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イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

どんな花より

2009-01-01 18:33:38 | 世相

2008年もあっという間に通り過ぎ、北京オリンピックや、ノーベル賞4人まとめて日本人受賞などのテンション↑↑↑なイベントもありはしたものの、結局は東証大納会の30日、大引け終値前年比-421%が示す通りの年で終わってしまったように思います。

リーマンブラザース破綻の直接影響がどうこう、麻生政権の経済政策がどうこうと言う、具体的枝葉的なことより、もっと根幹的な行き詰まりだと思う。市場に物はあふれている。環境は汚染されている。人口は減り、体力も気力も財力も細った老人ばかりになって行く。どんどんモノを作って、もっともっと良いモノをたくさん作って、どんどん売ってどんどん買って、売るほうも買うほうも、足並み揃えて豊かになって行く、という図式は、もうあきらめたほうがいい。二度と回復しないでしょう。

今日より明日が、今年より来年が、自分の時代より息子・娘の時代が、より豊かで裕福にはならないとほぼ見通しが立ってしまっても、なお心だけは豊かに、親しい人にも親しくない人にも思いやりと寛容の心を持って、家族のため社会のために倦まずたゆまず、青少年期には勉学に励み、成人してから老年になるまでは勤労に打ち込み、一生、愛と秩序に満ちた生活を日々送っていくことが、日本人にこの先できるのでしょうか。

もう、何党か知らないけど政府の政策や経済情勢の回復に期待することはできないと思う。ここは“宗教”の出番しかないのではないかと月河は思うのです。

宗教と言うと日本ではとかく“集金組織”か、さもなきゃ“カルト”しか連想させませんから、“信仰”と言い換えてもいい。

モノとカネに右肩上がりの展望が消え、先細りしか見えなくても、努力の対価としていま以上の金銭物質の恩恵が何ひとつ見込めなくても、なおかつ人が心豊かに、心優しく、勤勉にある方法は、信仰以外に存在しません。

神様や仏様でなくてもいい。お天道様でもお地蔵様でもいいし、それこそヨン様、○○王子のたぐいでもいい。形があっても、無くてもいい。モノカネに頼らずに心を支える力になり得る存在ならば何でもいい。

喩えとしてあまり古いので足かけ2日躊躇したのですが、ボロは着てても来年再来年にはまともな服を、10年後にはブランド品を着られる見通しがあったから、昭和の日本は「心の錦」でいることができた。今年ボロを着ていれば来年再来年はボロボロを着る可能性のほうが高い2009年現在、「それでも心の錦」でいさせる原動力になるものは、錦もボロも超越して、心オンリーに働きかけ梃入れさせる何モノかであって、それは信仰以外の何ものでもあり得ないと思う。

「厄介なことに」と言うか、「ありがたいことに」と言うか、日本では憲法で“信教の自由”が保障されています。誰が何をどう信仰しようが、手前勝手の自己責任、“私事(わたくしごと)”であって、政策や法制で「日本人ならばこれを信じなさい、これこれこんな信仰をしなさい」「しなけりゃこういうペナルティを科すよ」と強いてはならないことになっている。

経済も外交も、教育や治安、福祉など生活行政も、さっぱり上向かず、“ろくな話が出てこない”のは、ひとり麻生さんの失政、力量不足ではない。問題は日本人ひとりひとりの心の中、国家も政策も侵すべからざるところにあるのですから。

何をどう信じ、それに基づいてどう日々行動すれば、モノの豊かさ貧しさに左右されずに生きられるのか。“お上から”が(ありがたいことに)ご法度となっているこの国で、それを忌憚なく、何ものにも抵触せず、下心も打算もなく教え伝えることができる最強の戦力、それが“家族”です。

