これはライの転換点だと思います

前のエントリーの続きです。

 ライ・フェスティバルのサイトを見てみると、フェスティバルは「今後」シディ=ベラべスに移り、オランではLe Festival de la chanson oranaise「オラン歌謡フェスティバル」を開くことになったと書いてあります。これはもう「ライ・フェスティバルはオランには返さない」というのが政府の意思だということですね。

 うーん、ちょっと状況が見えてきた気がします。
 
 シディ=ベラべスにはオランと違う、別系統の発展の仕方をしたライが存在します。モハメド・ザルギからライナ=ライに至る、グループスタイル、ロックスタイルのライです。
 これはこれで音的には、フランス在住の移民二世、三世でグループ活動をしている連中にレパートリーとモデルを提供するという大きな役割を果たしているのですが、リミッティからハレド、その他のシェブ、シャバたちに伝わった野卑な欲望の爆発の表現をオランのライのもつ基本的性格とすると、その面は弱いのです。
 だからミリアニさんたちは「(ライナ=ライは)ライとは似て非なるもの、ウィスキーに対するジンジャーエールみたいなもの」と評していました。オランのライから見ると、ということですが。

 そういえばアルジェリア政府は最初からなにかとライナ=ライをひいきにしていました。
 アルジェリア国民はハレドやファデラのライを支持しているのに1985年7月、アルジェで開かれた「若者の祭典」でユッスー・ンドゥルやキング・サニー・アデなど外国のスーパースターを迎えた時、地元アルジェリア代表、はじめてアンダーグラウンドから表舞台に「ライ」代表として出てきた、というか出させてもらったのはライナ=ライだったのです。

 このときはこれでは国民は納得せず、結局ハレドたちはアルジェリア国民の圧倒的な支持を背に全国制覇、さらには世界の音楽シーンにまで駆け上がって行って、ライナ=ライは後方に取り残された形になったわけですが、政府や宗教勢力――今の首相のベルカデムはかなり宗教色の強い人物です――は常に野卑で「反イスラム的」なオランのライを嫌っていて、機会があればそれを「純化」したい、といつも思っていたのでしょうね。
 いまライ・フェスティバルをシディ=ベラべスに与えるということは、こちらの流れをライの主流にする、という政府の意志の表れなのだと思います(ライナ=ライ以後シディ=ベラべスからどういう連中がでてきているのか全く不明ですが)。

 オランのライの毒をかなり中和した形にしていたのがほかならぬシェブ=マミだったわけで(彼もオランで活躍しましたが元々サイダの人で、オランでは相当疎外感を味わっていました)、彼の世界的名声はある意味、オランのライに対する攻撃の防波堤になっていたのでしょう。
 その彼が例の国際手配で身動きできなくなってしまったことで、事態が動きだした、と考えたらうがちすぎでしょうか?・・・

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