ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

空母打撃群 タスクフォース〜USSシルバーサイズ潜水艦博物館展示

2023-03-19 | 軍艦

シルバーサイズ潜水艦博物館の展示より、続きです。

■ 機動部隊模型


USSシルバーサイズ潜水艦博物館の展示の中では
その大きさでは群を抜いていると思われたのが、
空母打撃群(キャリア・ストライク・グループ)を説明するための模型。

空母打撃群(CSG)は、アメリカ海軍の空母戦闘団の一種です。

空母1隻、巡洋艦1隻以上、駆逐艦またはフリゲート2隻以上で構成され、
そrに65~70機の空母航空団を加えた約7,500人規模の作戦編隊です。

空母打撃群はアメリカの戦力投射能力の主要な要素であり、
スーパーキャリア1隻で一国の空軍に匹敵する火力を有するとされます。

第二次世界大戦の頃は空母戦闘団と呼ばれましたが、
現在では「エンタープライズ打撃群」などのように、
中心となる空母の名前が冠されることが多いようです。

現在の空母打撃群は、

1、「カール・ビンソン」
2、「ドワイト・D・アイゼンハワー」
3、「アブラハム・リンカーン」
4、「ロナルド・レーガン」
5、「ハリー・S・トルーマン」
6、「セオドア・ルーズベルト」
7、「ジョージ・H・ブッシュ」
8、「ニミッツ」
9、「ジェラルド・R・フォード」


の9つが存在し、こうして並べてみて改めて、
空母の名前に大統領経験者が多いのに気がつくわけです。
(ニミッツは海軍枠、カール・ビンソンは海軍への貢献枠)



さて、この展示は、大きな機動部隊の模型の四方に説明があり、
ボタンを押すと「戦艦」「巡洋艦」「駆逐艦」などが
点灯される仕組みになっています。

まずは4面のうちこの面の説明から見ていきましょう。

■ ファストキャリアフォース


1945年、沖縄におけるタスクグループ58.1


このプロットボードに描かれているのは、1945年3月と4月、
日本に向けて航海した偉大なアメリカ海軍太平洋艦隊の一部です。

タスクグループ58.1であり、コンパスローズの中心に描かれている旗艦は
USS「ホーネット」(CV-12)です。

TG58.1はタスクフォース58Fast Carrier Forceの一部でした。

任務部隊は第二次世界大戦中、艦隊組織にたいし、
変化していく戦争状況に対応する柔軟性を提供するために創設されました。

第58任務部隊は攻撃空母を中心に編成され、
他の任務部隊は沿岸砲撃、軍隊の輸送、および兵站支援を担当しました。

タスクフォースはタスクグループ58.1のようなグループに分割されました。

タスクフォース58から選別された他のTG58.2、TG58.3なども、
「ヨークタウン」「エンタープライズ」「レキシントン」
などの空母を中心に組み立てられます。

それぞれのグループが担当の責任を担うことになっており、
たとえば二つのタスクグループが島を別方向から攻撃したりします。
また別の艦船は水上艦を「ハンティング」することもあるでしょう。

また、支援船を擁する任務グループは、高速空母部隊に燃料を補給し、
装填や修理を行うために待機しているかもしれません。

タスクグループはさらにタスクユニットに細かく分割されることがあります。

戦闘前に特定の任務を実行する必要があった場合、または
状況が変化した際に対応するためですが、それを決定するのは
現場の部隊またはグループの司令官です。

具体例では、マーク・ミッチャー中将が指揮する機動部隊58
(高速空母部隊)
から任務群58.1が編成され、このグループは
ジョセフ・クラーク少将が指揮を執りました。

一つの任務群(TU58.1.3)が編成されると、
そのユニットの上級将校によって指揮されることになり、
海兵隊の上陸作戦などに対する任務支援で海岸砲撃を行なったり、
損傷した艦船を牽引したり、特定のエリアを偵察したりします。

■空母と「戦場」


USS「キトカンベイ」を攻撃中撃墜されて落ちる日本機。
1944年6月、マリアナ諸島沖




まずブルーの部分をご覧ください。
中央のUSS「ホーネット」、その周り三方に位置するのは

「ベニントン」CV20
「ベローウッド」CVL24
「サンジャシント」CVL30


いずれも航空母艦(CVLは軽空母)です。

空母が機動部隊の焦点になるにつれて海戦は変化しました。
最も顕著な変化は、戦場が拡大したことです。

かつて艦隊の主力艦であった戦艦は、有効射程が約24マイルでしたが、
航空母艦は200マイルの範囲で攻撃することができるようになりました。

日本の空母搭載航空機は軽量でかつ脆弱ではありましたが、
その分航続距離を100マイル伸ばすことができました。

これは、もし4隻の空母を使用すれば、日本艦隊は太平洋で
約47,000平方マイル(またはミシガン州の約半分のサイズ)
をカバーすることができたという意味でもあります。


日本の艦隊が自国の空母から約60マイルの距離で活動している
アメリカの戦闘航空哨戒隊に遭遇したとしたら?

そう、実際の戦場は劇的に拡大することになります。

たとえば、レイテ湾では、日本軍は最大800マイルの距離をとって
活動する三つの機動部隊を使って戦い、
また陸上ベースの航空機もこれに加えていました。

対するアメリカ海軍が使ったのは、二つの艦隊です。

この結果、戦闘が行われた範囲はフィリピン列島のほぼ全域にわたり、
それは緯度10度、経度12度の約43万2000平方メートルでした。

これは、アメリカ大陸で言うと、ユタ州、アリゾナ州、
ニューメキシコ州、コロラド州全域で行われたと言うことになります。

■ 戦艦ーバトルシップ


続いてこのサークルのブルーで示された艦に注目します。
左から時計回りに

「インディアナ」
「ミズーリ」
「ウィスコンシン」
「マサチューセッツ」
「ニュージャージー」

の5隻。
そう、戦艦です。


前方から「マサチューセッツ」「インディアナ」
巡洋艦「シカゴ」(CA-136)「クィンシー」(CA-71)、
1945年7月、日本本土の製鉄所への砲撃のため単縦陣で航行中


このときに彼女らが攻撃した「製鉄所」というのは、
かつてわたしが「マサチューセッツ」艦上で見学した資料によると、
釜石の製鉄所だったということになっています。

このときに「楽器会社を攻撃した」という文章があって、
なんのこっちゃと思ったのですが、今にして思えば
インストゥルメンタル=装備製造所ですよね。<(_ _)>


さて、まず、「バトルシップ」の説明から見ていきます。

この任務群は、2つの異なった級からなる5隻の戦艦を含んでいました。

「インディアナ」(BB58)と「マサチューセッツ」(BB59)は
「サウスダコダ」級戦艦、
「ニュージャージー」(BB62)「ウィスコンシン」(BB64)
「ミズーリ」(BB63)は「アイオワ」級という具合です。

「アイオワ」級戦艦は戦争のために建造された最後の級であり、
結果としてこれがアメリカ合衆国が建造した最後の戦艦級ともなりました。

しかしながら、戦艦は非常に優れた軍艦であったといえます。

その数がそもそも非常に少なかったため、
クラスごとに識別されることはめったにありませんでした。

それぞれに独自の名前があり、
これら5隻もその例外ではありませんでした。


【インディアナ】

「インディアナ」は1942年4月に就役し、
その秋遅くに太平洋に向けて出航しました。
1943年の年間ほとんどを通じて南太平洋で活動した後、
中部太平洋に移動し、そこでギルバート諸島、および
マーシャル群島での作戦に参加しています。

「インディアナ」は1944年には空母を護衛する任務に加わり、
カロリン諸島、そしてマリアナ沖での戦闘を支援しました。

1945年には硫黄島侵攻を支援し、続いて
日本本土の島々を攻撃しました。


これらの戦争中の活動により、「インディアナ」は
合計で9つのバトルスターを獲得しています。

【マサチューセッツ】


さて、ここで「マサチューセッツ」の説明になったので、
実際にその現物を見学したわたしとしては、
すかさず写真を出してきてしまうわけです。

「マサチューセッツ」は1943年に太平洋艦隊に参加する前に、
北アフリカのヴィシー・フランスに対して16インチ砲を向けました。


このことについては、現地のレポをもとに考察しております。
そのときに撃ったという砲弾も展示されていますので、
思い出しがてら見ていただければ幸いです。

カサブランカ海戦の”真実”

その後彼女はソロモン諸島とフィリピンでのキャンペーンにも参加。
レイテ湾で激しい戦闘を目の当たりにし、終戦まで
日本本土への攻撃に参加し、日本近海で終戦を迎えています。

「マサチューセッツ」は11個のバトルスターを獲得しました。



【アイオワ級三姉妹】

このタスクグループに代表される「アイオワ」級戦艦は
おそらく最もよく知られているものです。

「ニュージャージー」「ミズーリ」「ウィスコンシン」

彼女らは戦争の最後の2年間に、それぞれ9、5、8個の従軍星、
バトルスターを獲得しました。

これらの3隻の「バトルワゴン」は、結局戦争の終結につながった
日本への最後の攻撃で際立っていました。

「ニュージャージー」は第五艦隊の旗艦を務め、
「ミズーリ」はその甲板で日本の無条件降伏文書の調印式が行われました。

「サウスダコタ」級の核艦艇とは異なり、
各戦艦は大戦後も活躍し、その後の朝鮮戦争、そして
最終的には湾岸戦争までの紛争に出動し続けました。

「マサチューセッツ」と同様、これらの「アイオワ」級戦艦たちは
それぞれ博物艦となって一般に公開されています。

■ 巡洋艦 クルーザー

1945年6月5日、艦首を失った状態でグアムに帰投する
巡洋艦「ピッツバーグ」(CA-72)