 親から子へ。祖父母から孫へ。兄姉から弟妹へ。かつて日本の家族は、政治にも権力にも縛られずに“心”の伝統を次世代に伝える唯一無二の学校でした。

 敗戦後、政治や時局に対してあまりに無策無力に、学徒出陣や小国民の悲劇を生んだ反省が自虐に転じ、“家族”の教育力、伝統伝承力は一気に卑屈になり、矮小になり、ついには力であることをやめてしまいました。

政府の無能は、残念ながらいまここ数年で急に始まったことではありません。いつの時代も民主主義政府は、民意に対して不誠意で無神経で侮蔑的です。民主主義とは、民の一票によって選ばれた人を、選ばれたことによって「自分はもう、いち名もなき“民”ではない」と錯覚させ、つけ上がらせ、民意を踏み躙らせるシステムでもあるから。

日本と日本人の苦境は、モノ無きカネ無き“心”を支える術=信仰と、その術を伝承するソフトとを同時に失ってしまったことにあるのです。

株価よりも雇用よりも大切な“信仰”の再発見。決して捏造でも偽装でも洗脳でもない、純粋に自発的な、自律反発な再発見、2009年の日本には可能でしょうか。

……………………

……………年末年始のTVの不毛に対抗すべく、DVDレンタルに特命派遣した非高齢家族に『轟轟戦隊ボウケンジャー』の、放送時録画できなかったTask1929までの巻を頼んだところ、「1年後の『獣拳戦隊ゲキレンジャー』からしか、店に置いてなかった」との報告を聞き、当地でも予想を超えるペースで進む市場の少子化に思いを致すところから、月河の09年はスタートしています。

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そう言や食費の出どころも…

2008-12-19 00:23:23 | 世相

『炎神戦隊ゴーオンジャー』は前からたびたびここで書いているように、“次回楽しみの要素が多い”高原状態の曲線を、うまいことここまで引っ張ってくれているのですが、若干「例年の東映戦隊に比べて、これでいいのか?」と思うふしもないではない。

強化変身フォームが登場せず、外見的にも内面的にもメンバーのパワーアップが実感できないまま“現有戦力に武器アイテム数、合体パターン数だけオン”のまま後半に突入していることもそうですが、“大人の顔出しレギュラー”が、悪のケガレシア様(及川奈央さん)だけで、ヒーロー側の師匠格や後方支援役には大人無しというのは、ちょっと作品として心細い気も。

『ハリケンジャー』での西田健さん、『アバレンジャー』での奥村公延さん、『ボウケンジャー』での大高洋夫さんといった、東映の脇ベテラン、舞台の重鎮格がいないと、特撮抜き・戦闘外のドラマ部分の画面、特に“本拠地ないしベースキャンプでのオフタイム”に、何と言うか“重石”が足りないんですね。ふわふわしている。

GP8で走輔(古原靖久さん)の師匠格で真夏竜さん、同13で菅田俊さん、同27で木野花さん、同32で『相棒』組織犯罪対策5課の“小さいほう”志水正義さん等々、敵方ではなくゴーオンジャーと融和する役で、ゲストではユニークな人選がなされいちいち嵌まっているだけに、なぜ1年間呼べなかったかな…と思う。

レギュラー戦士役は例年新人・準新人の起用と決まっていますから、大人向けドラマや映画でおなじみの俳優さんのレギュラー参加は、たとえ1話当たりの登場場面は少なくても、大人世界との架け橋、(悪い意味での)子供騙しじゃないよ」という“了解のとりつけ”でもあるし、醒めた見方をすれば“大人中心社会であるTV局が、どの程度の予算を割いたか”の指標でもある。

そう、身も蓋もなく言ってしまうと、“正義の顔出し大人”のいない戦隊は、どこか“安上がり”“節約”の匂いが漂うんですな。

『ゴーオンジャー』の場合、炎神たちも“エコ・カー”だから、ちょうどいいのか。省資源、ついでに省“資金”ってことで。

……………うまくまとまらないにもほどがありましたが、動植物系モチーフの戦隊より、どちらかというとメカ系戦隊のほうが好きな月河、たまに『デカレンジャー』『ボウケンジャー』の録画再生して観ると、ドラマやキャラ造型はともかく、やはりスケール感とか、舞台や背景の何とはなしの宏壮感、“手が込んでる”感において『ゴーオンジャー』は薄いし、軽いなと思う。

