イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

39(サンキュー)昭和

2017-04-17 01:34:29 | 朝ドラマ

 久しぶりに戦争を跨がない昭和ものということで『ひよっこ』、早くも”昭和39年あるある””あったあった”で盛り上がってますね。いま日本でいちばん人口シェアの大きい団塊世代が、多感で好奇心旺盛な思春期を過ごしていた時期ですからそりゃもう小道具のひとつひとつ、劇中人物が口ずさむ歌の一節一節まで、引っかかって「いまのはねー・・」と語り出したら果てしがないという。

 たぶんドラマの背景・時代設定としては現時点で最強のハズレのなさでしょうな。なんたって、愛されてます。白黒テレビや手押し式スイッチの炊飯器や小麦粉から炒めて作る真っ黄色いカレーが懐かしいだけじゃなく、あの頃の自分、いまなら当たり前以下でしかないすべてのものが目新しく、有り難くてしょうがなかったピュアでイノセントな自分が愛おしい。みね子(有村架純さん)の笑顔や涙を通して、イージーでエゴくて人工的な時代に毒された自分を洗い流している様な気分になります。

 ヒロインが”東京五輪を高校最後の年に見る”という点がドラマ上重要です。

 放送時制で昭和39年の秋にいるみね子は、翌昭和40年3月高校卒業見込みですから、ドラマが始まる前の時制で病気休学でもしていない限り昭和21年4月2日から22年4月1日までの間に生まれているはず。もちろんド戦後生まれですが、のちに広く称される所謂”団塊の世代”とは微妙に違います。

 日本で言う団塊世代とは、アメリカで言う”ベビーブーマー”とはちょっと色合いが違い、昭和20年8月15日の終戦後、同10月頃から始まった復員ラッシュで、いままで軍にかり出されていた成人男性たちが、女性たちの待つ本土に大量に戻ってきたことでもたらされた子供たちの事を言います。ですから誕生日で言えば早くて21年8月頃。もう少し後の、22年~23年生まれが、いつでも国勢調査で人口ピラミッドのピークを成します。

 みね子の誕生日は現時点では劇中で明かされていませんが、もし21年7月までの生まれならはっきり統計上も、意味合い的にも”団塊”からは外れています。お父ちゃんの実さん(セクスィー農業沢村一樹さん)は農家の長男で家長ゆえに召集を免れた可能性もあるので、みね子は玉音放送が流れる前、ひょっとすると、20年6月の静岡に続いて7月には千葉が仙台が宇都宮が・・と本土都市部の空襲が続いていた戦争末期に身籠られた子かもしれません。少なくとも、みね子と同じく昭和40年春の卒業を待つ学年の仲間にはそういう、”純粋な戦後”生まれではなく”たまたま戦後になった”生まれの子が、多くはないが居たはずです。

 そもそも”団塊世代”という表現は1970年代も後半に、堺屋太一さんのベストセラーにもなった著書のタイトルで使われてから定着したものであって、昭和39年時点ではそんな言葉も概念もありませんでした。

 月河の実家両親とそのきょうだい(伯叔父母)たちは、生まれた年代が大正終わりから昭和一桁世代に集中していますが、彼らはよく所謂”戦後のドサクサ”の中でタネを仕込まれ、あっちこっちでドサクサドサクサと生まれまくった子たちのことを”終戦っ子”と呼んでいました。

 彼らに言わせれば、昭和21年の、特に前半生まれは”戦後生まれ”ではあり、歌のタイトルにもなった”戦争を知らない子供たち”ではあっても、”終戦っ子”ではないのですな。団塊が生まれ終わったずっと後に生まれた月河なんかから見ると、なーんだかゲスい話ではありますが、戦前戦中をも知ると自負している彼らにとっては、玉音放送を聞く前にお腹の中に居た子か、聞いてからホッとして(しなくてもいいが)やおら仕込んだ子かの違いは、ひそかに重要らしいのです。