巡洋艦は戦艦と駆逐艦の間のギャップを埋める存在でした。

攻撃部隊を率いて艦隊を守るのに十分な強さを持ち、
主力感を航空機から遮蔽するための多用途性も備えています。

第二次世界大戦中の巡洋艦には二つのサイズがありました。
軽巡洋艦(CL)と重巡洋艦(CA)です。

その区別は、排水量よりも、最大砲の大きさで決められました。

軽巡洋艦には5インチ38口径の砲が、そして
重巡洋艦には8インチ55口径の砲が装備されていました。

ここに示されたタスクグループは、異なるクラスの重巡洋艦と
軽巡洋艦の両方で構成されています。

これらの中で最も古く、おそらく有名なのは

USS「インディアナポリス」CA35

に違いありません。
1932年に就役し、条約により重量は1万トンに制限されていましたが、
5インチおよび20ミリ対空砲に加えて、
8インチ55口径の砲を9門搭載していました。

1945年3月31日、この機動部隊の一員として、
「インディアナポリス」が見舞われた爆弾は、
メインデッキを貫通し艦体を貫き、これによって
そこにいた9名の乗員が死亡しました。

メアアイランドでの修理が終了すると、「インディアナポリス」は
のちに広島に投下する予定の原子爆弾の部品を輸送するという
秘密の任務に着手することになります。

荷物を届けた後、「インディアナポリス」は敵の魚雷を受け沈没しました。

彼女お1200名の乗員のうち、生き残ったのはわずか320名未満で、
そのほとんどの死因は漂流中の衰弱とサメの襲撃によるものでした。


USS「ボルチモア」(CA 68)
USS「ピッツバーグ」(CA 72)


は、空母を援護するために設計された新しいクラスの巡洋艦です。
彼女らには9基の8インチ砲が備えられていましたが、
それだけでなくより強力な対空兵器も装備していました。

「インディアナポリス」のように、水上飛行機を発射して回収することができ
偵察や捜索救助に役立ちました。

「ボルチモア」級巡洋艦は17,000トンでしたが、
「インディアナポリス」より速度は1節早く33節でした。

このタスクグループに5隻の軽巡洋艦が含まれていますが、
そのほとんどが「クリーブランド」級です。

重量が約14,000トンの

USS「ヴィンセンス」
USS「ヴィックスバーグ」
USS「マイアミ」


は航続距離が長く、亜対空防御がより強化されており、
魚雷攻撃にも耐える設計がなされた巡洋艦最大のクラスです。

しかし、「クリーブランド」の船体設計の多用途性は、
「インディペンデンス」級軽空母への改造によって示されました。

そのうちの2隻は、これら3隻の巡洋艦が掩護していました。

USS「ベローウッズ」(CVL 24)
USS「サンジャシント」(CVL 30)

これらはジェラルド・フォード大統領が現役時代勤務していた空母、

USS「モンタレー」(CVL  26)

の姉妹艦となります。



巡洋艦を示す青い艦船をご覧ください。
これも時計回りに、

「セントルイス」 CL 49
「ボルチモア」CA 68
「ヴィックスバーグ」CL 86
「マイアミ」CL 89
「ヴィンセンス」CL 64
「サン・ジュアン」CL 54
「インディアナポリス」CA 35

となります。
文字通り、戦艦と戦艦の間を埋めるように配置されており、
「インディアナポリス」が特別というか、
これだけが旗艦「ホーネット」の前に配置されています。


■ 駆逐艦



「ホーネット」の後ろ三方には

「ベニントン」CV 20
「ベローウッド」CVL 24
「サンジャシント」CVL 30


という軽空母が位置します。

四隅にはレーダーピケット艦として、

「シュローダー」DD 502
「クッシング」DD 797
「マッドックス」DD 731
「フランクス」DD 554


の駆逐艦群が50マイル外側を守っているというわけです。

レーダーピケット艦は、レーダーによる索敵を主目的に、
主力と離れて概ね単独で行動し、敵を警戒する役目です。

太平洋戦争末期、機動部隊におけるレーダーピケット艦の任務は
おもに日本軍機の空襲(とくに神風特別攻撃隊)を探すことでした。

青の艦が駆逐艦です。
最も数が多い駆逐艦は、多用途のプラットフォームでした。

彼らは航空警戒、交戦のほか潜水艦の捜索、上陸の支援、
人員を艦と艦の間で移動させたり、予備部品を配ったり、
艦隊の郵便物の配達などという「平凡な」タスクも行いました。

駆逐艦の中で最も数が多かったのは「フレッチャー」級です。

1942年から44年までの間に175隻が建造され、排水量は2,500トン、
36.5ノットで波間をかっ飛ばしました。

5基の5インチ単装砲、ファンテール(艦尾)から投下する爆雷、
10基の21インチ魚雷発射管によって独特でありまた強力でした。

もちろん航空機と戦うための40ミリと20ミリ銃のマウントも備えています。

タスクグループの駆逐艦のうち9隻は、
第二次世界大戦のために開発された最後のクラスと言われる
「アレン・M・サムナー」級でした。

58隻が建造され、操縦性を向上させるための二重舵、
最大34ノットの高速性、航続距離の向上が身上でした。

「サムナー」級駆逐艦にはより優れた高性能レーダーと、
火器管制装置が装備されており、40ミリ砲12門、
20ミリ砲11門を備えた大変優れた対空プラットフォームでもありました。

その5インチ砲架は2連装で、前方に二つ、後方に1つありました。

戦争後半になり、日本軍の水上艦艇は減少していきましたが、
それに伴って、「サムナー」級駆逐艦は、
魚雷発射管を40ミリ砲に置き換えていったと言うことです。

潜水艦の恐怖はもうない、と判断されたということでしょう。


続く。





アメリカ海軍の大西洋発横断飛行(史上初)〜スミソニアン航空博物館

2023-03-04 | 飛行家列伝

「大西洋横断飛行」

大西洋とは縁もゆかりもない我々日本人にはピンときませんが、
欧米の国々にとって大西洋は「横断すべきもの」でした。

少なくとも、航空機というものが発明されて以降、欧米の人々は
ヨーロッパ、アフリカ、南アジア、中東から北米、中米、南米へ、
またはその逆方向へ大西洋を横断することに夢中になりました。

大西洋を横断する=トランスアトランティックという「造語」ができ、
達成のためのコンテストが行われ、実業家は賞金を出し、
野心のある飛行家たちが名を挙げようと次々とこの課題に挑戦しました。

太平洋横断飛行には、固定翼機、飛行船、気球などが用いられたわけですが、
初期の航空機のエンジンは信頼性に乏しく、無給油で何千キロも続く
特徴のない海域を航行するのは困難を極めました。
特に北大西洋の天候は予測不可能で危険でもありましたが、
科学技術の発展と何人かの勇気あるパイオニアたちのおかげで、
20世紀中頃から、商業、軍事、外交などの目的で
大西洋横断飛行が日常的に行われるようになりました。


さて、スミソニアン博物館の、ミリタリーエアのコーナーを飾る
黎明期の軍パイロットたちの写真を今一度見てみましょう。

ベッシー・コールマンを除く全員が軍人であるわけですが、
(というかなぜここにコールマンがいるのか謎)
上の段の真ん中の6人のパイロットたちは陸軍航空隊メンバーで、
彼らは1923年に大西洋横断を成し遂げたということで有名です。

が、軍で言うと、大西洋横断を先に達成したのは海軍なのです。

なのになぜ、世界初の太平洋横断飛行を行った海軍ではなく、
陸軍の写真なのかはよくわかりませんが、
このパネルに収める軍人の陸海の数のバランスの関係でしょうか。



■ 大西洋初横断

リンドバーグが大西洋単独無着陸横断に成功する8年前に、
海軍は水上機による大西洋横断飛行を史上初めて成功させていました。

その二週間後、イギリスのジョン・アルコックとアーサー・ブラウンが、
今度は航空機による史上初大西洋ノンストップ横断に成功しました。


アルコックとブラウンの像

ちなみにアルコックはこの年1919年の12月に参加した航空ショーで
飛行機が墜落し、若くして死去しています。

命の危険を重々承知で飛んでいたとはいえ、
世界記録を出した直後に死ぬというのは何とも気の毒です。

ともかく史上初めて航空機と名のつくもの、水上機で大西洋横断したのは、
アルバート・クッシング・リード中佐率いる3機のNC-4海軍チームで、
ニューヨークからプリマスまで23日で到達しているのですが、
かかった時間と横断に複数の飛行機を使用したということで、
「大西洋横断」と言う公式記録にはカウントされませんでした。

しかし、このときの海軍は、記録を作ると言うよりは、
大洋横断兵器としての飛行機の性能と技術を証明するため、
軍を挙げて大西洋横断に挑戦したのだといわれています。


という意気込みの割に驚くほどのんびりとした出撃風景なんですが・・・。

1919年5月8日、ロングアイランドのロッカウェイビーチ。
(どこから撮った写真なんでしょうか)

