思えませんが、如何ですかね、使い勝手、使い心地のほうは。

Windowsの前作Vistaでの厳しいユーザー評を学習して、今般の7は動作の軽さアップが喧伝されていますけれど、思惑通りの効果は出ているのかな。

月河の愛機は2005年夏モデルでもちろんXPです。0711月のVistaリリースの折は結構真剣に乗り替えを考えたのですが、機器のスペック的にも、プロバイダ接続に関しても難関が山のようにありそうで二の足三の足踏んでいるうちに、サポートフェーズ20144月まで延長の話を聞いて、そのうち「Vistaいまいち」「はっきり言ってがっかり」の評もぽつぽつ耳目に入り出すと、完全に14年までXPでいいわい」とぶん投げてしまいました。

そもそも06年早々ネットデビューするまでは、ダメになったワープロの代替機としか考えておらず、ほとんどWordしか使っていなかったので、XP自体正味のところまだ満4年使ってない計算です。

これから20144月の延長サポート終了までには、さらに4年半近くあるわけ。それまでの間にもっといいOSがリリースされる可能性もじゅうぶんあるし。

ちなみに当ブログ、アクセス解析というちょっとしたメンドくさい操作をすれば、立ち寄ってくださるお客さんの使用OSは調べることができるんです。ここ数日の分を見てみますと、圧倒的にまだXPが多数派。Vistaは日にもよりますがXP1550%ぐらいで、残りがMac系、Linux、携帯…等で分け合っていますね。たまにWindows2000や、Meでおいで下さるかたもまだまだ根強くいて、思わず「どこのどなたか存じ上げませんが、頑張ってね」と言いたくなってしまいます。

Vistaによるアクセス件数がXPによるそれを上回った日は、ここ1ヶ月分をざっと見ると1日、2日あるかないか。いずれ逆転するのでしょうけれど、ユーザー絶対数が多いということもあるし、2001年秋の初版からの数年間は、ブロードバンド高速通信がいちばん急速拡大した時期ではないでしょうか。デジタル後進民で、当時はまだ90年代製のワープロ2台を公私で使い分けていた月河の周囲でも、世紀の変わり目のこのあたりからPCで仕事をする人が一気に増えたように思います。

市場で売られていた期間が長く必要に迫られてヴァージョンアップ対応を重ねてきたXPの洗練度は、まだまだ捨てがたいものがあるのかも。月河は他のOS搭載機を動かしたことがないので比較できませんが。XPでご来訪の皆さん、一緒にまだまだ頑張ってまいりましょう。

誰に言ってるんだ。

そして、いち早く7ユーザーとなった、どこかに相当数いるであろう先進諸君も、できればちょっと来てだ、使用の感想を聞かせてくれたまえ。…ってこのブログ、まだ7でのアクセスはゼロなんだよな、確か。じゃ書いても伝わらないか。念でも送るか。

誰に送ってるんだ。

月河も、噂に聞くシェイクってのはちょっとだけやってみたいと思ってるんです。あれでしょ、引っぱってフリフリすればちっちゃくなるんでしょ?

…………何の話だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冷蔵庫に入ってたり

2009-08-16 01:00:22 | デジタル・インターネット

デジタルオーディオへのCD転送、在宅時間の合い間を縫ってどうやら380曲ほど移し終えました。いいペースではないでしょうか。PCへのCD取り込みの際、ジャンル名や、コンピ盤の楽曲ごとのアーティスト名などを、読み込みママでなく、転送後探しやすいように手入力でちょっと手直しするのが、積もり積もると結構な手間ですが、取り込み→転送作業そのものはまことにそれこそデジタルに、さくさく進んでおります。

ただ機体の小ささ薄さ軽量さに、使うほうがまだ慣れてないため、ケーブルもヘッドフォンも付けずに液晶画面にらんで転送内容確認操作や、壁紙張り替えとかしている最中に、電話がかかってきたりピンポーン来訪者があったり、鍋やケトルが煮立ってきたりすると、面白いように置き忘れて、その都度置いた場所がわからなくなります。玄関の靴脱ぎか?固定電話台か?はたまた最もタブーとすべきキッチン水まわり近辺か?延々探し回って、ふと気がつくとエプロンのポケットに入ってたり、取り説小冊子の間に挟まってたり。だってカード電卓より小さいんだもの。