否応なく進む少子化で、玩具メーカーも市場開拓や商品戦略が一段と厳しくなっています。輪をかけて“予算の窮屈さ”が絵ヅラに出てしまうと、さなきだに絶対数が減っている小さなお客様に「安っぽい」とますますそっぽを向かれかねない。

『ゴーオンジャー』の終盤の展開以上に、いろんな意味で来年以降も目が離せないスーパーヒーロータイムです。

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アイスでアールグレイ

2008-12-14 19:51:18 | 世相

安倍晋三さん、福田康夫さんと、総理大臣がズタボロになった挙句にキレ辞めしちゃうケースが続き、現職・麻生太郎さんにも“それフラグ”が立ち始めたせいか、いつも言われることですが「自民党政権は、自分ら党員・代議士で総理総裁を選んで担ぎ上げておきながら、世論調査で支持率が下がって旗色が悪くなると寄ってたかって叩いたり足引っ張ったりするのは良くない」「自分たちが選んでトップに戴いた人が、批判にさらされているときほどフォローし支えるべきじゃないのか」と、“政局前がかり”に警鐘を鳴らす論調が目立ちます。

しかし、まぁこれも仕方がないかなという気もする。世間的人気のない権力者を、閣僚や側近ら彼に任命された部下たちが一生懸命庇ったり弁明にこれつとめたりしていると、テメエらが互選の結果選んだトップだから当然ということとは別に「ポストもらった義理果たすためだろ」「それ以上に、ポストに付随する利権が惜しいから、トップを擁護すんだろ」「トップがこけたら自分もただの人、年収激減だもんな、ヘッ」と思われてしまいがち。

 基本的に、“権力の座にある者の味方をする”のはいつの時代もカッコ悪い。小泉純一郎さんの在任中みたいに、トップが世間的にも人気だったら安心して「ボクも味方です、賛成です、推してます」「トップもボクを見込んで重用してくれてますんで、評価してくださいヨロシク」と世間にアピールできますけどね。

あんな具合に「ボクも味方」「ワタシも腹心」「ワタクシも見込まれてるのよん」と“チルドレン”がうじゃうじゃ湧いてくるのも気持ちが悪いし不健康だったけどな。政界再編か?総選挙か政権交代か?なんて話題が賑やかしくなるたびに、多数決に基づく民主主義ってこの国に合ってるんだろうか?民主主義を標榜し、実地運用するに足る民的力量が、この国にいま有るんだろうか?とつい考えてしまいます。

 今日はそんなことより、このところ連続して考察している『相棒』の、虚構としての磐石さを支える一要素として“『相棒』では常に世界が秋~冬である”を挙げたかったのです。

これは、レギュラー化後のテレビ朝日の当該放送枠水曜夜900で『相棒』に充当されるクールが常に10月~3月だからで、実際の撮影は真夏から行われていることもあると思うのですが、おかげでいつも右京さん(水谷豊さん)はサスペンダーの三つ揃い、特命ルームのコート掛けにはブリム付きのハットがかかっていて、聞き込みにはロングコート。亀ちゃん(寺脇康文さん)はおなじみエンブレム付きブルゾンとカーゴパンツを場面転換に合わせて何着も着替え、「ヒマか?」の角田課長(山西惇さん)はペールカラーのいろいろなニットベスト。

過去の事件を振り返る回想フラッシュなどを含めても、“東京のむせ返る夏”がほとんど画面に登場しないのは、リアルタイムの放送を追尾していれば単純に現実世界とシンクロしているだけなので、特筆すべき何ものも感じないでしょうが、再放送やDVDで観た場合、かなりの“巧緻な人工的虚構感”があります。