この挑戦は6名の乗員を乗せたカーチス飛行艇3機で行われました。
使用されたのはNC-1、NC-3、NC-4でと番号が振られた
カーティスNCと言う最新式の水上飛行機でした。




大西洋横断メンバー

当時の海軍の軍服が全く陸軍風なのに驚かされます。
長靴に乗馬のジョッパーパンツなんて海軍要素ゼロですよね。

NC-4艇のメンバー、左から右に向かって:

操縦士;エルマー・ストーン中尉Lt. Elmer F. Stone, 沿岸警備隊

機関士;ユージーン・ローズ上等兵曹Eugene S. Rhodes


機関長;ウォルター・ヒントン大尉Lt. Walter Hinton

副操縦士;ハーバート・ロッド少尉 Ensign Herbert C. Rodd

通信&機関長;ジェイムズ・ブレッセ大尉 Lt. James L. Breese,

司令官;アルバート・リード 中佐Lt. Cmdr. Albert C. Read

アゾレス諸島海軍司令官;リチャード・ジャクソン少佐
Capt. Richard E. Jackson, Commander U.S. Naval Forces Azores

アゾレス諸島は、彼らが大西洋横断の際に中継点として離陸した
大西洋の島であり、ジャクソン少佐は現地司令官です。

先にフライトエンジニアとしてE・H・ハワードというメンバーがいましたが、
5月2日、ハワードは回転するプロペラとの距離を見誤り、
手を失ったため、ローズ上等兵曹が代理で乗り込むことになりました。

超余談ですが、この中の唯一の沿岸警備隊からの参加者、
ストーン中尉(左端)は、のちに海軍の飛行船「アクロン」の沈没事件の時、
沿岸警備隊の飛行艇のベテランとして、嵐の中、外洋に着水し、
果敢にも救助活動を行ない、賞賛されることになります。

この時の「アクロン」の生存者は76名の乗員のうちたった3人でした。



このときのリード隊のコースが図になっています。

ニューヨーク・ロングアイランド
マサチューセッツ・チャタム(アメリカ)
ハリファックス、セントジョンズ・ニューファンドランド(カナダ)
ホータ、
ポンタ・デルガーダ(アゾレス諸島)
リスボン、フィゲイラ(ポルトガル)
フェロル(スペイン)
プリマス(イングランド)


(赤字は予定外の緊急着陸地)

水上艇での横断というのが記録として公認されなかったのは、
固定翼機と違い、墜落による命の危険がない乗り物だったからでしょう。

おまけにこのとき、海軍は作戦成功のためにルート上に駆逐艦を配備して、
逐一カーチス飛行艇を誘導していたと言いますから、
のちのリンドバーグやイヤハートと違い、言うては何ですが
比較的イージーモードな挑戦だったから、と言えるかもしれません。


1919年5月8日、アメリカ海軍の大西洋横断飛行探検が始まりました。

参加したカーチスはNC-4はNC-1とNC-3と言いましたが、
なぜ2がないかというと、この出発前、NC-2は、NC-1を修理するため
重要なスペアパーツを取られて飛べなくなったからです。

3機はロッカウェイ海軍航空基地から出発し、一週間後となる
5月15日には、ニューファンドランドのトレパシーに到着しました。

カーチスNCの航行支援と万が一の際の乗員救出のため、
アメリカ海軍の軍艦8隻がアメリカ東海岸北部と大西洋カナダに配備され、
全軍挙げて成功させる気満々です。

USS「アルーストック」

支援のための全艦艇の旗艦である「ベース・シップ」は、
カーチスNCの飛行直前に海軍が水上機テンダー(補給船)に改造した
旧機雷掃海艦USS「アルーストック」でした。

「アルーストック」は排水量3,000トン強で、
大西洋横断飛行支援に配備された海軍のどの駆逐艦よりも大型です。

「アルーストック」は、カーチスNCがニューヨークを離陸するより前に、
ニューファンドランドのトレパシーに待機していました。

NC-1、NC-3、NC-4が到着すると、給油、再潤滑、整備作業を行い、
のみならずその後、大西洋を横断してカーチス隊を追いかけ、
イギリスに到着した一行と合流して至れり尽くせりの援護を行いました。

海軍全面支援ならではのゴーヂャスなバックアップ体制です。


5月16日、3隻のカーチスNCは、ニューファンドランドを出発しました。
大西洋中部のアゾレス諸島までは今回最も長い距離飛ばなくてはなりません。

しかし、ご安心ください。

先ほども言いましたように、この航路には、主に駆逐艦からなる
22隻の海軍艦艇が約50マイル(80km)間隔で配備されていました。

この過保護っぷりよ

この駆逐艦配置をして「真珠の首飾りのよう」と評されたと言います。

配置されたすべての駆逐艦は「ステーションシップ」として機能するべく、
夜間には煌々と光を放って、迷える飛行艇を導きました。

乗員はサーチライトを空に向けて照らし、また、
飛行士が予定した飛行経路を外れないように、星空弾を発射しました。


NC-4の乗員

が、

ここまでやったのに、やはりアクシデントは起こり、
三機全部、というわけにはいかなかったのです。

NC-4は、翌日の午後にアゾレス諸島のファイアル島のオルタに到着し、
約1,200マイル(1,900km)の飛行を無事に終えることができましたが、
この、15時間18分の夜間飛行の間、一行は濃い霧に遭遇し、
水平線を見失う状態に見舞われたため、危険回避のために
NC-1とNC-3は大西洋に着陸せざるを得なくなりました。

飛行艇だからよかったものの、飛行機なら墜落ですね。

しかもNC-1は荒波にもまれ、再飛行が不可能となり、
NC-3はメカニカルトラブル(操縦線断裂)で棄権を余儀なくされます。

このNC-1には、後に提督となるマーク『ピート』ミッチャーが乗っており、
ミッチャーら乗員6名は、配備された駆逐艦ではなく、
通りすがりのギリシャの貨物船SS「イオニア」号によって救助されました。

NC-1には「ナンシー」と言う愛称がつけられていましたが、
「イオニア」に発見されるまで、ミッチャーらは波に揺られる
「ナンシー」の翼の上にずっと座っていたということです。


当ブログではおなじみ、ミッチャー

若き日、イケイケの飛行機野郎だった頃のミッチャー

「イオニア」号は、乗員を「アルーストック」に移乗させた後、
NC-1を曳航していたらしいのですが、気の毒に、3日後に沈没し、
深海で行方不明となってしまいました。

もし飛行艇の曳航などしなければ、というか、たまたま
駆逐艦より先に遭難した飛行艇を見つけていなければ、
「イオニア」もきっとこんな目に遭わずに済んだと思われます。
(-人-)

さて、もう1機の遭難艇NC-3には、やはりのちに提督となる
ジャック・タワーズが乗っていました。

グレーの矢印(見にくくてごめん)というか
一人だけズボンに皺のないのがタワーズ

さて、タワーズを乗せたNC-3は、約200海里(370km)を航行して、
(つまり飛ばずに船のように海路を進んで)アゾレス諸島に到着し、
そこからアメリカ海軍の艦船に本国までドナドナされていきました。


NC-4はアゾレス諸島に到着して3日後の5月20日、
リスボンに向けて再び離陸しましたが、機械的な問題が発生し、
わずか240km飛んだところで、アゾレス諸島のサン・ミゲル島、
ポンタ・デルガダに着陸を余儀なくされました。

スペアパーツと修理のために数日滞在後、(これってセーフ?)
NC-4は5月27日に再び離陸しました。

そして、またしても海軍は、特に夜間の航行を助けるために
艦艇をみっちりと配備して備えました。
アゾレス諸島-リスボンのルート上には13隻の軍艦が配置されています。

当時は戦間期で、海軍も暇っちゃ暇だったのでしょう。


その後は大きなトラブルもなく、9時間43分でリスボン港に着岸成功!

この瞬間、NC-4は、「初めて大西洋を横断した航空機」
また、「初めて『海洋上』を横断飛行した航空機」となったのです。

また、マサチューセッツやハリファックスからリスボンまで飛んだことで、
NC-4は「北米やヨーロッパの本土から本土まで飛んだ初めての飛行機」
というタイトルを得ることにもなりました。

かかった日付のわりに、実際の飛行時間は26時間46分でした。

ついでに言えば、リスボンからスペインのフェロール、
そしてフェロールからプリマスという最後の飛行区間には、
さらに10隻のアメリカ海軍の軍艦が航路上に配置されていました。

結局、ニューヨークからプリマスまでのルートのために、
合計53隻のアメリカ海軍の艦船が配備されていたことになります。

やっぱり暇(略)

ヨーロッパ(のどこか)を意気揚々と滑走するNC-4


NC-4の乗員ははプリマスでNC-1、NC-3の乗組員と再会し、
成功組失敗組、一緒に列車でロンドンに向かい、そこで歓迎を受け、
次にフランスのパリを訪れ、そこでも熱烈に喝采を浴びました。



しかし、そのわずか二週間後、最初にも書いたように、
ジョン・アルコックとアーサー・ウィッテン・ブラウンが
ニューファンドランドからアイルランドまで
ヴィッカーズ・ヴィミー複葉機による初の大西洋無着陸横断飛行に成功。

