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スリー・ビルボード 【感想】

2018-02-10 08:00:00 | 映画


3枚のビルボードを巡る、怒りと愛の物語だ。クライムサスペンスのような立ち上がりから、徐々に重厚な人間ドラマがせり出してくる。人が見ている多くの部分は相手の表側に過ぎず、裏にある本質を見通すことは難しい。本作で描かれる人間の本質は愛であり正義だ。怒りを抱えた主人公の痛快劇に躍らされることなく、その本質に気づかされる瞬間を見逃さない。希望というより勇気も与えられた感覚に近く、心を強く揺さぶられる。犯罪捜査の限界、南部の土着性、カトリック教会の闇、移り気なメディア、中東戦争の汚点など、劇中さりげなく浮上する社会問題は現代アメリカを映し出す。ユーモアとシリアスを両立させる脚本は監督らしい味つけだ。同時に、戯曲のようなフィクションが入り混じる脚本でもあり、あざとく見えるシーンも少なくないが、超一流の役者陣のパフォーマンスが普遍的な物語に昇華させている。役者陣の演技はもれなく素晴らしく、群像劇としての見応えは近年屈指のレベルだ。あらゆる意味で、オスカー作品賞をとっても異論ナシの映画だった。傑作。

6年前に愛娘を殺された母親が行きづまる捜査に腹を立て、地元の警察署長を名指しする3つの看板を出してことで起きる人間模様を描く。「まさか、こんな話に転じていくとは・・・」と、先の読めない展開にグイグイと引き込まれた。

舞台はミズーリ州にある架空の田舎町。原題には「ミズーリ州」の「エビング(町名)」とわざわざ地名が付けられている。パンフ情報によれば、ミズーリ州は「住みたくない町」としてアメリカでは知られており、本作でも良くも悪くもその閉鎖的な地域性が物語の前提になっている。住民の多くは白人で、低所得な労働者階級の人たちだ。南部の名残で人種差別主義者も多いようだ。去年、ドナルド・トランプを大統領にしたのも、こういうアメリカの人たちだったんだろうと勝手に想像する。

主人公は怒っていた。殺された娘はレイプされて、道端に捨てられ、焼かれていた。彼女の場合、後悔や悲しみの念をすべて怒りのパワーに転換させる。完全に停止した犯人探しの捜査にしびれを切らせ、町外れにある通行料の少ないロードサイドの立て看板に「署長なぜ?」のメッセージを出す。法的な問題はないため取り外すことはできず、署長へのバッシングともとれる看板が話題を呼び、テレビにも取り上げられる。主人公の狙い通りだ。

ところが町の反応は冷ややかであり、観客の予想も覆す。彼女に同情する味方よりも、署長に同情する人が多いのだ。人情派として多くの町民から慕われる署長のようで、しかもガンを患い死を目前にしているタイミングが後押しする。主人公の家族であり姉を亡くした格好の息子までも「暗い過去を思い出すから」と母がとった行動を非難する。小さな町、ボスを慕う警官や署長の友人たちから嫌がらせを受ける。助ける人はおらず、まさに四面楚歌状態。しかし、そこで「主人公が不憫」とは容易にならない。なぜなら、警察側も全力で捜査にあたっていたからだ。

正義はどちら側にもある。頑張っていた警察側にムチを打つ主人公にも見えるし、それでも捜査に固執する主人公を応援する目もある。「自分はガンだ」と署長が主人公へ告白するも「だから意味がある」と一蹴する。主人公は降りかかる非難を浴びても折れず、それどころか反撃を食らわす。「怒りは怒りを来す」。目的であった捜査の問題から離れて場外乱闘の様相を呈する。そんな状況のなかで、大きな転換点となる事件が起きる。

事件をきっかけに、もう1つの「怒り」が発生。怒れる男は「暴力」へと突き進む。その怒りが爆発する長回しのシーンに鳥肌が立つ。怒りによってもたらされた盲目の狂気は、恐ろしくもあり悲しくも見える。その後、男は贖罪のもと正義に突き進む。相手を知り、自身を知ることになるからだ。相手の本質はなかなか見えないし、自分が思う以上に愛が深かったりする。そして自身の人生を変えるほどの強い影響力を持つ。病院での「オレンジジュース」が本作の象徴的なシーンであり、胸に突き刺さった。

架空の町「エビング」は、どこにでも手が届くよう小さな町であり、人と人の距離感もとても近い。そのサイズ感は舞台劇のようでもある。暴力が野放しにされる状況や、すぐ近くでコトが起きる現象など、実社会に置き換えられるドラマとは趣が異なる脚本だ。演劇舞台を多く手がける監督らしい戯曲のようでもある。悪くいえば、描こうとするテーマのために展開を操っているようにも見える。しかし、そこを補って余りある役者陣のパフォーマンスの力が、生々しい質感を物語に与えている。

登場するのは個性豊かなキャラクターたちであり、それを体現する実力派キャストの演技がぶつかり合う。怒りのフランシス・マクドーマンド、慈愛のウディ・ハレルソン、激情のサム・ロックウェル、非道のジョン・ホークス、悲恋のピーター・ディンクレイジ、赦しのケイレブ・ランドリー・ジョーンズ。もれなくもれなく素晴らしい。本作を見て「この映画に自分も出演したかった」と嫉妬する俳優も多いのではと感じる。

主人公演じるフランシス・マクドーマンドは一見、攻め続ける役柄のように見えるが、周りの変化を受け止める役割も果たしており、周りの感情の変化が彼女へしっかり伝染する様子がみてとれる。一方、彼女以上に強いインパクトを残すのが、主人公と敵対関係にある暴力警官を演じたサム・ロックウェルだ。本作の演技によって彼が賞レースを総ナメにしている理由がよくわかった。変わり者キャラの具現化に留まらず、人間が持つ崇高な感情の変化を繊細に演じており、その生き様が本作のテーマに直結しているのだ。忘れ難い名演だった。ほかに、昨今アクの強いキャラを演じまくるケイレブ・ランドリー・ジョーンズの多才ぶりや、もはや演技派として定着した感のあるピーター・ディンクレイジのエモーショナルな演技にも唸らされた。

随所に挟まれるブラックユーモアは、全く毛色の違う映画だけど前作の「セブンサイコパス」と共通するところ。ドライなコメディと、人間の本質に迫るドラマが両立する。善悪では分けられない人間の複雑さと、その先に見えた希望。多くの社会問題が巧く脚本に生かされており、アメリカの今を捉えた映画でもある。オスカー賞レースでは、監督賞の候補から外れる波乱があったものの、全く問題なく作品賞を取るだろうし、作品賞をとるに相応しいと思えた。

【80点】

コメント (2)
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