逆に言えば、角田課長や課員大小コンビ(久保田龍吉さん志水正義さん)のお盆休み帰省、たまきさん(高樹沙耶さん)・美和子さん(鈴木砂羽さん)の浴衣姿、炎天下でYシャツの袖まくって汗拭き拭き現場検証するトリオ・ザ・捜一(川原和久さん大谷亮介さん山中崇史さん)、“夏服”で指紋遺留品などを探索する鑑識米沢さん(六角精児さん)、「それにしても暑いと思いませんか、この部屋、空調がどうかなってるんじゃないかしら」と扇子使いつつぼやく小野田官房長(岸部一徳さん)など「あるんだろうけど、映像化したらどんなんだろう」ともろもろ想像力を刺激する契機ともなっているのでした。

亀ちゃん、真夏はもちろんブルゾン脱いでるだろうし、インナーのTシャツにエンブレム?パンツはまさか短パン?“きちんとオフィシャル”にこだわってそうな右京さんは、まさか羽田元総理ばりの省エネスーツ?英国トラディショナルにはないしまさかね?等興趣尽きない。画面でつまびらかに見せられ、描写されることなく、“描かれないこと”によってこそ存在感が際立つ。“『相棒』の夏”は幻なるがゆえに心惹かれまさるものがあります。

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手品かよ!

2008-10-28 21:57:18 | 世相

“携帯電話”と“自分の個人的な心情”が密接かつ切実に結びついた経験がないので、ドラマや映画の劇中で人物が携帯を扱い出すと、一気に疎遠に感じられる…という意味のことを先日ここに書きました。

最近ドラマで「あ、携帯もこういう使い方ならいけるな」と思ったのは、『相棒season4の『最後の着信』(本放送20061月)。

(…このところ『相棒』がらみで書く機会が増えていますが、現行TVドラマで“1話完結でありながら世界観が一貫経過”作としては、ひとつの頂点を提示してくれる例には違いないと思うので)

当地でここのところ春先から何回か反復再放送されている同シリーズseason45、全話というわけにはいかないのですが視聴できた中では月河、いちばん好きなエピソードかもしれません。

この時点ではいまだ独身の亀山(寺脇康文さん)が夜さり屋台ラーメンのあと一服つけようとすると煙草の箱がカラ。そこへ一杯機嫌のチンピラ・脇(桐谷健太さん)が箱ごと差し出し、気安く話しかけてきます。「煙草はやめとき、自分、独りもんやろ?結婚でけへんよ、煙草やめな、オンナに嫌われるさかい」「オレもやめんねん、結婚するからやめんねんけどな」…千鳥足で去っていった彼を、美和子さんとの入籍待望な亀山は憎からず「ヘンなやつ」と見送ったその3日後、脇は自宅近くの公園の石段から転落死体で発見されます。

手には携帯を持ったまま。爪の間から皮膚断片が発見され、何者かに突き落とされた殺人の線が濃厚に。手にしていた白い携帯のほかにも赤と青、都合3台の携帯電話を所持していて、赤に登録された電話帳は実家や銀行、行きつけ飲食店などプライベート用、青はカタカナファーストネームか名字のみ。そして白への登録は2件だけで名前はなし。

(記事タイトルは鑑識米沢(六角精児さん)からトリコロール携帯を見せられた捜査一課伊丹(川原和久さん)のリアクションです)

直前に通話していた白の通信記録が国際電話転送利用のマスキングをされていたことから亀山が見当をつけた通り、脇は覚せい剤の売人で、青は商売の相手。白に登録されていたもう1件の電話番号から、生活安全課は仲買人の鷲津を連行しますが、鷲津は薬物を卸した件だけは認めたものの、殺害は否認。

