日本人はフランス語を誤解している!・・・と思うけどなあ・・・
フランス語系人のBO-YA-KI
アイデンティティは創りあげるもの
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/ee/8dc5171e0a735303f259df27e0e1d21a.jpg)
今回の暴動で、ついに死者が出てしまいました。犠牲者の冥福を祈るとともに、これ以上犠牲がでないよう、事態が早く沈静化するよう願うばかりです。
さて TENEREさんから前の投稿についてTBをいただきました。拙稿をとりあげていただいてありがたく思います。
ただわたしの書いた趣旨とは違う解釈をされているところがあり、それを残念に思いますので、ここでそのことを明らかにしておきたく思います(「ライ」というのがどのようなものか聞かれたことがなくて、前の投稿だけ読まれた方がこういう反応をされるのは当然かもしれません。でも各投稿にいつも議論を一から十まで全部書くことはできないので、申し訳ないですけど m(_ _)m どうしてもこういう誤解が起こることはやむをえないように思います。だからTENEREさんを怒るとか批判するとか、そういう気は毛頭ないことをご理解下さい)。
フランスにいる移民二世たちが「故国」の音楽を扱うというとき、それは「両親や祖父母の価値観に頼る」ということではないのです。
なぜならワールドミュージックは、とくにフランスの移民二世にとってのそれは「伝統への固執」ではないからです。
ワールドミュージックは「西洋的近代化を経験すること」をその本質に含んでいます。
だからコテコテの伝統でも、ガチガチの西洋(というか「近代」ですね。だって西洋にもワールドミュージックはありますから)べったりでもない、その間に新しい音楽的アイデンティティを創りあげるところにワールドミュージックのいいところがあると思います。つまり理想としては:
「故国」の人々に「うむ、こういう革新もまたええじゃろ」と伝統を忘れていないもの、それを継ぐものと認められ、
同時に西洋の、自分の隣人たちにも「お、これ面白いじゃんか、いい音楽だね、ノリがいいね」と理解して、「愛してもらえる」(ここがポイントです)
そういう音楽のことを言うと思うのです。
だから、フランスの移民二世アーチストたち(に限らず世界のさまざまな場所で音楽をしている人たちに共通すると思いますが)のやっていることは新しいアイデンティティの創出、「間の」アイデンティティを創りあげることなのです。
たとえばアルジェリア系移民二世の若者にとっての「ライ」は、90年代中頃になっても一般的にはまだ「とうちゃんかあちゃんたちの聞くダサイ音楽」に過ぎなかったのです(日本で言えばド演歌に相当するでしょうか)。それがロック、ラガ、ヒップホップの要素も取り入れ、それらのジャンルと比べてもひけをとらないような現代的魅力をもつようになり、録音も丹念にやるようになり、若者が友達(他の系統の移民系、元からのフランス人ということですよ)に自慢できるような形になってはじめて「自分でもこの『新しい』ライ、故国と西洋のはざまのライをやってみよう。それでこそ『自分の』音楽だ」と考える気運がでてきたのです。
(こういう可能性を考えることにおいては日本人は本当に遅れています。というか、必死に「自分でないものになろう」としすぎます。みずからの伝統に根ざした音楽を近代的に洗練して(なぜなら自分は近代「にも」魅了されるから)真の意味で自分達の音楽、心底愛することのできる音楽を作ろうという発想が非常に弱かった。明治からこっちの音楽の歴史をみてみると、近代化のためにはむしろそういう日本音楽の根っこは抹殺して、かわりにドイツ古典音楽を根っこに持ってしまおうという考え方の方が優勢だったように思います。たしかに今は吉田兄弟などがいますが、民謡を含めた邦楽全体を活性化するにはまだまだ遠いでしょう。エチオピア70年代のスター、トラフン・ゲセセのCD(上。ちなみにこのCDもBuda Musiqueというフランスの会社が出しているんですよ。日本での発売はオルターポップさん、配給はメタカンパニーさんで型番はAFFCD-5288です)などを聞くと「日本の民謡もこういう音を通過していたならもう少しなんとかなったのではないか」と残念でならないのです。
だから日本の人にとってアルジェリア移民二世たちの試みの本質はなかなか分からないものかもしれないです)
というようなことについて、また別のいい方もできるように思います。
11月6日付の産經新聞は第一面でこの暴動事件を扱っていますが、いくつか気になる書き方が見受けられました。たとえば:
(フランスは)昨秋、イスラム教徒の女性を対象に施行された「スカーフ禁止法」に象徴されるように、フランス的価値観を迫る性格が強く、出身国ごとの文化的背景を尊重する、英国の「多文化主義」とは一線を画してきている。
と書いてありますが、これはとくに日本では非常に誤解を招く書き方だと思います。
他文化尊重、「出身国ごとの文化的背景を尊重」というとたいへん聞こえがよくて「いいことじゃないか、どこがいけないのか」と思われるかもしれません。ただ(わたしに偏見があると思われた方はどうか実例をあげて指摘、正していただきたいのですが)アングロ=サクソン的感覚における他文化尊重というのは:
「どうせこの人たちの文化は自分には理解できるはずがないし、関係ない」
という突き放した世界観と往々にして表裏一体になっているように思うのです。
ということは、最初から「自分と相手が分かり合うこと」を放棄していることになります(むかしむかし日本にも:「あのとき同じ花をみて美しいと言ったふたりの心と心が・・・」って歌がありましたね。(^_^) )。
いま「アングロ=サクソン的」と書きましたが、日本的でもあるかもしれませんね・・・ みなさんはどう思われますか?