クビからぶら下げとくか。別売りでストラップか何かなかったかな。

あと、PCでコピーして落とし込む式のこういう機材を持ってみて、数年前まったく意味のわからなかったCCCD(=コピーコントロールCD)”の不都合さが初めてわかりました。遅いか

CDラジカセかコンポで再生できれば何の問題もないじゃないかと思っていたのですが。当時はカセットウォークマンも修理後まだ元気で、『仮面ライダー龍騎』のソンコレなどシャッフルで録音しては、ずいぶん歩きながら聴いたものです。

なぜ0204年の『龍騎』『555』『剣(ブレイド)』、個人的には特撮黄金期だった3作のライダーミュージックだけがCCCDになったのか、よくわかりませんね。そういう時代だったのかな。国内外の一部アーティストが、音のクォリティ、クラリティより権利保護を優先するレコード会社の姿勢に反発していろんな発言をしたり、もっと過激にレーベル脱退独立した人もいたと仄聞します。まさかレコード各社も、ここまで音楽のデジタル複製消費が一般化するとは思わなかったのでしょう。

噂ではコピーガードをくぐり抜けてまんまとPCコピーするソフトも出回っているらしいですが、自己責任で自宅PCCDドライブをどうにかさせちゃったらえらいことですからね。

デジタルオーディオ、水没さえさせなければ、テープのたるみや残量を気にせずどこでも何十枚分ものCD相当コンテンツを持ち運びできる。いまさらながら優れものだと思います。軽く心配なのは、充電池の寿命だけですね。滅多にかけもかかりもしないのに、携帯のバッテリーはものすごく減りが速いのですが。

70年代初期、アナログレコードプレイヤーから始まった音響機器遍歴の旅ももうここらへんで終着にしたいもの。録音方式や媒体の変遷に振り回されるのはいい加減たくさんです。

…って、今後PCOSが切り替わったら、またそれ対応のプレイヤー探さなきゃならないのかな。音響とIT、もう切っても切り離せないものなのか。そうしてみると CCCDなんて、ほとんど中世の、天動説時代の思想だったことになりますね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トマジューはトマトジュース

2009-06-27 00:03:59 | デジタル・インターネット

2006年からPCがネット開通、遅まきながら知ったネット用語・ネットスラングの中で、最近なかなかいいトコついてるなぁと思ったのが“リア充(じゅう)”という言葉です。2007年の流行語大賞にもランクインしたそうですから、遅まきにもほどがありますけどね。

日本経済新聞土曜版“日経プラス1”の福光恵さんのコラム“コトバの鏡”で読んだのが初だったと思います。たぶん今年に入ってからですね。あのコラムは、誕生ほやほやの新語ではなく、コトバとしての輪郭が明確になり、日経読者のおじさまたちにも説明可能なツッコみどころもできてから採り上げることが多いですから。

リアル(=現実生活)が実している」の略だとのこと。ネット住人から見て、ネットライフ以外の、現実の異性関係や家庭生活や仕事や余暇が順調で忙しい状態をさすのだそう。SNSでの交流やブログ更新がご無沙汰なネット仲間について「○○ちゃんは最近リア充だから」と、相変わらず頻々とネット漬けな面々がやっかみ気味に表現したりするようです。

一方で、自分で自分を「私いまリア充なんです」と直球で自称することはあまりないようですね。各界で活躍する友人たちとの交遊やペット自慢、行列店のグルメ探訪やキルト・スイーツなどの手作り披露、赤ちゃん自慢や恋人配偶者とのラブラブ旅行記などでびっしりのブログ、あるいは投稿書き込みなどに「はいはいリア充乙(おつ。“お疲れさま”の略)」なんて、外からコメントがつく場合に使われるのだとか。