脇の過去の、薬物がらみの最初にして唯一の逮捕時の状況を、当時の担当所轄刑事菱沼(中西良太さん)から聴取した右京(水谷豊さん)は、いくつかの不審な点から菱沼刑事が脇の罪状を軽く報告、送検を免れさせる代わりに以後情報屋として使っていたことを突き止めます。

殺害される当夜の脇は、最近再会した大阪時代のガールフレンドでOLの由美(黒坂真美さん)とデート、彼女を送ってから自宅近くの行きつけのバーに立ち寄り、深夜の公園で白の携帯で、鷲津ではないもう1件の登録先と通話し、切った直後転落したとわかる。犯行時刻近辺に公園で鷲津が目撃されており、薬物取引がらみのトラブルで殺した可能性がまず考えられますが、右京らの調べで菱沼刑事が鷲津に、脇が情報屋であることをわざと漏らしたこともわかる。脇が警察に通じていたと知ったから消そうとしたのか?鷲津はこれも否定。確かに脇を痛めつけてやるつもりで待ち伏せはしていたが、脇の携帯での通話を盗み聞くうち相手が菱沼刑事だとわかって退散したと供述。

菱沼刑事は脇から「結婚して大阪に帰る、ヤクから足を洗う、情報屋もやめたい」と告げられて困惑していました。脇を使って管轄外押収で検挙実績を上げ、何度も総監賞を受けるなど腕利きで通ってもいる。情報屋をひとり失うだけなら代わりを見つければ済むが、脇には実績水増しの手口を知られている。思い余って鷲津に脇の正体をバラし暗に“処刑”を示唆したのではないか。あるいは当夜待ち合わせて自分で…しかし大河内監察官(神保悟志さん)の聴取に、菱沼は「“これから会って話し合おう”と約束はしたが、行ったらすでに脇はいなかった」と。

しかし右京は、脇が殺害直前に会っていた由美と、デート場所お好み焼き屋店員との、脇の携帯が何色だったかという記憶の食い違いから真犯人に至りました。実は当日店内での脇の携帯大声会話を注意した店員が突き落としの犯人。注意されたばつ悪さと、由美から「あんたと居ると大阪の頃を思い出して楽しい、一緒に暮らしたいわ」と言われた有頂天がだぶって、脇は店員をテーブルに呼びつけ「お好み焼きの焼き方が悪い、(お好みの本場)大阪人にようこんなもん出すわ」と因縁をつけていました。店内だからと店員は我慢して引き下がり、その場はそれで済んだ。

由美を送った後「彼女に“一緒に暮らしたい”まで言われたら男としてけじめつけな」となじみのマスターにものろけてグラスを重ねた脇は、帰宅途中公園で菱沼に携帯からかけ、足を洗いたいと相談。菱沼はどうにか思いとどまらせたく「すぐそっちへ行く」と約束し電話を切る。そこへたまたま勤務を終えて帰宅途中の店員が通りかかり、脇が見咎めてしまった。

これから堅気になるべく決着をつけようという高テンションと酒の勢いで、脇は携帯を切ったあと店員を追いかけて再びしつこくからみ、無視されるとさらに罵倒。堪忍袋の緒が切れた店員が「うるさい」と突き飛ばして脇は転落。普段おとなしい店員でしたが、巨漢でした。

店員は右京と亀山に「店内で注意した携帯は白だった」と答えましたが、実は由美の答えた赤が正しい。白には店内滞在時間の通話記録はなかったのです。公園でからまれ突き落としたとき脇が持っていた携帯が白だった記憶があったから、店内で大声通話していたのも白と店員は思い込んでいたのです。

結局は薬物売買も、そのさらに裏の情報屋稼業も直接は関係なく、意中の彼女からの逆プロポーズに舞い上がり、足を洗おうと意気込んだあまりの尊大な言動が、行きずりの店員を激昂させ、殺される運命になったのでした。