 みね子と同じく昭和39年の秋に高校3年生として東京五輪の喧騒に接し、翌40年春に卒業を迎えた皆さんの中には”戦争末期仕込み”と”終戦ホヤホヤ仕込み”の2つのカテゴリが存在する。後者の後半グループ、特に昭和22年の早生まれ組は微妙に”団塊”に半身突っ込んでいますが、みね子学年は社会に出ても、自分たちの”一期二期下”でたいへんな人間洪水が起きるのを一段”陸(おか)”で眺めるようなところがあったのではないかと思います。まだ人数の圧力で扉が開かれていない、道がついていないだけに、パイオニア・先兵としての苦労もあれば、逆に自由で高揚感も大きかったかもしれません。

 『ひよっこ』も、ドンズバ団塊世代の青春譜というより、東京五輪をひとつの契機にふくらんでいく時代の”先触れ役”としてみね子たちを見たほうがいいのかもしれない。大きな流れに巻き込まれたり押し流されたり、逆にラクして乗っかったりするのではなく、流れの先陣にいて、あらゆる風景を真っ先に見て、感じて、反応していく、そういう物語になって欲しいと思います。

 ところで、そんなことを考えていたらふと思い出しました。日本はその後めでたく再び戦争を経験することはなくここまで来ていますが、西暦1989年に”昭和”から”平成”に元号が変わるという、これはこれで大きな節目イベントがありました。

 なので、同じ一つの学年に”昭和63年(4月2日~12月31日)生まれ”と”昭和64年(1月1日~7日)生まれ”と”平成元年(1月8日~4月1日)生まれ”の3カテゴリが共在したわけです。2007年=平成9年3月に高校を卒業した皆さん。今年から来年にかけてそれぞれのお誕生日を迎えて満29歳になりますね。有名人芸能人にも数多いと思いますが、変り目、節目の生まれってどんな時代にもあるものです。

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ii谷の少女(←番組違い)

2017-04-12 00:28:08 | 朝ドラマ

『ひよっこ』の茨城弁、と言うか正確には劇中のヒロイン谷田部みね子(ちょっとふっくらしてカントリー感濃いめの有村架純さん)の故郷"奥茨城村"が設定されている"茨城県最北西部弁"パワーがすごいという話を前のエントリに書きました。

 濁音とは直接関係ないのですが、3日(月)放送の第一回で早速、これ茨城弁?と思わず耳が立ちました。

 みね子が「(今朝は鶏が5個も卵を産んだから)茹で卵、お弁当にひとつ、入るかな~?入るよね~?」とお母ちゃんにねだると、聞きつけた小学生の妹と弟が「ずれえ!」「ずれえ!」と駆け寄ってくる場面。

 茹で卵一個お弁当に加えるのがそんなにスペシャル有難いのか・・と早くも昭和39年日本の農村ワールド、団塊世代の青春期ワールドに引き込まれるわけですが、「狡(ずる)い」を「ずれえ」と転訛するのはかなり珍しいと思う。

 月河の身近で、言葉崩したいさかりの年代の中高校生たちは、ゲームのプレイ中や会話の中で「ズルっ!」「ズルくねーし」等とはよく言ってますが、「ずれえ!」をナマで聞いたことは、月河は一度もないです。

 だいぶ前、このブログで"〔-ee-〕化の拡大"について書いたことがあります。

 うんとくだけた、お行儀をはずした話し言葉で「でかい」を「でけえ」、「居ない」を「居ねえ」、「痛い」を「いてえ」とは、江戸っ子でなくても男子なら普通に全国で言うと思います。親や目上の人のいない内輪なら女子も言います。これは〔-ai〕の〔-ee〕化です。「1万円もすんの?たけーよ(=高いよ)」「おまえそういうのうぜー(=うざい)んだよ」等いたるところで〔-ai〕は〔-ee〕化しまくっています。

 また「凄(すご)い」を「すげえ」、「ひどい」を「ひでえ」も一般的です。これは〔-oi〕の〔-ee〕化です。一般的ではあるものの、〔-ai〕に比べると、手あたり次第というほどの勢いはないみたい。「メールの返事遅せーな」とは言っても、「アイツ何考えてんだか、ったく腹グレエんだから」とはあまり言わない。「暗い」が「くれえ」になっても、「黒い」は「くれえ」にならないでしょう。言いやすい場合においてのみ、といったところでしょうか。

 ところが、10年か15年ぐらい前から、おもに若手芸人が多く出演するネタ番組やトーク番組で、そうではないという否定の「違うよ!」を「ちげーよ」と言うのを多く耳にするようになりました。ついに〔-au〕にも〔-ee〕化の波が押し寄せたのです。