所要時間も16時間27分と海軍の飛行艇の時間を大幅に上回り、
この壮挙にはちょっと曇りが生じることになります。

せめてこの何ヶ月か後ならもう少し勝利感に浸れたと思うのですが。


この成功によって、アルコックとブラウンは、
『デイリー・メール』紙がスポンサーとなって出した条件、

「アメリカ、カナダ、ニューファンドランドのいずれかの地点から、
イギリスまたはアイルランドのいずれかの地点まで、
飛行中の飛行機で72時間連続して初めて大西洋横断を行った飛行士。
各試行に1機のみを使用できる」

をクリアし、1万ポンドの賞金を獲得しましたが、そもそも海軍は
このコンペに参加して賞金を得ることには全く無関心でしたから、
時間制限とか、1機使用などというルールを守ろうなどとは
ハナから思っていませんでしたし、また守る必要もなかったのです。


アメリカに輸送するためプリマスで解体されるNC-4
この後機体は「アルーストック」に積み込まれた

しかしこの壮挙は賞金には変えられない栄光を海軍にもたらしました。
1929年2月9日、議会は公法を可決し、

「最初の大西洋横断飛行を考案し、組織し、指揮した」

ジョン・H・タワーズ中佐と、

「1919年5月にアメリカ海軍飛行艇NC-4に乗り、
最初の大西洋横断飛行に成功したという驚くべき業績」


を挙げた搭乗員の6名に連邦政府金メダルを授与し、
海軍は新たにNC-4勲章という軍事勲章を創設することになったのです。

これはミニチュア版の議会ゴールドメダルでしたが、
海軍や軍服への着用が許可されるメダルは非常に稀なものでした。


本作戦指揮官を務めたリード中佐は搭乗員番号25、
つまり海軍始まって以来25番目に資格を得たパイロットです。

1919年、挑戦を終え、アメリカに帰国したリードは、こう予言しました。

「まもなく人類は、高度6万フィート、時速1,000マイルの飛行機で
世界を一周することが可能になるだろう」


現代の我々には、そりゃそうなるよね、くらいにしか思えない発言ですが、
翌日のニューヨークタイムズ紙は、社説で真っ向から反発しています。

「飛行士の資格と預言者の資格は全く別物だ。
中佐の予測を裏付けるものは、今となっては何もない。
6万フィートの高さにある飛行機は、
真空の中でプロペラを回しているようなもので、
星間空間の凍てつくような寒さの中では、
どんな飛行家も長くは生きられないだろう 」

と。

NYT紙といえば、預言者となったロケット工学の父、
ロバート・ハッチングス・ゴダードに対する当時の暴言を
人類の月着陸の翌日誌面で大々的に謝罪したことで有名ですが、
この暴言に対しては誰をも責任をとっておらず、
少なくとも誰もリードに謝っていないように思われます。

アルフレッド・リードは1967年まで生きていましたから、ジェット機の登場も
音速超えの飛行機も、人類が宇宙に行ったことも当然知っていたわけです。

彼は自分の預言というより、実体験からの「予測」を貶したNYTに対し、
後年そらみたことかと思っていたに違いありません。

History of Naval Aviation - NC-4, Aircraft Carrier 21720 

前半はつまらないので8:00くらいからご覧になるとよろしいかと思います。
この時代の水蒸気カタパルトが結構すごいのに驚かされます。



NC-4は、帰還後に海軍からスミソニアン博物館に寄贈されたため、
スミソニアン博物館の所有物ということになっています。

しかし、この機体は大きすぎて、ワシントンD.C.にある
ここ旧スミソニアン芸術産業館にも、その後継で1976年に完成した
国立航空宇宙博物館本館にも収容することができません。

というわけでNC-4の小型模型は、
国立航空宇宙博物館のマイルストーン・ギャラリーに
1903年の初代ライトフライヤー、
1927年のチャールズ・リンドバーグの「スピリット・オブ・セントルイス」
1947年のチャック・イエーガーのグラマラス・グレニスX-1ロケット機、
X-15ロケット機とともに、名誉ある機体として展示されています。

模型ですが。



1974年現在、組み立てられた本物のNC-4はスミソニアンから
フロリダ州ペンサコーラの国立海軍航空博物館へ貸し出されています。

このままスミソニアンに帰ってくることはなさそうです。


続く。



「彼女は群狼作戦に加わったのか」第11次哨戒〜潜水艦「シルバーサイズ」

2022-09-25 | 軍艦

ミシガン湖はマスキーゴンに係留展示されている、
第二次世界大戦時の「ガトー」級潜水艦、「シルバーサイズ」について、
その哨戒活動を順を追って検証してきましたが、今日は
第二代艦長、ジャック・コイJr.少佐の最後の指揮となった、
第11回哨戒を取り上げたいと思います。



「シルバーサイズ」は第10次哨戒から帰還後、直ちに
生まれ故郷であるメア・アイランド海軍工廠でオーバーホールを受けました。

入渠したのが1944年の6月11日。
オーバーホールを終えて真珠湾に帰還したのが9月12日とされていますので、
およそ3ヶ月の間、乗員たちは戦闘に出ない日々を過ごしたことになります。


■第11次哨戒の目的

真珠湾に到着してから12日後、「シルバーサイズ」は出撃しました。

目的は東シナ海。

台湾の北東と九州を結ぶ海域の哨戒で、「シルバーサイズ」は
哨戒活動の他に重要な任務を請け負っていました。

それは、マイク・ミッチャー中将率いる第38任務隊が予定している
台湾と沖縄での大々的な空襲の間、
海上に墜落した航空機のパイロットを救出することです。


ミッチャー中将

ミッチャー中将が司令官となって創設された第38タスクフォースですが、
「シルバーサイズ」が日本海域に到着したと思われる頃、
(つまり10月1日前後)大規模な空襲が行われたという記録も、
「シルバーサイズ」がパイロット救出活動をしたという事実もありません。

しかし、英語の方の記録には、この時「シルバーサイズ」が
姉妹潜水艦の救助を行った、と書かれています。

その前に、この時「シルバーサイズ」が
どういう形態で現地の哨戒に当たっていたかを説明します。


■ ウルフパック(群狼作戦)

ピッツバーグのMKの住んでいたアパートのすぐ近くに、
「ウルフパック・トレーディング」という名前の家電中古販売店があって、
前を通るたびに、一人で密かにウケていたわけですが、
ここの店主がどういうつもりでこの名前を選択したのか、
果たして本当の意味を知っての上だったのかは、気になるところです。


群狼作戦(独Wolfsrudeltaktik ヴォルフ・シュルーデル・タクティク)は、
第二次世界大戦中、ドイツ海軍潜水艦隊司令(BdU)
カール・デーニッツ少将
によって考案されました。

当ブログでも一度説明したことがありますが、
ドイツ海軍では、潜水艦のことを「灰色の狼」と称していたことから、
複数の潜水艦が協同して敵輸送船団を攻撃する戦術をこう呼んだのです。


元々これが生まれたドイツ海軍における群狼作戦は、
複数の潜水艦(3隻以上)で行うことになっていました。

やり方は至極シンプル。

先発の潜水艦が、偵察機の情報を元に
敵船団が侵攻してくるであろうと予測される海域で待ち伏せをし、
船団が来たら、残りの潜水艦で周りを包囲し、撃滅するという方法です。

これに対し、アメリカ海軍潜水艦の群狼作戦の攻撃方法は、
3隻1組で行うというのはUボートと同じですが、
包囲殲滅よりも、波状攻撃を主としていたようです。

事実アメリカのはドイツの群狼作戦のパクリなので、
オリジナルをそのまま翻訳した「ウルフパック」という名称は
現場で普通に使われていたのですが、さすがに公式にはあからさまにできず、

コーディネーテッド・アタック・グループス
(coordinated attack groups )

「調整攻撃グループ」

という名称にしていました。

しかし、現場でこのお役所的なイケてない名称は使われることなく、
誰もが「ウルフパック」で通していたものと思われます。

アメリカ海軍で最初にウルフパックを指導したのは、
チャールズ・モムセン(Charles Momsen)という軍人なのですが、
この「マンセンorモムセン」という名前に聞き覚えはありませんか?