赤は実家や友人たちとの明朗なプライベート、青はウラの薬物顧客。白はその顧客達にもさらにウラの、仕入先と情報提供先。赤の登録先の人々は、脇に青や白の交際があったことを知りません。青の顧客たちも、白の付き合いがあったことを知らない。脇という、根は気のいいヤンキー青年の複数の世界を象徴するツールとして、携帯電話を登場させた実に周到な脚本。

“彼女の前で偉そうぶりたいための大声通話”“公共の場所での迷惑通話で店員に注意される”“注意したほうとされたほうとの心理的わだかまり”など、携帯が生活感情と密着する世代ではない月河にも「さもありなん」と思わせる絶妙の活用です。

右京と亀山が脇の当日の足取りをトレースするくだりでは、自宅アパートの固定電話に残された、大阪の実母からの「急に電話してきて“結婚する”なんて言うから驚いたわ、どんな娘さんやの?お母ちゃん嬉しいわ、待ってるさかい帰ったら電話しい」との留守電メッセージも流れました。録音の時刻には、脇はすでに殺されていますが、実家のオカンは知るよしもない。再生して聴く亀山も、右京さんも複雑な表情。携帯が事件の主モチーフとなる話に、固定電話ゆえの哀しさをちゃんと併行描写している。ちなみにこのオカン、警察から遺体確認引き取り要請を受けたらしい描写はあるものの、この留守電の声だけで画面には登場しません。

『相棒』シリーズの脚本家さんは、再放送のスタッフクレジットで確認できただけでもざっと5人は揃っていますが、月河と同年代かもうちょっと上ぐらいの人が多いのかもしれない。携帯電話を、身近で一体化した自明のツールではなく“観察対象”として客観化しているふしも見受けられ、これは心強いことです。

結局殺人容疑で送検されたのはお好み焼き店員。鷲津は覚せい剤取締法違反容疑のみ。情報屋を使っての薬物捜査自体は違法ではないので菱沼はお咎めなし。

「まさか売人やってたなんて…騙された気持ちです」と顔をこわばらせる由美に、亀山は「でも、あなたから一緒になりたいと言われて、足を洗おうと思っていたのは彼、本気だったんですよ」と精一杯のフォロー。亀ちゃんにとっては「オレ結婚するから煙草やめんねん」と満面の笑みでのろけていた脇がどこかいじらしく、浮かばれなく思える。

しかし由美は「久しぶりに同郷の友達と会って、お酒も入っていたから、軽い気持ちの冗談で言っただけです。そういうことあるでしょ?」とにべもなく背を向け去って行きました。

「刑事に利用され、行きずりの相手に殺されて命を落とした…薬物などに手を染めた報いだったかもしれませんね」と右京さん。「右京さんは厳しいっすね、オレはそこまでは…」と亀山。「それがキミの良いところですよ」と右京さん。

でも、月河にとっては『冬の輪舞』で親しい黒坂真美さん演じる由美は、足早に右京たちの前から歩き去った後、一度歩をとめて脇の写真を取り出し、振り切るようにひとつ吐息をついてまた歩き出すワンカットもあり、「冗談だった」は警察の前での強がりで、本音では本気だったともとれます。

お好み店員にしても、由美ほか店内に居合わせた客や、先輩店員から脇の態度にも非があったとの事情が聴ければ、殺人ではなく傷害致死で済む目もあるでしょう。

「脇に結婚を約束した女がいたとは、自分が迂闊だった」と大河内の聴取に悔しがった菱沼は、次の情報屋を探す前に若干は脇を哀れむこともあるのか、それとも早晩上手の手から水がこぼれて懲戒の憂き目を見るか。想像力次第で全員に少しずつ救いがある辺り、よく出来た短編小説のような味わいのエピソードです。