だって、たとえばわたしが人前で「ライってなんですか」という質問に答えて「アルジェリアのポップ」「イスラム圏の音楽」だと言うと、聞かない先から、わたしの前の人々の顔が「あ、例のくにゃくにゃした旋律の音楽ね(わたしが本当の意味で「好きになる」ことは絶対ありえない。ああいうのって興味ないし)」と思っている顔になるのがよく見えるのです。 (^_^;) だから実際の音を聞いてもらうとみな「キョトン」とするんです。ここがわたしには面白いんですよお。 (^_^)y ・・・
で、フランス的な価値観は、ちょっと違うと思います。よく言われることですが、フランス精神は普遍性を尊ぶ。ということは万人が理解し合える共通基盤というものがあるはずだし、それを持つべきだと考えるわけです。その普遍性とは多くの場合西洋的合理精神であり西洋言語による西洋的教養であったりして、その意味では問題があるのですが、言葉を変えると、異文化に属する相手を「化け物」扱いせず人間扱いする、ということでもあると思うのです。
サッカーなんかいい例ですね。サッカーはスポーツとして成立したのはイギリスであり紛れもなく西洋起源のものです(そもそもスポーツという概念自体西洋のものですね)。そのサッカーのワールドカップはイギリス人じゃなくてフランス人が主導して組織したものだというのは、偶然ではないのでしょう。サッカー場という場でサッカーのルールにのっとって行われる競技は、なに人でもできるし、なに人対なに人もできる、普遍的なものです。こういう普遍性はフランス精神にのっとったものだと思うのです。
例のスカーフ事件はフランス固有の価値観の押しつけというより、共通基盤を持ってほしいという要求のように思います。「カトリックもプロテスタントもユダヤも宗教的シンボルを『これみよがし』にしないという決まりを守っているのだから、イスラム教徒諸君もこれを守ってほしい。公共の空間では宗教をあらわにしないでほしい。それを守ってくれるなら、信教の自由は完全に、絶対的に保証する。それがフランスの国是なのだから」ということなのだと思うのですが。
(それにスカーフの話は、あれはあくまでも「タテマエ上の話」なんですよ。だってグルノーブル大学なんかで歩いてたら、あたりまえにスカーフつけているアラブ系の女学生を見るし、別にフランス人がそれを見て難癖をつける、なんてことはないのです。日本にはタテマエ上の議論しか伝わってこないので、ずいぶんフランスが抑圧国家みたいに見えちゃいますが、現実は全然逆だと思いますよ)
てことで、やっぱり分かりにくい話かもしれません。 (^_^;)
「アイデンティティの創出」の音楽的表現ということに関しては、たとえばジェラルドがプロデュースした傑作アルバム、フォーデルの Baida などをお聞きになっていただけると、わたしの言っている意味が少しお分かりいただけるかも、と思います。
もっともこういうCDはあんまり日本で手に入らないですけどね。日本では音楽業界は完全に資本主義、というか市場独占の論理でしか動きませんから。こんなことをやってるから他国のことが分からないのです。このへんが「日本の問題」です。
ニッポン大丈夫か? というセリフはこういうところで言ってみたいところですね。 (^_^;)y
さて TENEREさんから前の投稿についてTBをいただきました。拙稿をとりあげていただいてありがたく思います。
ただわたしの書いた趣旨とは違う解釈をされているところがあり、それを残念に思いますので、ここでそのことを明らかにしておきたく思います(「ライ」というのがどのようなものか聞かれたことがなくて、前の投稿だけ読まれた方がこういう反応をされるのは当然かもしれません。でも各投稿にいつも議論を一から十まで全部書くことはできないので、申し訳ないですけど m(_ _)m どうしてもこういう誤解が起こることはやむをえないように思います。だからTENEREさんを怒るとか批判するとか、そういう気は毛頭ないことをご理解下さい)。
フランスにいる移民二世たちが「故国」の音楽を扱うというとき、それは「両親や祖父母の価値観に頼る」ということではないのです。
なぜならワールドミュージックは、とくにフランスの移民二世にとってのそれは「伝統への固執」ではないからです。