潜水艦の事故における人命の確保のために発明されたアクアラング、
「マンセン・ラング」の発明者です。


こんな顔が後世に残ることになった水兵くん気の毒すぎ

モムセンが艦長クラスとその上官たちに伝授したウルフパックの戦術とは、

●3隻の潜水艦を1組とする

●1隻が船団に対し最初に攻撃を仕掛ける
この1隻を「トレーラー」と称する

●その後残りの2隻が左右から交互に攻撃を行う

というものでした。

「トレーラー」には先任の指揮官が乗艦しており、
基本的に残る2隻は統制に従うということも決まっていました。

そしてモムセン本人は1943年10月13日、

「グレイバック Grayback(SS-208)」 
「セロ Cero(SS-225)」
「シャド Shad(SS-235)」


からなるアメリカ初のウルフパックを率いて出撃しています。

チャールズ・モムセン少将(最終)

ところで、昔も今も、潜水艦の任務は全てが謎に包まれています。
潜水艦そのものが秘密の塊であるとともに、その行動も秘匿され、
同じ海軍同士でも潜水艦については知らされないことも多そうです。

もちろん我が海上自衛隊でもそれは同じで、
昔水上艦の乗組員とお話をした時、

「潜水艦は不思議ですね。
出港先で『あれなんでこんなところにいるの』
なんてところにいてびっくりさせられたりします」


と聞いたことがあります。

当時、アメリカ海軍は軍機漏洩禁止の目的で、潜水艦に限らず、
個人が日記をつけることすら禁じていました。

今なら乗員の個人的なSNS禁止というところです。

少し前、艦艇乗組の自衛官が自分の艦の入港先をSNSで発信してしまい
大騒ぎになったとかいうニュースがありましたが、
コンプライアンス以前に、この頃の漏洩は命に関わることでした。
従って、日記禁止も決して厳しすぎる措置ではなかったと思われます。

個人の日記だけでなく、潜水艦は戦果報告も60日後と決められました。

これは、ある時、政治家がうっかり報道陣に対して

「日本海軍の爆雷調定深度は浅いため、アメリカ潜水艦の被害は少ない」

と軍内部から聞いたことを喋ってそれが報じられてしまった途端、
アメリカ潜水艦が10隻立て続けに撃沈されたことがあったからです。

とにかく、念には念を入れた個人への記録禁止の結果、
アメリカ軍の群狼作戦については、公式記録以外の、
つまり詳細な現場からの記録はほとんど残っていません。

ところが、一人、いたんですねー。
群狼作戦について記録していた乗組員が。



当ブログで昔アップしたサブマリナーシリーズの扉絵ですが、この右上、
「ラッキー・フラッキー」とあだ名された、


ユージーン・B・フラッキー(Eugene B. Fluckey)少佐

が艦長を務めた、「バーブ(SS-220)」の魚雷員が、
こっそり日記をつけていたというのです。
この日記の内容は、フラッキーの著書『サンダービロウ!』に残されました。


英語の書評です。

大胆不敵な艦長ジーン・フラッキー大佐の指揮のもと、「バーブ」は
第二次世界大戦中アメリカの潜水艦の中で撃沈総トン数最多だっただけでなく、
潜水艦が獲物を追跡して撃沈する方法を永遠に変えた。

フラッキーは、記録、報告書、手紙、インタビュー、そして

最近発見された魚雷員の一人による違法な日記をもとに執筆している。

そして本書には、当時のアメリカ軍の群狼作戦についてが書かれています。

1チームは3隻、最大で4チーム12隻で行う

群指揮官は序列に関係なし

作戦海域を区切ってパックごとに割り当てる

敵を発見したら協同で攻撃

僚艦との会合は主としてレーダー波による誘導を用いる

アメリカ式の、
「1隻が正面から待ち伏せ攻撃して怯ませておいて、
もう2隻が横から波状攻撃を加える」

というやり方は、フラッキー少佐が「バーブ」で行った戦法でした。


■ 僚艦「サーモン」救出

さて、「シルバーサイズ」の第11次哨戒に話を戻します。

延々とウルフパックについて説明したのは、この時「シルバーサイズ」は、

「サーモン」 (USS Salmon, SS-182)

トリガー (USS Trigger, SS-237)


の3隻でウルフパックを組み、哨戒を行うことになった、
と「シルバーサイズ」の艦歴に書かれていたからです。


ちなみにこの時、もう一隻ウルフパックに予定されていたのは
「タング」 (USS Tang, SS-306) だったということになっています。

つまりわざわざ4隻で作戦にあたらせようとしたことになりますが、
これを読んで、ウルフパックの基本は3隻なのに、おかしくね?
と思ったあなた、あなたは正しい。

これが史実だったかどうかについても、今回は検証します。

「タング」の艦長は、当ブログでも似顔絵を描いた
(ので無理やり出してくる)

リチャード・オカーン(Richard  O'Kane)艦長

でした。
のちに日本軍の捕虜になった時、捕虜の権利を国際法の観点から捲し立て、
取り調べ者が呆れて尋問を諦めたという逸話のあるオカーン艦長は、
「タング」を指揮して錚々たる戦果を挙げた猛将でしたが、
この群狼作戦に指名された時も、

「一匹狼で暴れることのできる台湾海峡を単艦で哨戒することを選んだ」

ため、「タング」は別行動となりました。
艦長の判断で作戦を断ったりできるのかどうかは少々疑問ですが。


しかし、この選択をした結果、「タング」は、哨戒1ヶ月目の10月25日、
船団攻撃中に護衛艦の1隻第46号海防艦によって探知され、
しかも、回避行動中に自らが発射した魚雷が
自分の艦の後部魚雷室に命中し、沈没してしまうことになります。

自分で自分を撃沈してしまうって、一体どういう状況なのか、
お分かりになる方、おられますか?

海上に脱出したオカーン艦長は他の8名の乗員と共に救出され、
日本の捕虜収容所に収監されて戦後生還しました。

なお、日本側は「タング」の沈没地点が浅いことから、
捕獲を試みましたが、失敗に終わっています。

さて、この時のウルフパックがどうなったかというと・・・?

まず英語による「シルバーサイズ」の記録から見ていきましょう。

🇺🇸
「シルバーサイズ」の第11次哨戒は非生産的であったが、
この時、被災した姉妹潜水艦の救助に協力した。

「サーモン」(SS-182)は激しい深度充電で大破する中、不利な砲戦で
敵の護衛艦と戦いながら浮上し、脱出を試みていたのである。


ウルフパックの僚艦である「サーモン」が被災したとあります。

それでは日本語では?

🇯🇵
10月30日
僚艦の「サーモン」が都井岬の沖合い130海里の海上で、
補給部隊の護衛、第22号海防艦と砲戦の末、大破する。

この部隊は、エンガノ岬沖海戦に出動した機動部隊
(指揮官小沢治三郎中将)への補給を行っていた。


群狼作戦によって、「サーモン」はこの時すでに
タンカー「たかね丸」(日本海運、10,021トン)
を北緯29度18分 東経132度06分の地点で航行不能にしていました。

「シルバーサイズ」はこれに対し魚雷を6本発射して、
おそらく1本を命中させて沈没させた
と書かれています。
(この部分、覚えておいてね)

「シルバーサイズ」は「サーモン」を守るため、
砲撃の閃光によって護衛艦の注意を引いてからすぐに潜航して逃れ、
群狼作戦の僚艦、
潜水艦「トリガー」(SS-237)
そしてそれに
スターレット(SS-392)とともに、
被災した「サーモン」を警護しながらサイパンに護送し、
11月3日に無事に到着を果たした。


はて、「スターレット」はいつの間にここに現れたのか?

ウルフパックの戦果が文書で残されなかったせいか、
よくわからないことになっているので、ここで
助けられたという潜水艦「サーモン」の記録を見てみます。

■「サーモン」視点

「サーモン」の記録によると、11回目の哨戒で彼女が群狼作戦を組んだのは
「トリガー」および「スターレット 」 
となっています。

そう、「シルバーサイズ」とは最初から組んでいなかったということですね。

この群狼作戦でモムセン少将のいうところの「トレーラー」だったのは
潜水艦「トリガー」だったと考えられます。

10月30日、「トリガー」は小沢治三郎中将機動部隊の補給部隊を発見し、
まず「たかね丸」(日本海運、10,021トン)に魚雷を2本命中させます。

「サーモン」は群狼作戦のセオリーに則り、続いて「たかね丸」を攻撃。
魚雷を4本発射し、2本を命中させました。

ちなみにこの時護衛についていた4隻の中に、過去に
サム・ディーレイ艦長の「ハーダー 」(USS Harder, SS-257) 
を仕留めたことのある第22号海防艦
のちに「トリガー」の撃沈を幇助した第33号海防艦がいました。


「サーモン」は直ちに護衛艦らによる激しい爆雷攻撃を受け、
深度300フィート(90メートル)の深いところまで潜航して、
そこで一旦は水平になって耐えていたのですが、損傷を受けていた上に
続けての激しい爆雷攻撃を受けたため、さらに
500フィート(150メートル)まで潜航することになりました。

おそらく潜水艦映画でお馴染みの、艦体が圧力で軋む音と、
爆雷の振動に全員が息を潜めて天井を見るという、
あの光景が実際に「サーモン」の中で行われていたのでしょう。

しかし(ここからの展開も実に映画的なのですが)漏水が始まり、
ついに深度の維持をコントロールできなくなったため、
「サーモン」のナウマン中佐は、浮上して戦闘を行うことを決定しました。

現場で「たかね丸」乗員を収容していた第22号海防艦は、
浮上してきた「サーモン」を発見するや、全速で追跡してきました。


第22号海防艦

しかし、慎重に第22号海防艦が潜水艦の様子を覗っていたため、
「サーモン」は数分で艦の傾斜を修正し、数カ所の損傷を修理しました。

座して死を待つのではなく、戦うつもりで浮上した「サーモン」は、
相手との距離をジリジリと詰めながら、
4インチ砲や20ミリ機銃を準備して戦闘体制を取りました。

第22号海防艦も、抜かりなく第33号海防艦を援護に呼んでおいて、
12センチ高角砲や25ミリ機銃を構えて接近していきます。

先制攻撃は「サーモン」の方でした。

敵側面から50ヤード以内を通過し、20ミリ砲と甲板砲で彼女を攻撃し、
両艦は500メートルもない至近距離で砲撃戦、銃撃戦を展開します。

至近距離での銃撃戦となると、乾舷の高い海防艦は、被弾により
乗員4名が戦死し、24名が負傷する他、艦橋部分も損害を受けます。

そこに第33号海防艦が到着し、ウルフパックではありませんが、
2隻で「サーモン」を挟んで攻撃を加えてきました。

「サーモン」は第33号海防艦にも果敢に反撃しながら、
友軍潜水艦に対して戦闘位置を連絡し救援を求めました。

この時それを傍受したのが「シルバーサイズ」であったと考えられます。

「シルバーサイズ」視点では、彼女が中心となって戦い、
彼女の働きで「サーモン」が生還したかのように書かれているのですが、
実際は「サーモン」は、援護があったからというより、
ほぼ単独で強力な海防艦2隻を相手にして一歩も引かず、
おりからのスコールに紛れて自力で逃げ切っています。