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無理の現場

2008-10-22 00:30:42 | 世相

先日の記事で触れかけてやめた“よく耳にし活字でも目にし、自分もつい使ってしまうけれども気に入らない言葉”とは「○○現場」という言葉です。

いちばん使用頻度が高いのは“教育現場”“医療現場”かな。“医療”関連で“介護現場”、あと“製作現場”なんてのもあるか。

もちろん、もっともっと昔から使われていた“工事現場”“作業現場”の類はこれに含みません。少なくとも20年、30年前は“現場”という言葉が“医療”“教育”と接合されて使われることはなかった。

なぜこの言葉、と言うか用法が自分は不快なのかなと考えるに、第一に“過剰に婉曲”

日本語には、具体性やピンポイント性を敢えて避けて曖昧に言うという伝統的表現法がありますが、なぜ“病院”“病棟”“手術室”“処置室”“調剤室”もしくは“○○科”ではダメで“医療現場”なんてもやもやっと丸めるのか。「いま医療現場で起きている問題は~」ではなく、「○○科でこれこれこういう治療や、処方をするときに起きる問題は~」と特定できないのか。

なぜ“学校”、あるいは“小学校”“中学校”“高校”さもなきゃ“幼稚園”、ひいては“教室”“職員室”“PTA”等ではダメで“教育現場”なのか。「教育現場の声にもっと耳を傾けて~」なんて言わずに、「ドコソコ小学校の何年何組の誰某先生、生徒誰某くんの父兄誰某氏からの、かくかくしかじかの意見に耳を傾けて」と言えないのか。

なぜ漠然とした、「どこからどこまで」と境界のはっきりしない状況全体を指す様な言い回しを採るのか。

気がつけば“医療”“教育”って、何が起きても、何を問うてもいつも責任の所在がはっきりしない、誰も責任を取ろうとしない分野の“東西正横綱”です。

第二に、第一とも関連することですが“迂回した軽侮”が濃厚に匂う言葉だから。

奇しくもいつかの、某TVドラマ劇場版のキャッチコピーが、月河の不快感の源泉を明快に指し示してくれました。

「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ」。

とりわけ“医療”“教育”と“現場”が接合するときには、“現場”からは姿かたちの見えない、“会議室”的なもの=“裏で糸を引いてすべてを差配管理している力”が暗示されている。「医療現場の実情にもっと向き合う(←この“向き合う”って言葉も実にまた別クチで厄介なのですが)べきだ」「教育現場にこれこれが活かされなければ意味がない」などの表現を使うとき、字ヅラだけ追えば“現場が優先、現場第一”ということを一見言っているようでありながら、結局は「なんだかんだで裏の、上層部の、管理システム次第なんだから」という前提条件をまる呑みに是認称揚している。

「ある学級、ある診療科、ある幾つかの病院でどれだけごまめの歯ぎしりしても、結局事態を変えられるのは政策だけだから」という無力感、放り投げ感も強烈に立ち昇って来る。

“医療”“教育”は、“制度”“政策”“官主導”色の強いことにおいても日本の2大フィールドです。

現場、現場と繰り返すたびに、「“非現場”のほうが圧倒的に強力」ということを暗黙のうちに強調刷り込みしている。この迂回した、負け惜しみの透けて見える感じが非常に不快。

とは言え巷間流布している表現であることは確かだし、流布している状態を月河ひとりで変えることはできないので、せめて、自分で文中、あるいは論中、ついこの言葉を使いたくなったら「具体を避け漠然とした状況にすり替えてごまかそうとしてないか?」「“どうせ”的な負け犬感、曳かれ者感を含ませて言葉を発していないか?」とまず自問自答してみて、「ない」と確答が得られてから使うようにしたいと思います。

