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このエントリーのコメントから続きます)

 ところで土、トルコ語は阿中露韓西仏葡の次くらいに来るでしょう。

 実は阿より先に土の自主講座作ろうとしているところです。

 日本語と構造が似ているし表記はアルファベットだし、やりやすい。ウズベク語など、中央アジアの言語と類縁関係にあって(というか互いに方言関係と言っていいのかな、と思います。言語学的にはどうだか正確には知りませんが)かなり広がりがあるし、日本でこの方面への関心を高めるきっかけになる。他にもこれを振興することによるメリットがあるように思ってます。

 だから今のところ私としては日本で教育言語として考慮すべきものとしてまず

 阿中露韓独西仏葡土+英語

を考えてしまいます(順不同)。アジア系の言語がもっと要るかもしれませんが、ちょっとわたしにはよく分かりません。イタリア語はどうした、とかそりゃあいろいろ文句は出てくるでしょうが、わたし的にはいまはこのくらいです。
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不公平


(前のエントリーから続きます)

 ランゲルハンスを上方に仰ぎ見るのはいいですが彼とて、帝国主義競争には乗り遅れたドイツの人ではあるものの欧米人であることには変わりない。
 欧米文化圏の人が「名誉」を独占してしまうのはいかがなものか、という問題はどうしても残ります。「横」の問題です。

 小柴昌俊氏がノーベル賞を受賞されたときに、アルジェリア人の友達――アルジェリア人の科学研究者です――が、「小柴先生はもっと早くノーベル賞を取っていてしかるべき人なのに、こんな高齢になるまで待たされたというのは、やはり欧米偏重傾向をノーベル賞がもっているからだ」と言ったのを思い出します。日本は北里柴三郎の例とかミスター千円札野口英世の例とか、まあ不満を持てる材料には事欠かない。たぶんアルジェリア人より科学界における不公平被害の例は多い・・・
 『星の王子さま』にもアジアの科学者が差別うける話がありました。あれは日本の科学者がモデルという話も聞いたことがあります。

 あのときはわたしは、なんて言ったらいいのかなあ、と思っただけでしたが――わたし理系の話に詳しくはないし――、でも今ならこんなふうにいうかもしれないです:

 まあ、そう言いなさんな。
 今のノーベル賞が欧米人を贔屓しているというのは、そのとおりかもしれない。でもそもそも「最初に発見した人」には無数の知られざる発見者、発明者の影が、魂がまとわりついているものではないか。
 ランゲルハンス島だって、ひょっとしたら昔のアラブの学者が発見したことがあったかもしれないけど、近代医学の「この」流れの中ではランゲルハンスが最初の人だったわけだからこの「島」は彼の名をもって呼ばれるわけだ。彼の名は、そういう知られざる人々の「代表者」名ということではないか。
 欧米人一般がそういう認識をもってくれるようになればいいんだけどね。

 小柴さんは、とにかく存命のうちに受賞できた。ノーベルとて、むちゃくちゃな不公平というのは現代ではしようがないはず。

 ノーベル賞がこれからも存続するなら――ノーベル財団が予期せぬ株の暴落とかで大損こいたらそれも分からないわけだけど――、世界の趨勢にのって受賞の不平等はもっともっとなくなっていくだろう。またなくなるように努力しなければならない。競争はできるだけフェアな――このfairというのもイギリスつまり帝国主義の筆頭の国起源の概念なんだけど――ものとなるだろうし、またフェアなものにしなければならない。
 そうなれば世界のあり方も変わるだろう。
 かのIT界の巨人スティーヴ・ジョブズだってDNAはアラブ人ではないか。人間のDNAに貴賎はない。
 そのうちヨーロッパ人も日本人も、アラブ人も中国人も、適切な確率でノーベル取るようになる時代が来ると思う。というか、来させなければならない。
 そのために必要なのは業績の積み重ねと対話ではないか。

 というようなことは、たぶん日本人しか言えない。


 どうもこのところ話がデカすぎて恐縮です。



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上と横



 数日前レスリングがオリンピック種目からはずされそうだというニュースが流れて、日本には衝撃が走りました。

 ランゲルハンス(今日17日もまた日経最終面のテルモさん広告に出てました。その真上では「ニッポンのカルノー」大村益次郎が的矢六兵衛に貴殿をおフランスに送りたいとかなんとか言ってるところです)の闘いの場は「人体」で、これは人間の意志で変更できるものではない。「進化」するにしたって1000年、2000年くらいでは目立った変化はないはず。あの「島」はずっとずーっと、娑婆世界であの「島」を「メインの場で」最初に発見したこのドイツの学究の名をもって呼ばれるはず。日本人名でもアラブ人名でもない、というところが実は大問題なのですが・・・とにかく彼の業績は永久に称えられる。

 しかしオリンピックとなるとそうはいかない。人が決めるものですから、人が変えうる。ときに非常に恣意的な変更がなされうる。

 そういう場では、上ばかり見ていると、上を見たことにならないことがあるのではないでしょうか。

 土俵自体を消されてしまっては、上も下もなくなってしまいますから。

 (ランゲルハンスの早世も、ウィキペディアを見る限り、どうも仕事のし過ぎが原因のような印象を受けますね。ある種、「上を見過ぎ」のところがあったのかもしれません。こういう人にはもっと長生きをしてもらってさらなる発見とか後進の育成とか、いろいろやってもらった方がよかったかもしれません・・・ ただそれも長い時間の流れの中で、誰か他の人がその後にやることになったはず)


 レスリングが本当に種目からはずれてしまったら、関係者の方々、とくに日夜努力を重ねておられる選手の方々は本当にかわいそうで、その気持ちは察するにあまりあります。

 日経2月14日「春秋」欄では:

「今日の五輪にふさわしいスポーツを決めるのは、残念ながら理想の五輪を思い描く哲学者ではなく、種々雑多な思惑がからまりあう国際舞台の力学なのだろう」

と書いてます。

 新聞記者の方々は、たぶんIOC委員の人たちの実像を思い浮かべながら書いているのかなと思います。IOC委員って、選挙で選ばれるわけでもないのに、現代世界で実質的に非常に強大な力をもっている人たちですね・・・

 ただ、「種々雑多な思惑」があるだけと見えるところに、よく見れば三分の理はないだろうか、とは思います。
 三分もないかもしれませんけど・・・
 それでもとにかく「横」にいる人とよく話をするしかないと思うのです。
 相手がどんなひどい人でも、対話を拒否してむしろ自分の側のコミュニケーション意思のなさを誇る、という選択肢はありえないはずですから。


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ランゲルハンス島


(前のエントリーから続きます。こうやって書き終えてみると、後半のほうでえらく話が壮大になってしまっていて気恥ずかしいですが、あえてそのまま残します)

 「ランゲルハンス島」って膵臓の中に一個だけぽよんと浮かんでるのかと思ってましたが・・・英語版ウィキペディアみて、一個どころか100万個もあることを知りました。フランス語版では75万から150万個と書いてあります。ウィキペディアは偉大ですね・・・
 いしいひさいちの漫画にでてきた、ランゲルハンス島への島流しを宣告された罪人はお奉行さんに「どのランゲルハンス島ですか」ってつっこみ返せばよかったですね。

 このところ日経の最終面の下のところに、テルモという医療機器メーカーさんが広告出してますね。
 そこに、昔の医学者たちのエピソード、偉大な発見物語を書いてくれてます。

 一昨日11日に、ランゲルハンスが登場しました。

 この名前、いしいひさいちさんが使いたくなるほどなのは、ランゲルハンス「島」なんて、島みたいなものが人間の体の中にある・・・、というのが異様な、不思議な印象を与えるからでしょう。


 それでテルモさんの広告の中で、ランゲルハンスの名をこの「もの」につけたのは「フランスの解剖学者」だというのを知りました。こっちはウィキにも名前が出てない・・・  さて、このフランス人(たぶん偉い学者だと思う)も、そうですね、ピエール・フージエ(グナワ・ディフュージョンで帽子の房をくるくる回しながらギター弾いてるおっちゃん)がアマジーグ・カテブをずっと支え続けてるみたいに、歴史的に意味のある業績を成し遂げた人にリスペクトと助力を捧げたのかな、と思うんです。

 しかしPierre Feugierって、ほんとおしゃべりな野郎で(Facebookフレンドをあんまりからかってはいけませんが)そんなに偉大なことやってる人には全然みえないです。たぶん、偉大じゃないです。(汗) そういうもんです。非常に軽いノリで、偉大な他人に献身的なサポートをやる。フランス人ってそういうところがある。(フランスニュースダイジェストに、フランスに長くいる日本の人のインタビューのコーナーがありましたが、今でもやってるかな? そこで誰だったかが「フランス人のいいところ」として「深刻になりすぎないこと」というのをあげてました。これ、当たってる!と思いました。往々にして日本人は良くも悪くもオハナシを作って練り上げて反芻して重く重くしてしまう)


 「この」世界、つまり猿の惑星みたいになったあとのじゃなくて、今の、ひとつながり、ワンピースの「これ」(「これ」って指す名詞がないですね。パラレルワールドみたいな発想は既にあるんだから、そろそろ名前をつけてもいいかな。わたしに思いつくのは「シャバ(娑婆)」くらいですが・・・)が続く限り、「この」世界の中では、人体の中のこの部位はずっとずーっとLangerhansというドイツ人の名をもって呼ばれることになるはずです。


 おもえばこの人のころのドイツというのは、たしかに世界をリードしていました。科学の発展の主体を具現していたようなところがあります。
 ヘーゲル弁証法の運動がどこまでもどこまでも、絶対知にまで上りつめていく勢いでした。
 1860年代末に「開国」した日本は、まずそういうドイツに遭遇して、魅了されたのでしょうね。
 金子光晴でしたっけ、その頃日本からフランスに行く人といえば「すけべえ」くらいでしかなかった、というようなことを言っていたのは。
 たしかにその時代はそうだったと思います。
 フランス人さえ、必死にドイツの背中を追っていた。

 でも21世紀の今は「科学」や「進歩」自体が疑わしいものとなった時代です。
 水村美苗はデリダをもってフランスの知的スターの最後の人とみなしていますが、これは言い換えればフランス、ドイツなどを合わせた、ヘーゲルより始まる長い思想の流れが、ヨーロッパの主流の知的伝統が、終わったとは言わないまでも「一段落ついた」ということなのだと思います。

 ちなみにわたしは、放射性廃棄物の最終的処理法が案出されない限り「絶対知」というものが感覚的に信じられない気がします。


 この素晴らしいドイツ人、ランゲルハンスは不幸なことに若くして亡くなりました。亡くなったのはポルトガル領の島です。そしてイギリス人用の墓地に葬られるているのですね(もっとも彼の奥さんが名前からしてイギリス人みたいですからそれは当然なのかもしれませんが)。

 ドイツはけっしてスペイン、ポルトガルのような、またイギリス、フランスのような植民地帝国にはならなかった。周りをいろんな民族・国に囲まれていて、アラブ人のような大征服も、ロシアのような膨張政策もできようがなかった。

 それでドイツは「精神性」を磨いたのだと思いますが、それがかえって歴史のいたずらでナチスの温床にもなってしまった。そのことで今もさんざんいろいろ言われ続けている。

 EUはドイツでもっているのが明らかなのに、そのEUのために限りなく譲歩、犠牲を迫られる。

 植民地大国ではなかったから言語は広まっておらず、英仏西露中阿に通用度で遅れをとるドイツ語は、世界的に見て学ぶ人が多くない。

 踏んだり蹴ったりというか、憤懣やるかたないというか、まことに切ないと思います。

 しかしそれでも、ドイツ人はこらえて欲しい。
 EUを見捨てることはせず、その盟主となることもあえて望まないでほしい。
 ドイツの立場からそれをやると「みんなドイツのようになりなさい」という尊大な上から目線になってしまうから。
 ひるがえって日本の教育界でも、ヘーゲルからの流れが「一段落ついた」からには、大学の第二外国語の筆頭という地位にもドイツ語はこだわらず、これから育つべき言語が育つのを見守ってほしいです。(阿中露韓西仏独葡くらいが大学教育で同ランクになるというのがわたくしの理想です)
 いま日本の問題は、日本の立場から「みんな日本のようになりなさい」という尊大な上から目線にならずに阿中露西仏葡語などを話す広大な地域に広がる新興国群と人間的につきあうことなので。

 ドイツが「ヨーロッパ」に背を向けるべきでないということは、ちょうどアルジェリアが「西洋」に背を向けるべきでないのと究極的に同じ趣旨のことのように、わたくしには思えます。 

 日本だってアメリカに対してkamikaze(世界の言語の中にはいった日本語)をやっていたころは西洋に背を向けていたはずです。
 スペイン人だってナポレオンに対してguerilla(世界の言語の中にはいったスペイン語)をやっていたころは西洋に背を向けていたはずです。

 みなそれなりに苦い記憶を持つのです。(アメリカとイギリスだけちょっと違うかもしれないけど)

 アルジェリアの反発は十分理解したうえで、いつかはそれが彼らにとって苦い(過去の)記憶となるところまで親身に見守る姿勢を日本人は、日本人こそとりうると思うのです。
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「アルジェリアを理解しましょう(6)」について


(前のエントリーから続きます)

アルジェリアを理解しましょう(6)におけるわたくしの発言について釈明を求める方がおられましたので、ここにわたくしの立場を少し詳しく述べたいと思います。

問題にされているのは


「依然としてアルジェリア政府は情報出してない。はっはっは。

 痛快ではないですか。

 英仏を始めヨーロッパのお歴々、アメリカさま、ニッポンさまの心配をよそに、平然と自分たちの方針を貫きつづけ、情報公開など知ったことかというこの態度。

 というのは半分冗談ですが、ある程度本気でもあります。」

という箇所です。

 このエントリーはfacebookでもっていつもより広く伝播している。facebookでは学生さんもみている。
 その場でこの言葉は不適切ではないか、というご批判だと思います。



 わたくしとしては、むしろ学生さんもみているからこそ、いつもより強めに言ってしまった感じです。
 ただそれについて釈明をする気はありません。

 わたくしとしては、学生さんにはこういう意識もアルジェリア人としては、というか植民地化された側の人間の意識としては「ある程度」ありうることだ、そしてそういう意識は、――たしかに粕谷は変人だけど――日本人にも理解する人がたしかにいる、ということを見てもらいたかったのです。

 注意しておきますが、アルジェリア人全員がこういう意識をもっているはずと言っているわけではないですよ。だいたいアルジェリア人は自国の政府にそういい感情は持っていない――場合が多いです。
 それから、そういう意識をもっているといえる人でも頭の中100%完全にそういう反発意識で占められているだろうと言っているわけでもないです。アルジェリア人の普通の人は実に常識的です。

 そしてわたくしとしては、世界のいろいろな動きが西洋近代の大筋に、つまり民主主義、人権、自由その他もろもろの近代的価値観をもって安定する世界にできるだけ平和裡に、そしてできるだけすべての人が平等になる形で収束していくことを望んでいます。
 なにもアルジェリアやその他これから伸びてくる国、地域が西洋への恨みや復讐意識に燃えることで存在感を示すことは全く望んでおりません。

 だけれどもある程度「反発意識」が「正当なもの」として存在することだけは、理解しておかねばなりません。
 そもそもこれがなかったらアルジェリアは独立などできていなかったでしょうから。

 こういう微妙なところを表わしたかったので、たしかにあまりうまい言い方とは言えませんが「半分冗談ですが、ある程度本気」と申し上げたのです。
 「半分」は確かに言いすぎかもしれません。ならば「ほとんど冗談ですが、ある程度本気」とさせていただけますか?

 もしこの意識が「全く」わからない学生さんがいたら(わたくしは授業で学生さんの意見をたくさん書いてもらいます。そういうのを見ると、そういう植民地化「された」側の人間の心が全く理解できないだろうなという学生さんは、確かにいそうに思います)、それはちょっと問題だと思うのです。
 そういう学生さんが会社に入って、アルジェリアに派遣されることになったら、やはりこの国自体を理解できなくて、本人にとっても、またアルジェリアにとっても不幸なだけの赴任になるでしょう。

 それでは、いけないのではないでしょうか。

 しっかり「異文化理解」の仕方をよく勉強してもらって、積極的意義のある赴任にしてほしいと思います。

 こういうのができれば、それがほんとうの「異文化理解」の授業だと思います。
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いま問題はこういうことだと思います



 金沢大学でアラビア語教育やりましょうやりましょうって周囲にぎゃーぎゃー言ってるんですが、一向に機運はもりあがりません。
 まあアルジェリア・イナメナス事件の直後では当然かもしれません。

 いまアラブ圏文化というのは文系より理系にとって深く関わりのあるものになっていると思います。
 実際、今回の事件で亡くなられた方はみな理系の方なのですから。

 理系の先生は「(テロの危険のありそうなところに)行きたい(と言っている)学生などいない」とおっしゃいます。これは当りまえです。
 現時点ではアルジェリアは完全に「テロの危険のありそうなところ」であり、この国に「行かされる」方は自らを人身御供みたいなものにしか感じられないかなと思います。もう報道でご存知でしょうけど、アルジェリアはテロリストにこれまで石油や天然ガス施設には指一本触れさせていなかったのですが。

 だからアラビア語教育振興といっても、
 「アラビア語とか、そんなものなまじ知ってたりしたら、会社に入ってからこの方面に適正有りとみなされて、危険地域に送られてしまうぞ。やめとけ」
ということになってしまっているかなあ、と思います。 
 これも現時点では、まったく無理もない話だと思います。
 
 ただそれでは、端的に言って人間としての連帯の情がないことになるということと、日本国民がみんなそう思ってしまって腰が引けてしまうと日本国が大困りになるということがあります。人を外に送るのに全体的にブレーキがかかってしまうのでは。

 資源開発だけではないですよ。現地に人が送りにくいのでは、マーケットに関してもアフリカ、アラブは韓国や中国が優勢な地域にどんどんなっていってしまうでしょう。

 そんな経済的に完全に活力を失った日本しか若い人たちに残せないというのでは、ちょっと情けなすぎるではありませんか。
 なんとかしましょう。

 すでに韓国には「アルジェリアにとっては日本より、植民地化『された』経験を共有する韓国の方がモデルになる」という論拠を使える強みがあるようにみえます。オラン大学経済学教授の口からそういう意見が出るくらいです。
 「そうだよな、アルジェリアでも、日本は韓国にはかなわないよな」と、つい今の日本の人は考えてあきらめてしまうかもしれないです。

 わたしもオランでの議論のときには説得力のある言葉がなかったです。
 でも、よく考えてみて、いまはそうでもないと思ってます。この論拠は切り返し可能だと思ってます。
 つまり・・・うまく真意を理解していただけるか自信はないのですが・・・
 相手の「文化」を、こちらと同等の「値打ち」をもつ文化であることを理解して相対することができれば、切り返し可能だと思うのです。

 ここでもまた念を押しますが:別にわたしは日本は経済面でも常に韓国を負かしてしまわなければならない、と言いたいわけではないです。
 お互いに自ら切磋琢磨しながらフェアな競争、世界に益をもたらすような競争ができるようになろう、と言いたいのです。
 確かに言うはやすし、実現性は?ですけど、それでも何世紀かかってもそこを志向すべきです。
 
 だからいまやるべきは、やっぱり世界の文化を知ることです。
 アラブ圏なら、アラブの言語をはじめとする文化です。

 全然話変わりますが(変わらないかな)、2012年前期のわたしのライ・ゼミは受講生21名でした。そのうち14名が理科系の学生さんだったですよ。まあもっともこの時間枠(前期水曜5限)というところが彼らには空いていて取りやすかったんでしょうけどね。結局受講生がいるかいないかに関しては授業の内容よりカリキュラムの組まれ方の方が大きな要因になっていると思います。

 日本はどういうスタンスをとっていくべきか?
 わたしはこんなふうに思います。

 国は国で危機管理等、なすべきことはしっかりやる。

 それとともに国民の側も「このような文化を育んだ人々の国ならば、イナメナスのようなことは今後はないものと信じ、日本の国、かの国のサポートを信頼して、働きに行きましょう。両国のために尽くしましょう」という気持ちでこたえられるような心の人を育て、またそういう心を持つ人々を他の人は心配はするけれどもその心がけや善しとして送り出す心をもつようにする。

 それにわたしがいま教えている学生さんたちが社会で主力として働きだすまで、まだかなり時間があります。彼らが働き盛りのころになれば、わたしは今のような形のイスラム原理主義テロは下火になっているはずだと思います。
 そのころに、日本とアラブに非常に厚みのある文化交流の歴史、蓄積が出来上がっていれば、世界に対して確かな貢献を行った日本はそのことを誇りにしながら、友好的経済交流も続けていくことが期待できるではありませんか。
 


 どうでしょう。楽観すぎるでしょうか?

 「楽観的すぎるわい、ばか。無責任野郎」という声が飛んできそうだなあ・・・
 
 でもそれじゃ、どうしたらいいだろう?・・・


[追記] さっき学生さんがひとりわたしの部屋へ「アラビア語ぜひやりたい」って言いに来たんですよ。
    そのこころがけやよし。
    そりゃ、始めてみれば難しすぎたり、いろんな困難があったりして挫折するかもしれないけど。
    そんなこと、いいじゃないですか。
    これが若者ってものです。
    大人はこの現代の日本の若者のパワー、なんとか活かす方向に持っていきたいじゃないですか。
                                   2013.2.12 16:30
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モハメド・アミンさんが国民的英雄で、日揮の犠牲者は名前も隠されるというのは


 モハメド・アミンさん――って、同名のライ歌手(歌手は"Lamine"じゃないか、とクレームが来そうですが、いやこれで同名なんですよ。この辺がアラビア語の難しいところで)がいるんで、いっそう親しみを覚えてしまいますね(汗)――はアルジェリアの国民的英雄となっているので、もう実名報道になんの支障もないでしょう。

 朝日新聞さんたちは、彼のことをじゃんじゃん報道すればいいではないですか。
 なぜしないんですか?

 それに対して日揮の――日本の?――犠牲者の方は、ほんとなら国民的英雄にしてもらってもいい方々なのに、そういう状況にはならないですね。
 どうしてそういう話が起こらないんでしょうか?

 両者のコントラストは目が眩むばかりです。

 わたしが変なこと言っているように聞こえるのでしたら、それはやっぱり日本社会の方にどっかおかしなところがあるように思いますよー。
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ネッダール氏~金沢の一日~


 ネッダール先生のインタビューが延期になっちゃったので、少し先生の金沢滞在の思い出(というほど昔のことではないですが)を書きます。

 まあ何はともあれ兼六園。フランス語版リーフレットをもって中へ。

 定番琴柱灯篭(ことじどうろう。ほんとはこの字じゃないんですよね。ほんと日本語って面倒)で記念撮影。

 ・・・兼六園にはこれもあるんですね。
 日本武尊像・明治記念の標・石川県戦死尽忠碑。これのことは、この小さなリーフレットには書いてないです。日本語版にも、英語版にも(見てないですけどおそらく中国語、韓国語版にも)。

 どっかの観光団のガイドさんは「さんすくみ」の話しかしてなかったですけどね。今の日本では「内乱」などというのは、触れると趣味の悪い話なのですか。

 面倒なのでわたしもネッダールさんにたいしたことは言わなかったですけどね。
 そもそも、内乱などというのは、どこの国でもよくあることです。


 この記念碑は石川県人用です。こういうのは石川県もどこも、敵も味方も、亡くなった方すべての霊を弔えればいいんですけどね・・・

 西南戦争のときには、それでも敵味方正々堂々と戦ったと言えます。
 
 テロリストの戦いは、そうとは言えない。むごたらしく、なんの救いもない、ただ自分たちを誇示するだけの、ただの殺戮。国民が10万人死んだと言われる「内戦」。

 90年代のアルジェリア当局は、それに掃討作戦で対処していました。
 「掃討」って、結局テロリストを皆殺しにすることです。
 アルジェリア人って、粘る時には驚異的に粘るので、こうしか仕方がなかったんです。
 最終的なテロの終息はブーテフリカ大統領の「国民和解」政策によるテロリストの大量投降を待たねばなりませんでしたが、最初からそれが可能だったかというと、それは怪しいです・・・

 彼らの粘りをもっと生産的な方向に向けられれば。
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提案:アラビア語って「阿」って書きませんか?


 英・仏・西・露・中・アラビアと並べると、なんだかアラビア語にも「漢字」が欲しい気がしますね。

 建前上は「亜」なんだと思いますが、これじゃ「アジア」と同じで紛らわしくてどうしようもない。

 「刺」とか「拉」とかじゃ、なんだかイメージ悪い。

 中国語ではアラビアは「阿」で表すそうですから、この漢字を採用してはどうでしょう。

 国連の公用語は英仏西露中阿。



 アラビア語に親しみを持つのはこんなところからだと思います。

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あたまいい/あたまわるい


 前のエントリーから続きなんですが・・・

 かなり一般的な話で、わたしはこんなふうに考えるんですが、みなさんはどうでしょうか、お尋ねしてみたいんです。

 あたまのいい人は、「あたまは悪いより良い方が、問題なくよいことだ」とどうしても思ってしまう。何の疑いもない。論理的に考えて、考え抜かれた堅牢な思想は、適当に考えたいいかげんな思想より問題なく良い、ほかの考え方があるなんて思っても見ない。

 なんだ、当たり前ではないか、というところですが、それがそうとも言えない。
 知性が劣る、教育が不十分であるとみなされている人々が「かしこい」人々に牙を剥いて襲いかかってくる状況が現出したら・・・

 第一次大戦終結の土壇場、ドイツのかしこいひとたちは、まだドイツの国土に敵が全く侵入していなかった段階で、「これこれこうだから、ゆえにドイツは負けなのであります」とやってしまった。
 そのあと、戦争は負けるわ、フランスは過酷な賠償金取立てをやってくるわ、大恐慌はくるわ、もうドイツ国民はさんざんな目にあいました。
 あたまよくないし、教育もないし、と自分で思っていたひとたちも、なんだ、かしこいひとにまかしておけば間違いないってのは思い違いだった、あのような連中の「賢しら」がいちばん悪い、って思ったんだと思います。

 あとはご存知の通りの歴史の展開で、ヒトラーはとにかく最終的に、上から見ても下から見ても負け、という状況を演出したんでしょう。たしかに話はある意味、これですっきりした。


 イスラム圏の、あたまよくないし、教育もないと自分で思っている若者たち。そこそこの人生が送れれば別に妙なことはしたりしなかっただろうに。
 住むところもないし、仕事もない。結婚することができない。人生になんのチャンスもない。
 というような社会状況が、イスラム圏の「かしこいひとたち」が賢しらをして結局イスラムを破滅においやっていることから生まれた悪だ、と絶望した若者がいったん思ってしまったなら・・・

 こういう場合、猛り狂う「あたま良くないと自分で思っている人たち」に、賢い人が何を言っても無駄です。「そんなの、賢しらをする連中が適当にごまかしてるだけだ」と思うだけだから。
 こうなると、かしこい人たちは呆然自失。どうしていいかさっぱりわからなくなる・・・
 知性が通用しない! そんなばかな・・・って。

 長い目でみれば、多くの人の心と生活を安定させるような経済状況が到来すれば、テロはおさまるでしょう。
 でもそれまでどうするか。どうやってそういう安定にもっていくか。


 日本はその安定が早く来るように、貢献しなければならないと思います。

 ・・・中国がそれをやってくれるなら、それでもいいんですけど。

 ただ、なんべんも言いますが、中国にもできないことがあると思うんです。


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