この言葉、おもしろいなと思ったのは、「人間、現実生活が充実して多忙であれば、ネット上での交流や発信なんかに長時間や多大なエネルギーなんか振り向けないものだ」「ネットに熱心でマメなのは、現実生活がカスカスで淋しくてヒマだからだ」という、ネット側からのものすごい僻み根性に立脚した造語なんですよね。弱者から強者への、あるいは負け組から勝ち組への、ネット上での攻撃的ルサンチマンであり、腹いせであり、“せめてもの唾ペッ”みたいなもので、普通に考えれば、あまりポジティヴとは言えない、悪意寄りな言葉です。

でも、この“リア充”という概念、いろんなところに汎用できると思うのです。リア(ル)=“現実生活”って、いったい何だろう。どこまでが、どこからがリアルなのだろう。逆に、リアルでないものとはどこからどこまでの、何と何と何だろう。

たとえば、小学生や中学生によく教師たちが「本を読みなさい」という指導をします。

「感性のやわらかいうちに、古今東西の名作に触れ、美しく正しい伝統ある日本語に親しみなさい」。教師たちとしては、文章読解力や言語表現力、想像力などもっぱら“知的能力”の向上に期待してそういう指導をするのでしょうが、月河、自分の小・中学生時代の、自分自身や周りの同年代を思い返してみても、“身体健康で勉強も順調で、家族の愛をたっぷり受け友達もいっぱいいて皆に好かれていて、なんなら思う異性ともいい感じで、部活でも大活躍している”リア充の生徒さんなら、まず小説や文学の本なんか熱心に嵌まって読んだりしないと思います。自分に何の関係もない、見も知らぬ時代や国の、しかも架空の人物のすったもんだなんて興味が湧かないもの。自分が充実していて、充実している自分が大好きで、周囲の誰もがそんな自分を好いてくれている現実が眼前にせっかくあるのに、その現実と違うフィクションに心惹かれる余地があるわけがない。

断言しますが、小・中・高校時代に、浴びるように本を読みまくっていた人、休み時間だろうと何の時間だろうと本を手放さなかった人、クラス会で「○○さんはいつも本を読んでいたよね」と言われるような人に、性格がよく人あたりがよく、学校生活を明朗に謳歌していた人はまずいません性格が良くて好かれていて人気者で、「学生時代って楽しかったなぁ」と笑顔で振り返るのは「先生や親からはよく本を読めと言われたけど、ほとんど読まなかった」「だって本なんか退屈なんだもん、外で友達と遊ぶほうが楽しかったし」という人です。

断言ついでに、小中高生なんて甘っちょろい限定加えずに、どこらへん年代だろうと、「三度のメシより本読むことが好きで好きでたまらない」という人間に、性格円満で、つき合って気持ちのいい人間はいません。金輪際いません。何度でも断言します。

まぁ、それはともかく、人間生まれてから死ぬまで、一本調子で高原状態に谷間なく“リア充”であり続けることはない。出世街道を驀進していても、大勢の友達と毎晩飲み会に盛り上がり、合コンでお持ち帰り放題な毎日でも、徒労感、虚無感や、他人との距離やすれ違いを感じる場面、時期は必ずあります。

そこに“非・リアル”の出番があり、意味がある。

小中高生推奨の名作文学でもいいけれど、逆にPTAが悪玉扱いするコミック、アニメでも、アーティストやグラビアアイドルでもいい。成人限定で言えばパチンコ、ギャンブルでも、成人女性なら韓流ドラマでもいい。もっと成人な女性なら歌舞伎や宝塚歌劇もありでしょう。

月河個人ベースなら、昼帯ドラマや特撮変身ヒーローを録画視聴、関連書籍やCDを買い集める、出演俳優さんやときにはプロデューサー・監督さん、製作スタッフに関する情報をも読みふける、あるいはパワーストーンをためつすがめつするのが、直球で該当するでしょうね。もし「仕事が繁盛していて、毎日モテモテで飲み会のスケジュールびっしりなら、そんなことやってないだろ」と言われたら、速攻白旗全面肯定もしないけれど、明晰なる理由をあげて否定するなにものもありません。