さて、目下の“医療現場”『愛讐のロメラ』は第16回。早くも第4週に入っています。ヒロイン珠希成人後篇も、今週が終われば少女期篇と同話数消化したことになります。

人物の敵対感情が12週と違い過ぎで取ってつけたみたいなんてことは、この際もうあまり気にしないことにしました。恭介(染谷将太さん→相葉健次さん)が珠希に純な恋心を抱いていたのは受験期前の高校生時代で、異性に対してはいちばん熱しやすく冷めやすく、自分のことは棚に上げて妙に潔癖症だったりもする時期ですから、自分の実父を転落させた犯人なんて聞いたら、真逆の感情に凝り固まってしまうこともあるかもしれない。ないかもしれないけど、あるかもしれない。これは「ある」という前提で進むお話なんだから、それに沿ってやらなきゃ視聴続けられません。

血縁はなくても姉弟として、母失踪後は珠希に面倒みてもらっていた弟・亮太までが珠希を「アイツ」呼ばわりして「今度会ったら何するかわからない」まで言うのはもっと納得性がないのですが、幼くして白血病で死線をさまよってますからね。人格のひとつやふたつ(ふたつはないか)変わるかもしれない。同じ病気で治療中に惜しくも亡くなった本田美奈子.さんなどは、骨髄移植で血液型がO型からA型に変わったそうですし(そういう問題じゃないか)。

それよりどうにも呑み込み辛いのは、珠希が少年院を出た後努力して外科医となったまでは百歩譲って認めるとしても、互いに恨み恨まれている加賀見家経営の病院にいきなりわざわざ勤務していて、いちいち「恭介さんがアメリカから帰国してくる」「あの女がなぜここに」「七瀬珠希ってまさか」と珠希も恭介も亮太もいちいち目の玉ひん剥いて驚いたり睨みつけたりしている。加賀見家経営の病院に勤めりゃ、会うに決まっているだろうに。

表向き、優秀な成績で医師となったものの傷害致死の前科の噂に付きまとわれ決まった就職先を得られずにいた珠希に、いまや院長となった謙治が「最もつらい場所に身を置いてこそ贖罪の価値もあるし、命を救う仕事にふさわしい本当の医者に成長できる」と助け舟なんだか、何なんだかわからない提案をして雇い入れたという理由があるのですが、謙治もいろいろウラがありそうとは言え、黙って言葉だけ聞いてるとこれでもかってぐらいのヘリクツだし、「わかりました」と鉄仮面のような顔で従ってる珠希もまともな神経と思えない。謙治の提案を蹴ったら本当に就職先がないという不安もあったかもしれませんが、普通に考えれば本当に優秀な成績で大学を修了し国家試験を通った若手医師ならば、まず指導教授の覚えが相当めでたいはずで、少年院云々が問題にならない地味な職場のひとつやふたつ斡旋してもらって当然。

いくら系列病院とは言え、いち民間病院の院長を13年もつとめてきた謙治が、今日の16話で「最終的な目標は大学学長」なんてホラ吹いてる辺り、脚本家さんが医学界の現実をよく調べていないのかもしれない。よほど莫大な額の寄付でもすれば別かもしれませんが、大学医学部生え抜きの医師と、民間病院の医師とでは“国籍”が違うくらいの立場上の差があるものです。

狭い世界で濃密な人間関係が縺れ合い繰り広げられるのがこの枠のドラマの古典的枠組みで、それはむしろ歓迎なのですが、幾つかの作品でたまさか「この人物たち、人間関係を好きこのんでややこしくする以外、仕事も趣味も何も無いんじゃないか」と思うような局面にぶつかります。

今作はその前段階で「この人たち、好きこのんで狭いほう、狭いほう選んで生きようとしてないか」と思ってしまう。濃密な人間関係も前述のようにかなり無理やりな感情ベクトル設定で無理やりに濃密にしているけれど、濃密を濃密たらしめるウツワ部分たる“世界の狭さ”も、かなり無理して作られた狭さです。

枠組みも道具立ても無理やりなら、人物の感情の発生と表出も無理やり、そこらじゅうに立ち込める“無理やり感”をどう楽しめるか、面白がれるか、ここ当分はそこにかかってきそうです。

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