豊田泰光さん


 前の木曜(2月2日)の日経新聞スポーツ欄に豊田泰光さんが「自ら学び、育ってこそプロ」というのを書いておられました。


 「新人をこき使いながら、ぬくぬくとやっている先輩たちを憎く思った。今ではパワーハラスメントに該当して、みんなクビが飛ぶだろう。だが、あれで人生を勝ち抜くための力が備わったのも確か。」
 「昔の突き放したやり方は随分乱暴だけれど、個人の才覚を自然と引き出していた。同時に、人間のトータルの器を測るテストになっていた。理不尽な関門とはいえ、そこをくぐり抜けた者は確かにレギュラーを取っていた」

 そうなんですよね。まったくね。
 なんでそこに感慨を覚えるかというと、いま卒業を前にした学生さんたちのことをちょっと思ったからですが・・・

 ちなみに、豊田さんという方はわたしが野球評論家で唯一評価する方です。読売巨人軍出身以外の方がトップレベルで活躍するのが事実上かなり制限されるというこの業界で、この特権的チームと関わった経験なくして味わいある評論を書き続けておられます。
 弱小球団ばかりでなく、西鉄ライオンズという短いながら頂点を極めた球団の主力選手でもいらっしゃるわけで、勝つとはどういうことか、負けるとはどういうことかを、よくご存知だと思います(偉そうなことを申しました)。
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コメント
 
 
 
若き日の通過儀礼 (ボン 大塚)
2012-02-04 13:47:30
記事の感慨という言葉から、学生運動の激しい夢の
時代に読んだ、ポール・ニザンのアデン・アラビア、
ジッドの地の糧、ランボーやロートレアモンの詩、
バタイユの呪われた部分を思い出しました。
不思議な気概や高揚感に包まれた気がしました。
今の学生さんなど若い世代の人も、このあたりの
書物を通過儀礼として読んでいるんでしょうか。
もう古臭いと手に取らないのかもしれないですが。
 
 
 
うわ、文学的ですね! (raidaisuki)
2012-02-05 20:29:32
ボン大塚さま

 コメントありがとうございます。

 古くさいもなにも、知らないのだと思いますよ。(と申し上げて、昨年の『まちかどライブラリー』のお話を引用しようと思ったんですが、あれれ、書いてなかったですか。それでは書いてみます)

 たしかにずいぶん世相が変わりましたし、金沢大学だけでなく大学というものがほぼすべて学生さんに至れり尽くせり(というと手前みそですが)のサービスをするようになってますから、通過儀礼のショックをどんどん緩和する方向に向かってます。

 これだと、国際的場での逆境に持ちこたえる力が弱くならないか、これが心配です。
 
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