 個人的な所感ですが、この場合は”違う”という単語に固有の或る事情がこの特例を許したのではないかと思う。それこそ江戸弁で強い肯定の後に強調フレーズとして使われる「違(ちげ)えねぇ(=違いない)」からの派生ではないでしょうか。”違う”の名詞形=”違い”の〔-ai〕が、自然の勢いで〔-ee〕化して”違(ちげ)え”になり、否定辞の”~ない”の〔-ai〕の〔-ee〕化と相俟って、一語の中で韻を踏む様な「ちげえねぇ!」という実に勢い良く言いやすい口語フレーズが出来てしまった。これが皆さん、本当に気持ち良かったのではないかと思うんですね。だから、同じくらい勢いよく否定したいときに「違う」でなく「ちげーよ」と言ってしまった。転訛としては法則外れの無理筋なのですが、勢いのほうがまさった。

 そしてここ、『ひよっこ』でついに、「ずるい」を「ずれえ」と言う、〔-ui〕の〔-ee〕化までが堂々登場したのです。

 〔-ui〕を考えれば、「熱い」を「あ(っ)ちい」、「悪い」を「わりい」と言う〔-ii〕への転訛が普通です。「悪りーねわりーね、ワリーネ・ディートリッヒ」なんてギャグも成立している。「寒い」を「さみぃ」とは芸人の内輪同士ネタ批評では言うかもしれませんが、「眠い」を「ねみー」、「不味(まず)い」を「まじー」とはあまり聞いたことがない。やはり言いやすいかどうか次第なのでしょう。

 とりあえず、千代子ちゃんと進くんが”姉ちゃんだけお昼に茹で卵食べられんのズルい”と思ったら、日本語の最大公約数的な転訛なら「ずりぃーー!」と言うはずなのです。それが「ずれえ!」「ずれえ!」になるのは、コレやっぱり茨城弁の一環なのかな。お母さんの美代子さんも、特に女の子の千代子に「そんな汚い言葉はいけません」とたしなめる気配もなく、NHK朝ドラらしく方言に関してはナチュラルで寛容な一家なので、やはり”地元の人間同士や家族間では特別荒っぽくも下品でもない普通なローカル言葉”ととらえるべきなのでしょう。

 翌4日放送の第2話では、「お姉ちゃんも電話でお父ちゃんと話したの?ずれえ!」「ずれえ!」という天丼もありました。ドラマ的には方言どうこうと言うより”お姉ちゃんだけが大人の世界に足を踏み入れていて、ちっちゃい弟はともかく私までまだ子ども扱いでなんかくやしい”という、推定小4ぐらい?の千代子ちゃんの可愛い苛立ちを表現する言葉なのかもしれません「ずれえ」。

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ポーグカヅサンド

2017-04-07 22:51:12 | 朝ドラマ

 いきなり笑ってごまかします。だははははははは。あんまり長期間ブログを放置したのでまたしてもやらかしてしまった。ログインパスワードを忘れてしまい、自分のブログを、閲覧はできるけど管理も投稿もできないという一般通行人になってしまいました。パスワードなんてついでのことに新しく変えてしまえばいいんだけど、この前同じ状況になったとき設定し直したやつが、結構、気合い入れたそれだったもんで、どこかに書いてあるはずだ!と、デスク周りの紙資料を渉猟すること約一時間半。あーーやっとこじ開けた。ふぅーー。

 全国の、放置ぎみに運営しているブログ管理人の皆さん、こういう経験はありませんか。ありますよね?ない!?月河もインターネット環境になって見るもの聞くもの新しかった頃に勇躍ブログを開設したので、当初3年ぐらいは体温も高く、更新頻度も高く、自分の携帯番号を忘れる分でもログインパスワを忘れることなんかないと思っていました。いかんいかん。ブログは細く長ぁぁぁく、途絶えさせぬように、牛のよだれのように続けることに意義があると思うのです。商いと違って、儲けは出ないですが。

 んで、何を投稿しようかといえば、そりゃもうこの時期、3日(月)から放送開始したNHK連続テレビ小説『ひよっこ』、行っとかなきゃしょうがないでしょう。

 それでなくても、半年ごと、朝ドラが新作にタッチ交代する頻度と当ブログの更新頻度が限りなく歩調を合わせている、"朝ドラが替わらないと更新しない"ブログと化している今日この頃。