友軍潜水艦「トリガー」「スターレット」「シルバーサイズ」が
救援要請を受けて駆けつけた時、「サーモン」は爆雷による損傷以外に、
海防艦からの砲撃で艦体の117箇所に損傷を負い、満身創痍の状態でした。

そして、先ほど、「たかね丸」にとどめを刺して沈めたのは
「シルバーサイズ」であった、とわざわざ赤字で書きましたが、
「スターレット」の記録によると、とどめを刺したのは「スターレット」で、
「シルバーサイズ」ではありません。

最後に、念には念を入れて、沈没した「たかね丸」の記録を見てみます。

■タンカー「たかね丸」視点

「たかね丸」は、
「第22号海防艦」「第29号海防艦」「第33号海防艦」と共に
第1補給部隊を編成し、1944年10月21日に徳山を出航、
23日に古仁屋沖に到着の予定で奄美大島に向かった。

任務はレイテ沖海戦に参加する小澤機動部隊への補給だった。
部隊は古仁屋沖に23日午後6時に到着し、
28日から29日に海戦後の小澤機動部隊に対して、
奄美大島で約9500トンの燃料の補給を行った。

 補給後、部隊は奄美大島東口を出航したが、(略)
「たかね丸」の後部機械室付近右舷に2本が命中し、
同船は航行不能となった。
 
この時
「たかね丸」を雷撃したのは米潜水艦「トリガー」だった。
最初に艦首発射管から魚雷6本を発射したが命中せず、
次に艦尾発射管から魚雷4本を発射して
全てを命中させて航行不能にしたという。

これに続いて
米潜水艦「サーモン」が「たかね丸」に
魚雷4本を発射して2本を命中
させたという。

 2隻の米潜水艦のうち「サーモン」は護衛艦の爆雷攻撃で損傷し、
浮上して戦闘を行うことを決意した。

「第22号海防艦」と「サーモン」は大砲や機銃で激しく撃ち合い、
両艦共に被弾したが、「サーモン」はスコールを利用して
燃料を流しながら戦場を離脱した。

交戦した「第22号海防艦」はこの戦闘で戦死者5名、
負傷者20数名を出し、艦首付近に若干の浸水を生じた。

 米潜水艦と海防艦が交戦中、
「たかね丸」は右舷中部に魚雷(3本と推定)を受け
重油に引火し大火焔をあげて沈没した。

これは
米潜水艦「スターレット」による雷撃だった。
同艦は魚雷6本を発射し、4本を命中させたという。



「シルバーサイズ」ははっきり言って何もしてません。


潜水艦の個人的記録が禁じられていたのと、戦果報告が
2ヶ月も後という措置がとられたせいで、この期間に
色々と書き換えやら記憶違いやらが起こった結果でしょう。

わたし個人も、状況から考えて、「シルバーサイズ」は
単にたまたま「サーモン」からのSOSをキャッチして駆けつけ、
サイパンまで警護していっただけで、ウルフパックどころか
攻撃も行っていないのが真実だと考えます。


ちなみにこの時「サーモン」と死闘を演じた第22号海防艦
艦首が大きく沈み、排水作業を行いつつ11月1日に呉に帰投しました。

その右舷には「サーモン」との激戦による無数の弾痕が残されていましたが、
この後も船団護衛などに従事しつつ、無事に終戦を迎えています。

続く。




「日本への道」〜スミソニアン航空宇宙博物館「空母の戦争」最終回

2021-04-14 | 歴史

スミソニアン航空宇宙博物館の「空母の戦争」シリーズ、
ようやく最終回となります。
アメリカが日本本土に攻撃を行うに至ったことを、
このコーナーのタイトルでは

「日本への道」

としているわけですが、この侵攻においてもアメリカ軍の推進力となったのは
やはり空母であったことはまちがいありません。

というわけで、この地図は1945年の連合軍の作戦図となります。
南太平洋からカロリン諸島を飛び石のように進行してきて
アメリカと連合軍のステージはいよいよ日本本土に迫ってきました。

マッカーサーの南太平洋部隊はフィリピンに上陸し(左下)
マケインのタスクフォース38は台湾経由で南シナ海へ、
そしてミッチャーのタスクフォース58はサイパンを取った後、
硫黄島を経て沖縄、東京への爆撃、そして最終的に
赤い爆発マーク💥で表される広島と長崎への原爆投下となったわけです。

ここにはこのように記されています。

1944年の最後の数ヶ月間、高速空母がフィリピンの侵攻を支援し続けている間、
日本の神風特攻隊の攻撃が激化し、5隻の米軍空母が被害を受けました。

1945年に沖縄の侵攻が始まり、ハルゼー提督は第三艦隊を南シナ海にみちびき、
そこでインドシナの湾岸線を攻撃しました。

次第に米空母艦載機による東京への本土爆撃は当たり前になっていきましたが、
その反面台風神風特攻隊が米軍の艦船や人命を奪うことになります。

日本の聯合艦隊の「残骸」は呉港で攻撃を受け、全壊し、
偉大な戦艦「大和」も斃れました。

そして1945年8月6日、広島は原子爆弾投下により壊滅的な打撃を受けました。

英語媒体では特攻隊のことをすべてカミカゼと称しますが、
「特別攻撃隊」という言葉が翻訳されていないので、
特攻隊=カミカゼアタック、が正式な訳語となります。

実際にはカミカゼは正しくは「シンプウ」であり、さらに全体名称ではなく、
特別攻撃隊の部隊名のひとつにすぎない、ということを知っているアメリカ人は
ほとんどいないのではないかと思いますが、とりあえず説明を見てみましょう。

■ カミカゼ ”DIVINE WIND”

この頃になると日本軍は空中戦において優位で数が十分な時と違い、
アメリカ艦隊に対する従来の空襲は成功する可能性はほとんどないと結論づけました。

唯一の望みは、経験の浅いパイロットを敵艦の甲板に激突させることで
航空機に直接誘導ミサイルの役目を果たさせるということでした。

レイテ沖海戦から終戦までの間に、約2500機の日本軍航空機が
連合国の軍艦に対する「自殺任務」に派遣し、そのうち「ヒット」したのは
アメリカ側では474件と記録されています。

連合国艦隊に対するこの神風特攻隊の攻撃は、
太平洋における戦争の最終的な結果を変えることは決してありませんでしたが、
アメリカの艦船の全てのクラスで大きな損害と命の損失があり、
それが与えた影響は「異常」なものとなりました。

大西瀧治郎帝国海軍中将

第一航空艦隊長官であった大西提督は、神風特攻隊のコンセプトについての
創案とその展開に寄与した人物としてクレジットされています。

それまでそのような戦術が歴史上大規模に試みられたことはありませんでしたが、
そこには確かに戦略上の利点があることが大西提督によって明らかにされたのです。

自殺ダイブは航空機の経験の浅いパイロットにも実行が可能な上、
墜落を制止するのが実質非常に困難であり、それを阻止するには
到達前に航空機を破壊するしか方法はないという点で画期的でした。


いろんな特攻についての英語での記述を見てきましたが、
これほど特攻の効果について端的かつ率直に述べているのは初めて見た気がします。

感情的な判断はともかく、人道上の是非などを取っ払ってそのものをみた場合、
確かに特攻というのは戦略的利点が少なくない戦法であることは確かです。

だからこそ追い詰められた日本がその道を選択したということなのですが、
ここでは実際の作戦としての採用までの苦渋の経緯と、戦後大西が
特攻隊員の死の責任を取って自決したことなどは一切触れられていませんので、
まるで特攻が効率第一で選択されたかのような印象を受けます。

”DEATH FOR FAMILY AND COUNTRY”(祖国と愛するもののための死)

これらの若いパイロットたちの多くは、大学在学中あるいは卒業したばかりであり、
高貴ではあるが絶望的な目的のため自らの命を犠牲にして
「片道任務」(ワンウェイ・ミッション)を行おうとしています。

日本の軍事指導者たちは、彼らの感動的な犠牲が国民の士気を高め、
一方で敵に不安と恐怖を与えることを期待していました。

”Near Miss" ニアミス

陸軍兵士と海兵隊員が沖縄の洞窟と掩蔽壕を通り抜けながら戦っている間、
海上沖合の艦隊乗員たちは負けじと同じように激しい砲火を行い、
戦いに身を投じていました。

そして侵攻艦隊に対する激しい空中からの攻撃は1945年4月から毎日行われました。

戦艦「ミシシッピ」が迫りくる特攻機からかろうじて被害を逃れた瞬間です。

しかし「ミシシッピ」はこの後6月5日にやはり同じ方向からの攻撃により、
右舷の船殻に激突して上部「ブリスターコンパートメント」に中程度の損傷をうけた、
とあり、1月にも特攻機による中程度のダメージを記録しています。

カミカゼの痕”Aftermath of Kamikaze”

