このエントリーこのエントリーの続きです。ちょっとめんどくさい話です。 m(_ _)m
 今の気分のせいか、いつもと雰囲気の違うエントリーですみません。これから旅行とか、これから苦心して書いた論文が出るとかいうときはなぜか沈んだ気持ちになります。旅行の前は仕事にケリをつけるために力を使い果たすので疲労困憊からそうなるのでしょうか。そしてなんかそういうときはゲージュツとか詩とかに敏感になるような気がします・・・)

 この展覧会がいまいちわたしにとって乗れないものだったのは、その、なんというか、「自と他」という問題意識で、わたしにとっては「自と他」という枠では見れないようなものを見ようとしたからだったかな、と思うんです(でも考えているうちに、結局それが自と他の問題の本質だったということがわかる、という結末になるかもしれない、という感じもするわけですが)。
 だからかもしれないですけど、ひとつひとつの作品だけ取り出して頭に浮かべてみると、かなり面白かった気もしてくるのです。

 自と他、などという人間の根幹にかかわる問題への迫り方は、明らかに作家、作品によって違うわけなので、並んでいる作品ごとに観る方の頭を180度転換しないといけない。そんなことは無理のような気がするんですが。
 となると「美術館」という「ハコ」にそういうものを集結させることにいったいどういう意味があるんだろうかと考えますが、どうなんでしょう? こういうことは当然考えている人がおられると思いますけど。

 で、わたしにとって、今かんがえて面白かったと言えそうなのは「顔」の作品です。わたしはどうも、自と他の問題に、顔から入るようです(ご興味ありましたらこのエントリーもご笑覧ください)。

 渡辺克巳作品のように、新宿に集う人々、という大テーマがはっきりしている場合には、別に顔がこっちを向いていてもいなくても構わないです。撮影者のアイデンティティも実にはっきりしていて、観るものはそれを織り込み済みで見るわけですね。

 そういう大枠が取っ払われている場合には、より考えないといけません。

 「わたしいまめまいしたわ」(↑)での牛腸(ごちょう)茂雄という人の写真作品が後から気になってます。SELF AND OTHERSという作品名なので、もろに自と他、なんですけどね。やっぱりわたしにとっては「顔」の作品です。

 「こっちを向いた顔」というのは、まったく顔というものがとる常の形であって、あまりに自然なものなので、これになにかしら転調を加えることで意味がぶわっと生じてくる、と思います。

 牛腸作品は、何十枚もこちらを向いた人たちの写真を並べたものですが、最初の赤ん坊の写真、真ん中の眠る女性の写真、最後の子供たちが向こうの光の中に駆けていく写真だけ、人物がこっちを向いていないです。
 もっともそのことに注意を喚起する解説を会場で読んでしまったわけなので、ほんとはゆっくり見ていってそれを自分で気づくべきところなのかもしれませんが・・・

 最初に赤ん坊がいるのだもの、これは明らかに人間の一生の隠喩でしょうね。
 ならば最後の写真は死を意味するはず。

 ポイントはまんなかの眠る女性の写真のように思います。ぬいぐるみをかかえた女性が寝てますが、カーテンもない異様に光の入る部屋の、大きな窓際にベッドが置いてあります。普通こんなところで寝てられないような・・・
 これは、作者がわざわざこの場所にベッドを置き、女性に寝てもらって、撮ったのでしょうね。
 この女性も、片腕を垂らしているところなんか西洋図像学の死のサイン(ピエタとか『マラーの死』とか)ですから、やっぱり死を示してるんでしょうか。

 死って、自の終わりですね。

 うーん私の考えはここで止まりますが、なんか気になりますね・・・
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