 久々、前のめりで食いつけそうな濃密さ、高温、多湿、高風圧の予感がします。匂いが強い。土の匂いかな。マカロ・煮グラタンの匂いかしら。この圧力があれば、『とと姉ちゃん』が食い足りなかったことも、『べっぴんさん』がとっ散らかったことも吹っ飛ばせそう。なにしろ有難いことに始まったばかりなので、分析する時間がたっぷりあります。

 シンプルにまず1コ挙げておくと”茨城弁パワー”でしょうな。なんたって、濁音が多い。濁らなくてもいいところで微妙に濁音になります。これがドラマの風圧と匂いの濃さをいや増しています。前2作が結構ヒロイン急上昇・急確変のお話だったのにどこかスカしていて現実感が薄かったのも、劇中方言がさらさら綺麗めだったせいもあるのではないでしょうか。今作は、取り返してお釣りがくるくらいミチミチミッチリしています。

 それにしても、食パン四つ切りサイズのサンドイッチを箸で食べるものと思っているくらい洋食になじみがなかったのに、美代子お母ちゃん(田舎の母ちゃん演技がとても楽しそうな木村佳乃さん)「ぽーくかつさんど」って名前が、発音はともかく、よく出てきたなあ。すずふり亭で包んでくれたお持ち帰り函にタイトルとトリセツみたいの入ってたのかしら。洋食屋さんなのであくまで”トンカツ”じゃなく”ポークカツ”なんですね。

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がっちりポン

2016-02-25 02:28:20 | 朝ドラマ

 こないだ節分で大小・和洋中さまざまな恵方巻が店頭に並びまくっていたと思ったら、もう極寒の当地でもガンガン雪が融けまくってまして、否応なしに波瑠が、いやさ春がずんずんずかずかと近づいてきました。

 ・・なんだか長嶋監督みたいな文章になってますが、『あさが来た』、ますます盤石ですねえ。気持ちいいくらいの盤石です。どこが面白い、此処が面白いじゃなく、面白くないところがさしあたって見つからない状態になってきた。劇中の誰が何を言っても、どんなアクションでどんな表情を見せても、そこに食いついて果てしなく思いを巡らせたり、世間話につなげたりできる。「へぇさんが成澤先生に“出て行け!”言っちゃダメでしょ~」「“あんたのせいやろ”言われたら自殺するよね」「『涙のアリア』歌ってたからクリスチャン、だから自殺はしないしょ」、あるいは「よのさんナイス横入り」「いやバッドタイミングじゃね」・・

 ・・こうなると、連続ものは最強です。毎日連続していますから毎日関心が途切れない。ここのところのNHK朝ドラ、好評作でもさすがに半年放送の中盤以降になると「この話もうお腹いっぱい」「この人の顏もう見飽きたんだけど」と思う回、時間帯がぽこぽこ出てきたものですが、『あさ』にはざっと見てもそれがない。スポーツで言えば「強い!」と言うより「負かしにくい」「負かし方が見つからない」「負ける形が想像できない」タイプ。全盛期の横綱白鵬、大鵬関とか、競馬ならテイエムオペラオーやマイル戦でのタイキシャトルみたいなやつですな。古いか。突出した派手さはないように見えて、その分取り返してお釣りがくるくらい、とにかく隙がない。

 『あさ』がこんなにバリ盤石になったのが「なんでだす?」かと言うと、身もフタもないけど要するにヒロインがはなから裕福設定だったという事に尽きるでしょうね。あさ(波瑠さん)の実家は京都随一の豪商・今井家(モデルはのちに財閥となる三井家)、嫁ぎ先は大阪屈指の大手両替商・加野屋。カネがあるから、集まる人もモノも、情報も量質ともに当代一流、時代の荒波に揉まれても周囲からつねに一目おかれリスペクトされていますから、ヒロインの張りと誇りと自己評価が筋金入りです。どんな難題も「できる!」と信じてやみません。