この惨憺たる光景は、1945年5月4日、琉球で特攻機が突入した後の
護衛空母「サンガモン」のハンガーデッキの様子です。

「サンガモン」(USS Sangamon, CVE-26)は、イリノイ州の
サンガモン郡のサンガモン川に因んだ名前で、もともとは
民間のオイル会社の所有だったのを海軍が買い取って給油艦にしていました。

  •  

太平洋ではクェゼリンとエニウェトクの戦いに参加し、ニューギニアで展開。
サマール沖海戦で初めての特攻の洗礼を受けます。

そして5月4日、慶良間諸島で航行していた「サンガモン」は
特攻機部隊の攻撃を受け、これに対して陸上戦闘機が9機を撃墜しましたが、
残る1機は19時ごろに「サンガモン」の左舷艦尾部めがけて突入してきました。

これをかろうじてかわしたのち、一機(陸軍飛行第105戦隊三式戦「飛燕」
もしくは海軍第17大義隊の零戦)が雲の中から突入し、操舵室中央部に命中。

爆弾は艦内部で爆発し、わずか15分の間に、艦のあちこちから
制御不能なほどの火災を起こし、この結果、
死者11名、行方不明者25名、21名の重傷者を出しました。

必死の消火活動が終わったのは突入から約4時間後のことです。
生き残った乗員たちは互いの幸運と健闘を称えあって、
皆でアイスクリームを食べました。🍦

そして乗員の一人はアイスクリームを舐めながら(たぶん)

「わが艦の飛行甲板を突き抜けたあの男は俺より立派だ。
俺には、あんなことはやれなかっただろう」

と呟いたといわれています。

「サンガモン」は最終的には1960年8月に大阪で廃棄処分となりました。

■ 本土攻撃”Attack On The Japanese Homeland”

1945年7月1日、ハルゼー提督はマケイン提督のタスクフォース38と共に
レイテ湾を出発し、日本本土を1ヶ月にわたって襲撃しました。

その目的は、残存している日本の空軍力、海軍力、そして商船を破壊し、
通信と工場に壊滅的な打撃を与えることでした。

Japan Naval Base at Kure Harbor, Honshu in Ruins

帝国海軍聯合艦隊の残存している艦艇を殲滅するために
空母を使って空襲が行われました。

戦艦「榛名」は一番最初に攻撃によって着底したと報告されます。

1945年6月22日、「榛名」は6月22日B-29の直撃弾を受け、
江田島の小用海岸で防空砲台として係留されていましたが、
7月27、28日の呉軍港空襲により、マケイン中将率いる
第38任務部隊により20発以上の命中弾を受けて大破浸水、着底しました。

”Fightin Hannah" ファイティン・ハンナ

このコピーはUSS「ハンコック」のニュースレターで、メジャーな軍艦で
定期発行されていた典型的なタイプの刊行物です。

1944年4月15日に「ハンコック」が最初のオペレーションを開始してから
1945年8月15日、つまり戦争が終わった日まで刊行されました。

「ハンコック」の愛称は女性名の「Hannah」だったんですね。

写真の説明は、

「1945年1月12日に私たち自身の500ポンド爆弾が誤って爆発した後の
飛行甲板の様子です」

続いて

「1月23日1600、我々は悲しいことに、爆発と火事で命を落とした
7名の士官と43名の下士官兵を海に葬りました。
1月23日、ウルシーに入港後すぐに迅速な修理が始まりました」

右側は

「6回の攻撃が我々の甲板を通り過ぎ、それら全ては日本の空軍に
空中での大混乱を起こさせました。
17機のジーク、4機のヴァル、16機のオスカー、6機のトージョー、
2機のベティ、2機のディナ、5機のトニー、19機の正体不明の敵機が
全て空中で破壊されました」

などと書いてあります。

 

[昭和20年] No.TS-256

■ ”Hiroshima" 広島・日本

1945年8月6日、アメリカ陸軍航空隊の3機のB-29爆撃機が広島上空に接近しました。
午前8時15分、ポール・チベッツ少佐操縦の先導機である「エノラ・ゲイ」は
原子爆弾を投下し、およそ7〜8万人の人々が爆発と火事で即座に亡くなりました。

8月9日、テニアン島から飛来したB-29が、長崎に2発目の原子爆弾を投下、
これによって3万5千人の人々が殺害されることになります。

8月15日の朝、ニミッツ提督は降伏のメッセージを受け取りました。
戦争は終わったのです。

この「降伏」にはsurrenderではなくcapitilatedが使われています。

■ ”WAR OVER" 終戦

「戦争は終わった!」

と赤字で大きく書かれたニュースは、先ほどの「ハンコック」発行の
「ファイティング・ハンナ」特別版です。

日本が降伏し、戦争が終わると同時に、この艦内紙の役割も終わりました。
1945年8月15日が「ファイナル・エディション」(最終回)となっています。

そして「ミズーリ」艦上でニミッツ提督がサインしている写真が
このコーナーの最後にありました。

調印式についてはテーマの「空母の戦争」とは関係がないので省略しますが、
今回ハルゼーについて調べていて、このとき、重光葵元外相調印を行うのに
手間取っているのを(片足が義足なので当然ですが)
見苦しい引き延ばしと思い、

「サインしろ、この野郎!!サインしろ!」

と罵り、また、調印式の最中は

「日本全権の顔のど真ん中を泥靴でけとばしてやりたい衝動を、辛うじて抑えていた」

と言っていたというのを知り、すっかりこのおっさんが嫌いになりました。

さて、スミソニアンの「空母の戦争」の最後に、
「エセックス」に帰還したものの、敵の銃撃で死亡していた銃撃手を
愛機の「アベンジャー」ごと海に葬っている高画質映像をあげて終わりにします。

着艦後、航空機から遺体をおろさずに死亡確認をして指紋を取り、
皆で甲板から機体を海に落とす一連のシーンです。

LOYCE DEEN TRIBUTE—TBF Avenger Gunner, Killed In Action, Burial At Sea, USS Essex (CV-9)—NOV 5, 1944

 

スミソニアン博物館「空母の戦争」シリーズ終わり

 


「1000ヤードの凝視」クェゼリンからパラオまで 〜スミソニアン航空宇宙博物館「空母の戦争」

2021-04-05 | 歴史

スミソニアン博物館の「空母戦の歴史」は、いよいよ
日本が決定的に立ち直れなくなるフィリピンでの海戦までやってきました。

まずは、レイテ沖海戦に先立ち、機動部隊が配置されました。

 

■第58機動部隊

ちょっとわかりにくいのですが、米海軍の58機動部隊とは、
高速機動部隊(Fast Carrier Task Force)が第5艦隊に配属された時の名称で、
これが第3艦隊に配属されると38機動部隊という名前になります。
58TFと38TFは同一部隊であることをご了承ください。

 

さて、1943年12月と翌1月、ギルバート諸島から出撃した部隊が
マーシャル諸島の日本軍に爆撃を行なっている間、高速機動隊は休暇を取り、
その間に新たな指揮官が再配置されることになりました。

飛行士としてパイオニアであったマーク・ミッチャー海軍少将は、
海軍の高速空母機動部隊の指揮官に任命されます。

ミッチャーは空母12隻と艦載機700機あまり、そして戦艦、護衛艦合わせて
数十隻の軍艦をTF58に配備しました。

そして次の6ヶ月間、TF58は中央太平洋においてマーシャル諸島の侵攻支援、
トラック島の日本軍の拠点を襲撃し、パラオとマリアナ諸島に施設を設置しました。

1944年までに史上最大の空母先頭となったフィリピン海戦の舞台が整ったのです。

TF58がいかにこの期間太平洋の隅々まで侵攻し尽くしたかということを
一眼でわかるように表した行動図です。
現地のマップに、わかりやすいように日本語を振っておきました。

ここに記したどの島の名前も、太平洋の戦争について知識をお持ちなら
誰でも聞いたことのある名前ばかりでしょう。

TF58の空母だけ名前を挙げておくと、

第1機動部隊 エンタープライズ ヨークタウン ベローウッド

第2機動部隊 エセックス イントレピッド キャボット

第3機動部隊 バンカーヒル モンタレー カウペンス

第4機動部隊 サラトガ プリンストン ラングレー

 

戦艦:「ドレッドノート」の新しい役割

第二次世界大戦中、太平洋の戦艦対戦艦という伝統的な海戦はほとんど行われませんでした。
その代わりに、戦艦はTF58に統合されて、その必要に応じ、
夜間の水上行動中に起こる敵の空襲に対する防御という形の支援を提供しました。

より速度の遅い戦前の戦艦の多くは、太平洋において、海兵隊と陸軍が行う
水陸両用作戦という「本質的ではあるが魅力的とはいえない任務」で使用されました。

ドレッドノート(dreadnought, dreadnaught)とは「怖れ知らずの」という意味で、
同名のイギリス海軍の戦艦の登場以来、「超弩級戦艦」の階級名となった言葉です。

大艦巨砲主義の時代は終わりを告げ、時代は航空戦に移っていき、
「戦艦」はその役割を時代に合わせて変えていった、ということをいっています。

 

第58機動部隊は陸地攻撃に戦艦の艦砲射撃を使ったりしていますし、
この説明によると、水陸両用作戦は戦艦の「本質」だそうですから、
決して役立たずと言っているわけではありませんが、要するにこの時代、
空母による航空戦を制するものが勝利を制していた、ということなのです。