ワールドミュージックは「西洋的近代化を経験すること」をその本質に含んでいます。
だからコテコテの伝統でも、ガチガチの西洋(というか「近代」ですね。だって西洋にもワールドミュージックはありますから)べったりでもない、その間に新しい音楽的アイデンティティを創りあげるところにワールドミュージックのいいところがあると思います。つまり理想としては:
「故国」の人々に「うむ、こういう革新もまたええじゃろ」と伝統を忘れていないもの、それを継ぐものと認められ、
同時に西洋の、自分の隣人たちにも「お、これ面白いじゃんか、いい音楽だね、ノリがいいね」と理解して、「愛してもらえる」(ここがポイントです)
そういう音楽のことを言うと思うのです。
だから、フランスの移民二世アーチストたち(に限らず世界のさまざまな場所で音楽をしている人たちに共通すると思いますが)のやっていることは新しいアイデンティティの創出、「間の」アイデンティティを創りあげることなのです。
たとえばアルジェリア系移民二世の若者にとっての「ライ」は、90年代中頃になっても一般的にはまだ「とうちゃんかあちゃんたちの聞くダサイ音楽」に過ぎなかったのです(日本で言えばド演歌に相当するでしょうか)。それがロック、ラガ、ヒップホップの要素も取り入れ、それらのジャンルと比べてもひけをとらないような現代的魅力をもつようになり、録音も丹念にやるようになり、若者が友達(他の系統の移民系、元からのフランス人ということですよ)に自慢できるような形になってはじめて「自分でもこの『新しい』ライ、故国と西洋のはざまのライをやってみよう。それでこそ『自分の』音楽だ」と考える気運がでてきたのです。
(こういう可能性を考えることにおいては日本人は本当に遅れています。というか、必死に「自分でないものになろう」としすぎます。みずからの伝統に根ざした音楽を近代的に洗練して(なぜなら自分は近代「にも」魅了されるから)真の意味で自分達の音楽、心底愛することのできる音楽を作ろうという発想が非常に弱かった。明治からこっちの音楽の歴史をみてみると、近代化のためにはむしろそういう日本音楽の根っこは抹殺して、かわりにドイツ古典音楽を根っこに持ってしまおうという考え方の方が優勢だったように思います。たしかに今は吉田兄弟などがいますが、民謡を含めた邦楽全体を活性化するにはまだまだ遠いでしょう。エチオピア70年代のスター、トラフン・ゲセセのCD(上。ちなみにこのCDもBuda Musiqueというフランスの会社が出しているんですよ。日本での発売はオルターポップさん、配給はメタカンパニーさんで型番はAFFCD-5288です)などを聞くと「日本の民謡もこういう音を通過していたならもう少しなんとかなったのではないか」と残念でならないのです。
だから日本の人にとってアルジェリア移民二世たちの試みの本質はなかなか分からないものかもしれないです)
というようなことについて、また別のいい方もできるように思います。
11月6日付の産經新聞は第一面でこの暴動事件を扱っていますが、いくつか気になる書き方が見受けられました。たとえば:
(フランスは)昨秋、イスラム教徒の女性を対象に施行された「スカーフ禁止法」に象徴されるように、フランス的価値観を迫る性格が強く、出身国ごとの文化的背景を尊重する、英国の「多文化主義」とは一線を画してきている。
と書いてありますが、これはとくに日本では非常に誤解を招く書き方だと思います。
他文化尊重、「出身国ごとの文化的背景を尊重」というとたいへん聞こえがよくて「いいことじゃないか、どこがいけないのか」と思われるかもしれません。ただ(わたしに偏見があると思われた方はどうか実例をあげて指摘、正していただきたいのですが)アングロ=サクソン的感覚における他文化尊重というのは:
「どうせこの人たちの文化は自分には理解できるはずがないし、関係ない」
という突き放した世界観と往々にして表裏一体になっているように思うのです。
ということは、最初から「自分と相手が分かり合うこと」を放棄していることになります(むかしむかし日本にも:「あのとき同じ花をみて美しいと言ったふたりの心と心が・・・」って歌がありましたね。(^_^) )。
いま「アングロ=サクソン的」と書きましたが、日本的でもあるかもしれませんね・・・ みなさんはどう思われますか?