 偉い人、力のある人、磨いて鍛えてくれる人との出会いも、階級が上なんですからどんどん訪れます。いつもの朝ドラの、いつもの“名もない平凡な、どこにでもいる女の子”ヒロインにはこれができないのです。できるわけがないのになぜか御誂え向きな出会いやお手柄、脚光絶賛が降ってわいたりするから、いつもの朝ドラはとかく「ウソ臭い」「ヒロインに感情移入できない」とお叱りを受けるのです。

 豪商嬢はんでも女に学問は要らないと言われて育つ時代ですから、学歴などはありませんが構ったこっちゃない。ソロバン帳簿、営業交渉の才はDNA。一歩間違えば御手打ちになるか、身上潰れるかという局面でもビタ一文、ナヨナヨヘコヘコしません。相手が新選組でも、大政治家でも、大富豪でも学者先生でもガンガン行きます。んでまた、「あの加野屋の」「あの白岡あささんか」「さすがだ」「噂通りだ」と相手もうち揃って興味津々でこっちを向いてくれます。

 また、あさと反対に、婚家が本当に潰れちゃった姉のはつ(宮あおいさん)すら、大八車ひとつで夜逃げしてもへこたれません。キレた夫(柄本佑さん)とふて腐れた姑(萬田久子さん)との刃傷沙汰に身体を張るほど度胸満タン意気軒昂です。お嬢様育ちでお人形さんみたいな嫁かと思ったら、縫い物、藁仕事はもちろん畑仕事もこなすし、美味しい漬物も大得意。納屋の借り住まいでもしっかり子作りだってしちゃう柔らかしたたかさ、移り住んだ蜜柑の里の庄屋さんも「学があって、美しい」との惚れ込みようです。なんたって商都大阪の大店育ち、身なりは落ちぶれても身につけた教養の厚みが違うわけです。

 ヒロインを“あらかじめ一頭地を抜く”位置からスタートさせることで、こんなにいろんなことが気持ちよく無理なく展開し盤石になるなら、なんで早くその手でいかなかったのか、なんで毎度毎度“どこにでもいる普通の女の子”設定にこだわっていたのかと首をかしげるほどです。

 しかしながら『あさ』のいやまさる盤石さを見るにつけても、ひるがえって『まれ』の蛮勇を思わずにはいられない月河です。

 (この項続く)

 

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レゾリュシオン(覚悟)

2016-01-15 02:20:46 | 朝ドラマ

 「いつも見てる夢は わたしがもうひとりいて やりたい事 好きなように 自由にできる夢」

・・現在放送中の『あさが来た』OPテーマ曲『365日の紙飛行機』の一節です。

 これを聞くたびに『あさが~』がどれだけ朝ドラとして鉄板で恵まれているかを思う。

 なにしろ封建主義社会の江戸幕末から、文明開化・富国強兵の明治維新時代ですからね。伝統ある京都の豪商の次女として裕福に天真爛漫に育ったヒロインが“やりたい事を、好きなように、自由にやる”だけで、反対だらけ障害だらけ、前例ない、お手本いない、山あり谷あり艱難辛苦でドラマになってしまう、できてしまうのです。

 「女子(おなご)に学問は要らん」「何も知らなくていい、ただお嫁に行けばいい」という時代ですからね。あさ(鈴木梨央さん→波瑠さん)が「パチパチはん!」と愛してやまない、商人の必携=ソロバンを習わせてもらうのすらひと騒動です。嫁ぎ先の両替屋の、返してもらえない前提だった大名貸しを突撃回収し、通貨切り替え取り付け騒ぎで揺れるさなかに経営再建、明治政府の殖産興業政策に先駆けて九州の炭鉱も、蔵を売ってまで金策して買い上げる猛進ぶり、現代に舞台を移し替えたとしても『プロジェクトX』級の注目を集めたでしょうが、幕末明治の因習が根深い大坂の商業界でこれをやるわけです。何処へ行っても叱られ嘲笑され好奇の目で見られ浮き上がりまくり叩かれまくり、それでもNHKヒロインらしく、設定どおりの押しの強さと根性のふとさ、根の明るさで、周囲を説き伏せ薙ぎ倒し、みるみるうちに味方を増やして戦果をあげてゆく。極端な話、演出も何もしなくても、普通に実写映像化するだけで、見るたび溜飲が下がって次回が見逃せない、教科書的な朝オビの連続ドラマに自然とできあがります。

