そもそも論者の放言

ミもフタもない世間話とメモランダム

「フォト・リテラシー」 今橋映子

2008-11-11 23:13:20 | Books
フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書 1946)
今橋 映子
中央公論新社

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副題「報道写真と読む倫理」で示されるように、1930年代に成立した報道写真、フォト・ジャーナリズムの歴史を紐解く中で、写真がどのような意図に基づき、加工・流通されてきたかを詳らかにするとともに、それを観る側のリテラシー、倫理を丹念に問う力作。

写真は、決して「現実の直接の反映」ではなく、写真家の「選択」や、歴史的・政治的・文化的文脈により規定される「制作物」である、という論点にはさほど新味を感じなかったのですが、他のメディアと異なる写真の特性については改めて気付かされるところがありました。

まず、写真は、本書でも触れられている通り、「過去」を焼き付けるメディアであること。
映像(動画)メディアと異なり、写真には「生中継」という概念が原理的にあり得ない。
そして、写真は上述のように「現実」そのものではないまでも、基本的には「今そこに在るもの」を捉えたもであることが前提となっていること。
もちろん、全くの捏造・合成写真というものもあり得るわけですが、一から非現実世界を容易に構築できる絵・イラストや文字メディアとは、決定的な性質の違いを有していると思います。
そうした特性があるからこそ、我々は写真の「真実」性を容易に信じ、また、写真に「期待」してしまう。
そのことが、著者の云う「撮る側と観る側の共犯関係」が成立する所以であるように思いました。

もう一点、興味深かったのが、本書の最後に少しだけ触れられている「写真は歴史を解き明かす証拠能力を有するか」という論点。
本書では、ナチスの収容所写真とホロコースト否定論の関係を例にとって論じられているのですが、これまで文献史料を中心に行われてきた歴史学研究に、今後、写真の史料価値がどのように位置づけられていくのか。
写真というメディアの歴史が約2世紀に及ぼうとしている現在以降、そうした論点はより強く意識されていくのだろう、と。

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