だって、たとえばわたしが人前で「ライってなんですか」という質問に答えて「アルジェリアのポップ」「イスラム圏の音楽」だと言うと、聞かない先から、わたしの前の人々の顔が「あ、例のくにゃくにゃした旋律の音楽ね(わたしが本当の意味で「好きになる」ことは絶対ありえない。ああいうのって興味ないし)」と思っている顔になるのがよく見えるのです。 (^_^;) だから実際の音を聞いてもらうとみな「キョトン」とするんです。ここがわたしには面白いんですよお。 (^_^)y ・・・
で、フランス的な価値観は、ちょっと違うと思います。よく言われることですが、フランス精神は普遍性を尊ぶ。ということは万人が理解し合える共通基盤というものがあるはずだし、それを持つべきだと考えるわけです。その普遍性とは多くの場合西洋的合理精神であり西洋言語による西洋的教養であったりして、その意味では問題があるのですが、言葉を変えると、異文化に属する相手を「化け物」扱いせず人間扱いする、ということでもあると思うのです。
サッカーなんかいい例ですね。サッカーはスポーツとして成立したのはイギリスであり紛れもなく西洋起源のものです(そもそもスポーツという概念自体西洋のものですね)。そのサッカーのワールドカップはイギリス人じゃなくてフランス人が主導して組織したものだというのは、偶然ではないのでしょう。サッカー場という場でサッカーのルールにのっとって行われる競技は、なに人でもできるし、なに人対なに人もできる、普遍的なものです。こういう普遍性はフランス精神にのっとったものだと思うのです。
例のスカーフ事件はフランス固有の価値観の押しつけというより、共通基盤を持ってほしいという要求のように思います。「カトリックもプロテスタントもユダヤも宗教的シンボルを『これみよがし』にしないという決まりを守っているのだから、イスラム教徒諸君もこれを守ってほしい。公共の空間では宗教をあらわにしないでほしい。それを守ってくれるなら、信教の自由は完全に、絶対的に保証する。それがフランスの国是なのだから」ということなのだと思うのですが。
(それにスカーフの話は、あれはあくまでも「タテマエ上の話」なんですよ。だってグルノーブル大学なんかで歩いてたら、あたりまえにスカーフつけているアラブ系の女学生を見るし、別にフランス人がそれを見て難癖をつける、なんてことはないのです。日本にはタテマエ上の議論しか伝わってこないので、ずいぶんフランスが抑圧国家みたいに見えちゃいますが、現実は全然逆だと思いますよ)
てことで、やっぱり分かりにくい話かもしれません。 (^_^;)
「アイデンティティの創出」の音楽的表現ということに関しては、たとえばジェラルドがプロデュースした傑作アルバム、フォーデルの Baida などをお聞きになっていただけると、わたしの言っている意味が少しお分かりいただけるかも、と思います。
もっともこういうCDはあんまり日本で手に入らないですけどね。日本では音楽業界は完全に資本主義、というか市場独占の論理でしか動きませんから。こんなことをやってるから他国のことが分からないのです。このへんが「日本の問題」です。
ニッポン大丈夫か? というセリフはこういうところで言ってみたいところですね。 (^_^;)y
コメント ( 5 ) | Trackback ( 0 )
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ほかの国出身の友人は簡単にできましたが。
でも、西アフリカでは、大勢のフランス人と簡単に友達になれました。
フランス国内では、共通項をもつフランス人が見つけにくいのか。
フランス人じゃないフランス人が多すぎて、フランス人にとってその中のひとりに私が埋没してしまったのか・・・
同じフランス人でも、国内と海外でオープンさがずいぶん違うなという感想を持ちました。
ところで、また間違った解釈をしてたら、どうしよう(汗)
投稿を書き直しました。
ライは大好き。
でも聞いていたのフランスにでる前のオランのもの。
シャアビーのDahmane EL Harachiも好きです。
(年がばれる)
ワールドミュージックとしてのライやBaidaも聞いてみますね!
自分のまわりの話だと、Tinariwenとか、外国人が大勢訪れるマリの砂漠のフェスティバルもワールドミュージックとしてのアイデンティティの創出があるのか、考えてみます。
コメント、TBありがとうございます。
またわたしの指摘(?)にすぐ対処していただいてありがとうございました。 m(_ _)m
そうですね。たしかにフランス人と友達になるのはなかなか難しいところがあります。これは否定できません。いろいろ理由は考えられますが・・・基本的には自分の関心事に夢中で、言葉も下手な外国人とつきあう気があまりない、ということではないでしょうかね・・・ 日本だったら外国人はまだ珍しい感じのところが多いですが、フランスは全然そんなことないですし。
Dahmane をご存知とは! かなりの通とお見受けしました。日本でも「ライ」の存在もあまり知られてませんが、「シャアビ」はさらに無名ですね。なんとかしたいと思っております。
今後ともよろしく。 (^_^)y
いつもお世話になっております。m(_ _)m
そうですね、内田先生のブログはまだあまり読んでおりませんが、こういう問題を扱う場合、理論的地平をこえたところで論者のフランス体験の違いが見解に相当な違いを生じさせるということもあるかもしれません。
なんかいまCyber Franch Cafe が閉鎖中なのは残念です。でもそれだけじっくり書かれた投稿が読めるものと期待して待っております。 (^_^)