自分が終始主体で、主語で、主役である“リアル”に対して、主体でありながら第三者=観客でもある“仮想現実”は、ネットのなかった時代にも存在し、機能してきたのです。

“リア充”の反対に、仮想現実に夢中になっている状態をかりに“カソ中”とでも呼びましょうか。“耽溺”のタンをとって“カソタン”でもいいけど、耽=“耽(ふけ)る”の読みと字義が一致しない向きもあるでしょうから、“カソチュー”でいいでしょうね。

あるいはこんなことを考えてみたらどうでしょう。本業が数学者、哲学者、物理学者、天文学者などである人たちは、高度に抽象化された、現実には存在しない理想の世界での因果律を日々研究し思索しているという点で、「リアルがカソ中」な生活を送っているわけです。

有名大学の教授などの地位にあり社会的には安定していても、そういう職業の人の奥さんなんかは、年中数式や顕微鏡や望遠鏡とにらめっこしている夫に、休日ぐらいは子供と遊んだり、外食に連れて行ってくれたり家事を手伝ったりしてほしいと、“リア充”のご近所さんや女友達たちを羨ましく思っているかもしれません。

またそういう学者先生も、ひょんなことからマスコミに注目されて一躍名物教授となり、TVのお勉強バラエティなどで人気が出たりなんかして、おバカキャラのアイドルや巨乳女子アナと六本木辺りで連夜チヤホヤ盛り上がる立場になると、「これが噂に聞くリア充ってやつか」と認識を新たにしつつ「……なんだバカバカしい、全然“充”じゃないな、やっぱり実験室の顕微鏡のほうが楽しいし落ち着く」と、結局“職業的カソ中”に戻って行くのではないでしょうか。

職業的カソ中の研究者が発見した新薬や治療法や力学原理で、リアル世界の難病の患者さんが治療可能になったり、二酸化炭素を排出しないエコな自動車や輸送機器が開発されたりもするわけですから、こういう人たちを「リアルがカスカスで淋しいからカソに嵌まってキノドク」なんて評する輩はいないはずです。

また、特に女性ならわかるのではないかと思いますが、乳児・幼児期の子育てなんかは、大人では想像もつかないような、ほとんど人間離れした鋭敏な五感と、日一日と変化する途方もない肉体的成長力のカッタマリとの、言語を超越した対話交流、意思疎通の試みですから、かなりの勢いで“カソ中”です。

一日じゅう子供“だけ”と接していると、配偶者を含む大人との、抽象的概念的な話題に関しての論理的整合性のある会話が困難になることすらある。

子育てというのは多かれ少なかれ、醒めて一歩引いていてはいけない、ある程度まで“他のことが目に入らなくなるくらいの耽溺性”を要求されるジャンルです。お母さんが、旦那さんとのワインデートや手作りキルトやホームパーティー、あるいは職場でのキャリアアップ、はたまた同性異性の友人たちとのパチンコや麻雀などで“リア充”だったら、幼い子供としては「はいはいリア充乙」と苦々しいことでしょう。子供にとっては、母親の“自分に構うことに没頭してくれてる”以外の時間とエネルギーは、ぜんぶ「リア充乙」です。

結局、人間にとっては“リア”と“カソ”は隣接しつつ、入れ子のように互いに内包し合ってもいて、誰もが両方に片足ずつ入れ、入れ替えたり重心を換えたりしながら生きている。

ある時期、ある局面の“リア”も視点を変えれば“カソ”だし、また別の局面限定では、“カソ”こそが“リア”であることもある。写真のネガとポジのように、リアとカソは本来如何様にも反転するのです。

この世に生を受け、生きるということは“リア”ですが、“カソ”が皆無でも、人間は生きられない。

“リア充”という、僻み含みの揶揄語は、ネガティヴ寄りの視点で発した言葉だけに、忌憚なく、仮借なく人間のそういう在りようを照射してくれてもいると思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする