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「1000ヤードの凝視」クェゼリンからパラオまで 〜スミソニアン航空宇宙博物館「空母の戦争」

2021-04-05 | 歴史

スミソニアン博物館の「空母戦の歴史」は、いよいよ
日本が決定的に立ち直れなくなるフィリピンでの海戦までやってきました。

まずは、レイテ沖海戦に先立ち、機動部隊が配置されました。

 

■第58機動部隊

ちょっとわかりにくいのですが、米海軍の58機動部隊とは、
高速機動部隊(Fast Carrier Task Force)が第5艦隊に配属された時の名称で、
これが第3艦隊に配属されると38機動部隊という名前になります。
58TFと38TFは同一部隊であることをご了承ください。

 

さて、1943年12月と翌1月、ギルバート諸島から出撃した部隊が
マーシャル諸島の日本軍に爆撃を行なっている間、高速機動隊は休暇を取り、
その間に新たな指揮官が再配置されることになりました。

飛行士としてパイオニアであったマーク・ミッチャー海軍少将は、
海軍の高速空母機動部隊の指揮官に任命されます。

ミッチャーは空母12隻と艦載機700機あまり、そして戦艦、護衛艦合わせて
数十隻の軍艦をTF58に配備しました。

そして次の6ヶ月間、TF58は中央太平洋においてマーシャル諸島の侵攻支援、
トラック島の日本軍の拠点を襲撃し、パラオとマリアナ諸島に施設を設置しました。

1944年までに史上最大の空母先頭となったフィリピン海戦の舞台が整ったのです。

TF58がいかにこの期間太平洋の隅々まで侵攻し尽くしたかということを
一眼でわかるように表した行動図です。
現地のマップに、わかりやすいように日本語を振っておきました。

ここに記したどの島の名前も、太平洋の戦争について知識をお持ちなら
誰でも聞いたことのある名前ばかりでしょう。

TF58の空母だけ名前を挙げておくと、

第1機動部隊 エンタープライズ ヨークタウン ベローウッド

第2機動部隊 エセックス イントレピッド キャボット

第3機動部隊 バンカーヒル モンタレー カウペンス

第4機動部隊 サラトガ プリンストン ラングレー

 

戦艦:「ドレッドノート」の新しい役割

第二次世界大戦中、太平洋の戦艦対戦艦という伝統的な海戦はほとんど行われませんでした。
その代わりに、戦艦はTF58に統合されて、その必要に応じ、
夜間の水上行動中に起こる敵の空襲に対する防御という形の支援を提供しました。

より速度の遅い戦前の戦艦の多くは、太平洋において、海兵隊と陸軍が行う
水陸両用作戦という「本質的ではあるが魅力的とはいえない任務」で使用されました。

ドレッドノート(dreadnought, dreadnaught)とは「怖れ知らずの」という意味で、
同名のイギリス海軍の戦艦の登場以来、「超弩級戦艦」の階級名となった言葉です。

大艦巨砲主義の時代は終わりを告げ、時代は航空戦に移っていき、
「戦艦」はその役割を時代に合わせて変えていった、ということをいっています。

 

第58機動部隊は陸地攻撃に戦艦の艦砲射撃を使ったりしていますし、
この説明によると、水陸両用作戦は戦艦の「本質」だそうですから、
決して役立たずと言っているわけではありませんが、要するにこの時代、
空母による航空戦を制するものが勝利を制していた、ということなのです。

それならこの時代に大枚叩いてあの弩級戦艦を作っていた日本って何だったの、
ということになりますが・・・・それについては何もいえねえ(笑)


ところでこの写真の戦艦は、

USS 「ニュージャージー」 New Jersey

で、第二次世界大戦中アメリカ海軍に存在した戦艦のうち最も大きく、
最も速かった「アイオワ」級の4隻のうちの1隻です。

最大時速61キロを誇る「ニュージャージー」は157門の砲と各種銃を備え、
対空防御にも万全を期していました。
加えて水上と陸地攻撃のための9門の16インチ主砲を装備していました。

「ニュージャージー」の「War Log」としてアルバムの1ページが貼ってありました。
まずこれが、主砲を「レッツゴー」させているところです。

おそらく艦橋から見た発砲の様子。

20ミリ機銃に配置される乗員と、40ミリの装填風景。

偵察用の水上機が発進したところです。

顎に手を当ててイメージフォト風ポーズをとるのは

マーク「ピート」ミッチャー海軍中将
Vice ADM. Marc A.’Pete' Mitsher USN

彼が第58機動部隊の指揮官に任命されたのは1944年1月のことです。
彼はアメリカ海軍航空に自らが得た四半世紀の経験を全てを注ぎ込みました。

ミッチャーは海軍の最も中心的な空母パイロットの一人であり、
パイオニアとして空母運用のドクトリンとその方法論について開発、
研究、そして整備を行い、実際にはドーリットル隊が行なった東京空襲
そしてミッドウェイ海戦では「ホーネット」を指揮したという、
いわば「空母の育ての親」の一人であったことは間違いありません。

ところで今名前をタイプしていてふと思ったのですが、この名前は
「ミッチャー」というより「ミットシャー」「ミッシャー」
の方が発音としては正しいように思えます。
ドイツ系移民なので、彼の先祖がドイツでは「ミッシャー」だったのは間違いありません。

当ブログではミッチャーについて、

「戦う愚か者」

というタイトルでその海軍人生をまとめたことがあります。
ねっからの「空母野郎」で、決して名声を望まず、戦後も空母航空の存続に尽くしました。

侵略へのプレリュード:クェゼリン

全部で150機以上の日本軍機が破壊されたとされる、第58機動部隊の
三日間にわたる攻撃ののち、1944年2月1日、米海軍の軍艦は
クェゼリン侵攻を支援するために敵の軍事施設を爆撃しようとしていました。

アメリカ軍の作戦名は「フリントロック(火打石)作戦」です。

防衛態勢が整っていなかった日本軍は短期間の戦闘で全滅し、   
委任統治領とはいえ、アメリカにとっては最初の日本領土の占領となりました。

余談ですが、このクェゼリン島には朝香宮家出身の皇族軍人、
侯爵 音羽正彦大尉が勤務しており、この戦闘で30歳で戦死しています。

Tadahiko ou.jpg

当初音羽大尉は大鳥島(マーカス)にいたのですが、「危険だから」と
わざわざ高松宮親王がクェゼリンに転勤させていました。

これは、アメリカ軍がクェゼリンを急襲することを
誰ひとり予測していなかったということでもあります。

それだけに米軍の攻撃は文字通り火打石のような不意打ちとなったのでした。

ここでもう一度最初の地図を見てください。
クェゼリンはTF58進撃の「プレリュード」であったことがよくわかりますね。

そしてこの図でいくと、次はエニウェトクということになります。

東と西の間から上陸:エニウェトク

クェゼリン侵攻を成功させ、米軍は次にエニウェトクの確保を狙いました。
その理由は、ここは日本の本土まで563Km近くにあるからです。

エニウェトクの原住民であるミクロネシア人は彼らの独特の長いカヌーで
島の西から東に向かいました。
それはすぐに東から西へ侵攻する米軍の重要なステージングポイントになるでしょう。

Eniwetok landing 04.jpg

エニウェトクに上陸する米軍兵士。
水は綺麗だし暖かそうだし、ノルマンディよりはなんだか見た目悲壮感がないですが、
当事者たちにとってそんなことは全く関係ありません。

上陸したのは海兵隊兵士6,000名弱、陸軍兵士約4500名、
これを迎え撃つ日本側の兵力は総3,560名というものでした。

飛び石のようにエニウェトクに侵攻した理由は、ここが
日本軍が日本本土からマーシャル諸島へ航空兵力を送り込む中継点であったからで、
目的は飛行場および泊地を確保してトラック島とマリアナを落とすことでした。

アメリカ軍における作戦名は「キャッチポール作戦」といいます。

「サラトガ」「プリンストン」を含む第4機動部隊の水上艦が
沖から、まず艦砲射撃を行い、海兵連隊約3,500名上陸。

戦車を先頭に進撃した米軍に対し、日本の守備隊は猛烈に抵抗を続け、
最終的な占領まで三日もかかってしまいました。

日本軍は全滅しましたが、アメリカ軍も死者行方不明者195名、
負傷者521名と、無事だった数の方が少ないという結果になりました。

この戦闘が米兵にもたらしたストレスは過酷なものでした。

写真はエニウェトクでの2日にわたる絶え間ない戦闘を経て
戦闘ストレスを発症した19歳の海兵隊員セオドア・ジェームズ・ミラー1等兵です。

彼の虚ろな眼差しは、

Thousand-yard stare(1000ヤードの凝視)

と名付けられるものです。
クリックしていただくと、それらの検索画像が見られます。

1000ヤードの凝視(2000ヤードの凝視とも)は、
周囲の恐怖から感情的に切り離された戦闘員の見せる、空白の、
焦点の合っていない虚な眼差しを説明するために使用されるフレーズです。

このフレーズは、「ライフ」誌が第二次世界大戦時代、
特派員のトム・リーによって描かれた、この

「海兵隊員はそれを2,000ヤードの凝視と呼んだ」

という作品を発表した後に一般に普及しました。
この絵は、激戦で悪名高かったペリリュー島の無名の海兵隊員を描いています。

作者のリーはこの絵についてこう語っています。

彼は31ヶ月前にアメリカを離れた
彼は最初の戦闘で負傷した
彼は熱帯病にかかっている
彼は夜に半分眠り、一日中穴からジャップを追い出して殺す
彼の部隊の3分の2は戦死または負傷した
彼は今朝攻撃に戻るだろう
人間はどれだけこのようなことに耐えることができるだろうか?

写真のミラー上等兵は、撮影から一か月後の3月24日、エニウェトクに続いて
米軍の掃討作戦が行われたマーシャル諸島のエボン環礁で戦死しました。

太平洋のジブラルタル:トラック環礁

1944年2月17日の夜明け。
トラック環礁は商船と数隻の軍艦で混雑し、その滑走路には
36機の航空機が駐機しており、それは
1941年12月7日の真珠湾を彷彿とさせるものでした。

TF58の爆撃機による二日にわたる継続的な爆撃と、
空母艦隊の艦砲射撃の後、トラック島はもはや聯合艦隊にとって
使用可能な基地ではありませんでした。

アメリカ軍はトラック攻撃のことを「真珠湾の逆再現」と呼んでいる、
ということをふと思い出しました。

 
2月16日、米軍の攻撃が始まります。
 

空母から飛び立った艦載機ドーントレスの攻撃。
 
 
炎上しているのは「香取」です。

米軍攻撃隊5隻の大型空母から発進した戦闘機72機を主力とし、
完全な奇襲に成功しました。

アメリカ海軍は

「太平洋艦隊は1941年12月7日の日本艦隊による訪問に対し、
トラック島で答礼の訪問を行い、借りを一部返した

と発表しました。

「ファイティング・レディ」

TF58がトラック襲撃から退却した時、不意に空母は日本軍の雷撃機による攻撃を受けました。
この写真は、「ジル」が対空砲火の中を飛びながら胴体に牽引した魚雷を
「ファイティング・レディ」として知られる空母「ヨークタウン」に放ち、
わずかの距離で狙いを外した瞬間です。

カロリン島攻撃

マーク・ミッチャー指揮のTF 58は、3月22日にギルバート諸島の
マジュロに基地を置き、カロリンの西端にあるパラオ諸島に向けて進路を定めました。

残念ながら「価値のある」艦船はパラオからすでに撤退していました。

残っていた商船と157機の航空機は破壊され、カロリン諸島の
ウォレアイ環礁とヤップ島は攻撃されることになります。

 

続く。

 

 


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4 Comments

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ちょっと酷 (Unknown)
2021-04-06 08:10:00
どこの国にも、どういう脅威に対してどう戦うかという防衛政策があります。当時の日本は来攻する米海軍を小笠原諸島付近で、艦隊決戦で迎え撃つ戦略で、そのシナリオに沿って艦艇その他の戦力を整備していました。

軍艦は高くつきます。海軍の時代の予算要求はわかりませんが、自衛隊だと作るのに五年ですが、その前に五年に一度作る五ヶ年計画(中期防衛力整備計画。中期防)で、いついつどんな船を作るか決めます。中期防は始まる三年前から作業を開始するので、計画から言うと、船を作るのには、足掛け十年くらい掛かります。

大艦巨砲主義が時代遅れとなったのは、真珠湾攻撃のせいですが、その十年くらい前に大和の建造が決まったはずですが、その時点で航空機の優位は読めなかったと思います。なので

>この時代に大枚叩いてあの弩級戦艦を作っていた日本って何だったの、ということになります

はちょっと酷(結果論)だと思います。
返信する
昭和18年の攻防 (お節介船屋)
2021-04-06 14:49:55
第3次ソロモン海戦後は17年11月30日の田中2水戦隊のガタルカナル補給隊(ネズミ輸送、俗称樽運び)がライト少将の第67任務部隊と遭遇、補給を諦め、咄嗟魚雷戦を実施、米重巡ペンサコーラ撃沈、重巡3隻大破、警戒艦高波沈没のルンガ沖海戦、18年1月29,30日の米輸送船団、機動部隊を第11航空艦隊の陸攻が攻撃したレンネル沖海戦(雷撃で重巡シカゴを撃沈しましたが多くの未帰還機を出したのに過大戦果報告)がありました。

ガ島撤収が昭和18年2月1日から7日にかけ1次で海軍250名、陸軍5,164名、2次海軍519名、陸軍4,456名、3次海軍63名、陸軍2,639名を収容しました。この間米側攻撃機と護衛機、駆逐艦の戦いをイザベル島沖海戦とも言います。

東部ニューギニア方面への米軍侵攻でラエに増援部隊輸送の船団が米陸軍機の襲われダンピール海峡に消えた昭和18年3月2,3日のビスマルク海海戦、先にコメントした3月27日のアッツ島沖海戦がありました。

い号作戦と呼ばれた第11航空艦隊に空母搭載機を陸上基地に増援させたソロモン、ニューギニア方面の艦船攻撃、航空戦が昭和18年4月5日から16日まで実施されましたが被害大きく、戦果は少ない作戦でした。基地航空機190機、空母搭載機180機でしたが事前に出撃毎に米軍沿岸監視員の通報により待ち構えられ、特に空母部隊は甚大な被害でこの後の空母が使いものにならないこととなりました。
この作戦後、前線視察の山本長官が18日撃墜されました。

昭和18年6月30日米軍レントバ島占領、これを陸海軍機で攻撃、被害大きく、陸軍機はソロモン方面から撤収してしまいました。(レントバ島航空戦)7月4日コロンバンガラ島揚陸作戦時の米水上部隊と駆逐隊の戦いのクラ湾夜戦、日本敗退、揚陸失敗でした。2回目が7月5日陸軍1,600名上陸、物資90t揚陸、この間米海軍との戦闘で米軽巡ヘレナを撃沈しましたが駆逐艦2隻が撃沈され指揮官秋山照男3水戦司令官も戦死しました。
コロンバンガラ島陸軍揚陸で起こった海戦がコロンバンガラ沖海戦昭和18年7月12日1,200名と軍需品20tを駆逐艦で輸送、揚陸には成功しましたが2水戦伊崎俊二司令官戦死、旗艦神通乗員482名とともに沈没しました。米軍は軽巡2隻大破、駆逐艦1隻沈没、ニュージランド軽巡1隻中破でした。

昭和18年6月30日米軍レントバ島上陸、8月3日ムンダ飛行場が奪取されました。コロンバンガラ島補強のため陸軍輸送中の駆逐艦3隻が撃沈されたベラ湾海戦が8月6日に生起しました。陸軍820名と萩風、江風、嵐が失われました。
米軍がコロンバンガラ島に上陸するとの予想でしたが飛び越え8月15日ベララベラ島に上陸しました。これに関連した海戦が8月17日の第1次ベララベラ海戦、10月6日の第2次ベララベラ海戦が生起します。

昭和18年11月1日米海兵隊ブーゲンビル島上陸でまたもや空母艦載機を投入する「ろ号作戦」が実施され12月3日まで海空戦で多くの航空機を損耗しました。草鹿任一司令官は空母5隻撃沈を含む大戦果を発表しますが駆逐艦1隻撃沈、重巡1隻大破のみでした。

昭和17年のガタルカナル攻防、昭和18年のソロモン、ニューギニア攻防で基地航空機、空母艦載機が多大な損耗でこの後やられ放題で連合艦隊の終焉へとの歴史となります。

米海陸軍機の活躍に比べ、島伝いの飛行も困難な陸軍機でソロモンの戦いに僅かに参加したのみで撤収、しかし生産量は半分を譲らずでした。

迎撃機や対空砲が激しく、戦果確認は困難でしょうがあまりに過大報告は司令部等で勘案する必要がありますが感情論も加味され報告をそのまま発表しているようで台湾沖航空戦が全くない大戦果を発表し、ルソンからレイテ決戦へと陸軍を誘導してしまい、甚大な陸軍の損失を招いています。本当に情けない事となる種もありました。

参照新人物往来社「太平洋戦争海戦全史」、光人社「写真太平洋戦争第5,6巻」
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連合軍の中部太平洋進攻計画 (お節介船屋)
2021-04-06 15:14:43
昭和18年5月英米首脳会議で南進と中央進攻の併用が決定されました。
中部太平洋はギルバー、マーシャル、カロリン、パラオ、フィリピンの線、その北方を迂回するマリアナ、小笠原、日本本土の線の2つでした。
8月11から24日ケッベックで米英仏加首脳会議でマリアナ諸島攻略とラバウルを除く事とされました。
昭和18年8月ギルバート諸島エリス諸島、9月ベーカー島を占領しました。
また南鳥島空襲、9月18日から20日タラワ、マキン、アバママ空襲、10月6から7日ウエーキ島空襲が機動部隊と基地航空隊で実施されました
参照光人社「写真太平洋戦争第6巻」
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トラック大空襲 (お節介船屋)
2021-04-07 11:44:46
マーシャル攻略後、次期作戦は大艦隊収容できるブラウン環礁奪取予定でした。
当初は1944年5月11日予定でしたが、マーシャル諸島作戦が順調のため、予備兵力が余っており、ブラウン作戦を2月18日と3か月早めました。

ブラウン攻略の陽動として2月17日トラックを強襲することとなり、スプルーアンス中将は空母5,軽空母4、戦艦6、重巡5、軽巡5、駆逐艦28隻、搭載機665機で空襲しました。

2月4日B-24 の偵察で近日中に空襲があるものとして連合艦隊は戦艦等をパラオ、リンガ泊地に避退させました。

4艦隊艦船、南西方面艦隊の航空機、第52師団、訓練中の南東方面艦隊の航空機等がいました。航空機は174機、輸送予定の補充機100機以上が在場していました。

2月15日空母艦載機の無線を傍受し、第4艦隊小林仁司令長官は警戒配備を下令しましたが2月17日トラックから索敵機を1機の発進させていませんでした。
レーダーで大編隊を探知し、空襲警報で70機余りが発進しましたが、敵艦上機が殺到、撃墜、地上撃破され、この日撃墜された機は67機、地上で96機撃破されました。天山8機が索敵し、米機動部隊を発見しましたが攻撃出来る航空機は僅かでした。テニアンから出た陸攻5機が空母イントレピッドに魚雷1本命中させただけでした。
翌18日は迎撃機は皆無で、米機の思うがままの空襲を受けました。

被害は艦船40隻沈没、損傷9隻、航空機被害270機、600名の死傷者で甚大な被害となりました。
米軍に与えた被害は25機のみでした。

杜撰な警戒で指揮系統もいい加減で全く緩んだ精神で敢闘能力が疑われる事で海軍T事件とも呼称されています。
参照光人社「写真太平洋戦争第6巻」
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