 しかし、これが現代の日本を舞台となるとどうでしょう。女性が“やりたい事を好きなように自由にやる”について、何も文句がありません。全方位大歓迎、夢を持ちなさい、夢に向かって頑張れと、満面の笑みで応援ムード一色です。

 そりゃ日本のことですから、まだまだ根強く偏見も差別も残ってはいます。女性がちょっと本気出すと「女のくせに」と眉をひそめる年寄りもいれば、女と見ると「いいカラダしてんな」「酌をしろ」「オトコはいるのか」と別方面に前向きになるおっさんたちもバリ健在。

 しかしながらなんたって現政権が"女性が輝く社会"推奨です。“一億総活躍社会”押しです。女性が夢を持ち、男性限定だった分野に切り込み参入することに政府保証が付いているのです。同じ戦線で同じ能力の男と女が居たら、女のほうを先に役につけろという"逆差別"すらはたらいている。実態はわかりません。そんなに甘いものじゃないかもしれない。ただ重要なのは、世間がそういう空気の中で回っているということです。女性が夢を持ち夢に邁進することを、カッコいい、進んでる、歓迎し応援すべきこととする同意が、“公的”に取りつけられている。

 いまや女性のサッカー選手もラグビー選手も、ダンプカー運転手も宇宙飛行士も、高級官僚も大臣もいる。女性が何であれやりたい、なりたいという夢を持ったとして、達成できなかったら“能力(適性)不足”か“よっぽど運が悪い”しか理由がない。

 こんな時代背景で、おメメキラキラ新人女優さんの「ワタシ〇〇になりたい!」から転がり始めるドラマを見せられても、その女優さんのあらかじめファンか、“〇〇”の業界関係者やOBででもなければ「あっそ」「やれば?」としか受け止められようがないでしょう。世間が、内閣総理大臣の旗振りよろしく「夢を持て」「輝け」と応援しまくりムードなのですから、何も自分が心をこめて温かく見守る必要はないし、一緒になって悩んだり、うまく事が運べば喜んだりしてあげる必要もないわけです。

 朝ドラ現代ものが概して「まだるっこしい」あるいは「ウソくさい」としらけて見られ、内容も人気も低調に終始しがちなのは、“夢を持つヒロインの向上発展に感情移入する”という、朝ドラの根幹の地合いが作りにくい時代が現代だからです。安倍政権は「デフレ脱却」をしつこいくらい謳い続けましたが、そのおかげというわけじゃないけど“夢に向かって頑張る”という、前近代~昭和前半に輝いていた価値観はインフレ化して紙くず同然になりました。

 「夢に向かって頑張るヒロイン」でドラマが立ち上がらないというジレンマに悩み抜いた結果、『まれ』はヒロインにのっけから「私は夢が大嫌いです!」と言い放たせる暴挙に出ました。

 「夢を追いかけることは家族を不幸にする事」「人生は“地道にコツコツ”です」とも言わせた。ヒロインにまず夢を持たせ、夢実現への努力を描くことで、長年月、何十作にもわたってお話を紡いできた朝ドラが、ヒロインに夢を否定させたのです。注文過ぎる注文相撲です。

 結果、希(土屋太鳳さん)は、夢を追う者のネガティヴな部分だけを具現化したようなキャラの父親(適役すぎる大泉洋さん)と対立→和解→離反とあきらめ・・を繰り返し、本来ならまっしぐらに進んでいいパティシエへの道に背を向けて地方公務員になり、ふとした事件から思い直して辞表を出しやっぱりパティシエを目指し・・と、爽快感・達成感をことさら避け視聴者の共感意欲をわざわざ削ぎに行くような、ねじれ迂回した人生ストーリーを余儀なくされました。

 『まれ』の最大の功労のひとつは、現代もので“ヒロインの夢”を軸に据える事の難しさを、このうえなく端的に、赤裸々に示してくれたことです。「夢が大嫌い」と、日本語的におかしな宣言までさせないと、“夢”で話が作れない。作った結果があの通りです。

 「無理筋を選んだにしてはよくもたせた」とも言えるし、「無理を通して道理をへこましたからあんなことになった」とも言える。将来にわたって朝ドラが続いてほしいと思い、できれば良作を輩出し続けてほしいと願うなら、『まれ』のこの蛮勇は買ってあげなければいけないと思います。

 (この項続く)

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