それならこの時代に大枚叩いてあの弩級戦艦を作っていた日本って何だったの、
ということになりますが・・・・それについては何もいえねえ(笑)


ところでこの写真の戦艦は、

USS 「ニュージャージー」 New Jersey

で、第二次世界大戦中アメリカ海軍に存在した戦艦のうち最も大きく、
最も速かった「アイオワ」級の4隻のうちの1隻です。

最大時速61キロを誇る「ニュージャージー」は157門の砲と各種銃を備え、
対空防御にも万全を期していました。
加えて水上と陸地攻撃のための9門の16インチ主砲を装備していました。

「ニュージャージー」の「War Log」としてアルバムの1ページが貼ってありました。
まずこれが、主砲を「レッツゴー」させているところです。

おそらく艦橋から見た発砲の様子。

20ミリ機銃に配置される乗員と、40ミリの装填風景。

偵察用の水上機が発進したところです。

顎に手を当ててイメージフォト風ポーズをとるのは

マーク「ピート」ミッチャー海軍中将
Vice ADM. Marc A.’Pete' Mitsher USN

彼が第58機動部隊の指揮官に任命されたのは1944年1月のことです。
彼はアメリカ海軍航空に自らが得た四半世紀の経験を全てを注ぎ込みました。

ミッチャーは海軍の最も中心的な空母パイロットの一人であり、
パイオニアとして空母運用のドクトリンとその方法論について開発、
研究、そして整備を行い、実際にはドーリットル隊が行なった東京空襲
そしてミッドウェイ海戦では「ホーネット」を指揮したという、
いわば「空母の育ての親」の一人であったことは間違いありません。

ところで今名前をタイプしていてふと思ったのですが、この名前は
「ミッチャー」というより「ミットシャー」「ミッシャー」
の方が発音としては正しいように思えます。
ドイツ系移民なので、彼の先祖がドイツでは「ミッシャー」だったのは間違いありません。

当ブログではミッチャーについて、

「戦う愚か者」

というタイトルでその海軍人生をまとめたことがあります。
ねっからの「空母野郎」で、決して名声を望まず、戦後も空母航空の存続に尽くしました。

侵略へのプレリュード:クェゼリン

全部で150機以上の日本軍機が破壊されたとされる、第58機動部隊の
三日間にわたる攻撃ののち、1944年2月1日、米海軍の軍艦は
クェゼリン侵攻を支援するために敵の軍事施設を爆撃しようとしていました。

アメリカ軍の作戦名は「フリントロック(火打石)作戦」です。

防衛態勢が整っていなかった日本軍は短期間の戦闘で全滅し、   
委任統治領とはいえ、アメリカにとっては最初の日本領土の占領となりました。

余談ですが、このクェゼリン島には朝香宮家出身の皇族軍人、
侯爵 音羽正彦大尉が勤務しており、この戦闘で30歳で戦死しています。

Tadahiko ou.jpg

当初音羽大尉は大鳥島(マーカス)にいたのですが、「危険だから」と
わざわざ高松宮親王がクェゼリンに転勤させていました。

これは、アメリカ軍がクェゼリンを急襲することを
誰ひとり予測していなかったということでもあります。

それだけに米軍の攻撃は文字通り火打石のような不意打ちとなったのでした。

ここでもう一度最初の地図を見てください。
クェゼリンはTF58進撃の「プレリュード」であったことがよくわかりますね。

そしてこの図でいくと、次はエニウェトクということになります。

東と西の間から上陸:エニウェトク

クェゼリン侵攻を成功させ、米軍は次にエニウェトクの確保を狙いました。
その理由は、ここは日本の本土まで563Km近くにあるからです。

エニウェトクの原住民であるミクロネシア人は彼らの独特の長いカヌーで
島の西から東に向かいました。
それはすぐに東から西へ侵攻する米軍の重要なステージングポイントになるでしょう。

Eniwetok landing 04.jpg

エニウェトクに上陸する米軍兵士。
水は綺麗だし暖かそうだし、ノルマンディよりはなんだか見た目悲壮感がないですが、
当事者たちにとってそんなことは全く関係ありません。

上陸したのは海兵隊兵士6,000名弱、陸軍兵士約4500名、
これを迎え撃つ日本側の兵力は総3,560名というものでした。

飛び石のようにエニウェトクに侵攻した理由は、ここが
日本軍が日本本土からマーシャル諸島へ航空兵力を送り込む中継点であったからで、
目的は飛行場および泊地を確保してトラック島とマリアナを落とすことでした。

アメリカ軍における作戦名は「キャッチポール作戦」といいます。

「サラトガ」「プリンストン」を含む第4機動部隊の水上艦が
沖から、まず艦砲射撃を行い、海兵連隊約3,500名上陸。

戦車を先頭に進撃した米軍に対し、日本の守備隊は猛烈に抵抗を続け、
最終的な占領まで三日もかかってしまいました。

日本軍は全滅しましたが、アメリカ軍も死者行方不明者195名、
負傷者521名と、無事だった数の方が少ないという結果になりました。

この戦闘が米兵にもたらしたストレスは過酷なものでした。

写真はエニウェトクでの2日にわたる絶え間ない戦闘を経て
戦闘ストレスを発症した19歳の海兵隊員セオドア・ジェームズ・ミラー1等兵です。

彼の虚ろな眼差しは、

Thousand-yard stare(1000ヤードの凝視)

と名付けられるものです。
クリックしていただくと、それらの検索画像が見られます。

1000ヤードの凝視(2000ヤードの凝視とも)は、
周囲の恐怖から感情的に切り離された戦闘員の見せる、空白の、
焦点の合っていない虚な眼差しを説明するために使用されるフレーズです。

このフレーズは、「ライフ」誌が第二次世界大戦時代、
特派員のトム・リーによって描かれた、この

「海兵隊員はそれを2,000ヤードの凝視と呼んだ」

という作品を発表した後に一般に普及しました。
この絵は、激戦で悪名高かったペリリュー島の無名の海兵隊員を描いています。

作者のリーはこの絵についてこう語っています。

彼は31ヶ月前にアメリカを離れた
彼は最初の戦闘で負傷した
彼は熱帯病にかかっている
彼は夜に半分眠り、一日中穴からジャップを追い出して殺す
彼の部隊の3分の2は戦死または負傷した
彼は今朝攻撃に戻るだろう
人間はどれだけこのようなことに耐えることができるだろうか?

写真のミラー上等兵は、撮影から一か月後の3月24日、エニウェトクに続いて
米軍の掃討作戦が行われたマーシャル諸島のエボン環礁で戦死しました。

太平洋のジブラルタル:トラック環礁

1944年2月17日の夜明け。
トラック環礁は商船と数隻の軍艦で混雑し、その滑走路には
36機の航空機が駐機しており、それは
1941年12月7日の真珠湾を彷彿とさせるものでした。

TF58の爆撃機による二日にわたる継続的な爆撃と、
空母艦隊の艦砲射撃の後、トラック島はもはや聯合艦隊にとって
使用可能な基地ではありませんでした。

アメリカ軍はトラック攻撃のことを「真珠湾の逆再現」と呼んでいる、
ということをふと思い出しました。

 
2月16日、米軍の攻撃が始まります。
 

空母から飛び立った艦載機ドーントレスの攻撃。
 
 
炎上しているのは「香取」です。

米軍攻撃隊5隻の大型空母から発進した戦闘機72機を主力とし、
完全な奇襲に成功しました。

アメリカ海軍は

「太平洋艦隊は1941年12月7日の日本艦隊による訪問に対し、
トラック島で答礼の訪問を行い、借りを一部返した

と発表しました。

「ファイティング・レディ」

TF58がトラック襲撃から退却した時、不意に空母は日本軍の雷撃機による攻撃を受けました。
この写真は、「ジル」が対空砲火の中を飛びながら胴体に牽引した魚雷を
「ファイティング・レディ」として知られる空母「ヨークタウン」に放ち、
わずかの距離で狙いを外した瞬間です。

カロリン島攻撃

マーク・ミッチャー指揮のTF 58は、3月22日にギルバート諸島の
マジュロに基地を置き、カロリンの西端にあるパラオ諸島に向けて進路を定めました。

残念ながら「価値のある」艦船はパラオからすでに撤退していました。

残っていた商船と157機の航空機は破壊され、カロリン諸島の
ウォレアイ環礁とヤップ島は攻撃されることになります。

 

続く。

 

 


「ヨークタウン」と日米の男たち ミッドウェイ海戦〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-29 | 歴史

スミソニアン博物館の空母を模してほぼ実物大に、
実際の空母から採取した素材でハンガーデッキの一部を作り上げた展示では、
人類史上はじめて、空母同士のガチンコ対決となった日米の海戦について
写真を上げながら紹介する親切なコーナーがあります。

前回はアメリカ側の「ア・フュー・ヒーローズ」(大勢のヒーローの中の一部)
を紹介しましたが、このコーナーを包括するテーマとなっていたのは、

■ The Gallant worriers(勇敢な男たち)

という言葉です。

太平洋の戦争での敵味方、両側には、有能な指導者、優秀な戦略家、
そして勇敢な戦闘員たちがいました。

この戦争において様々な空母での戦いに対し捧げられた各展示では、
主要な海軍の司令官たちについて言及されています。
ここに展示されているのは、太平洋における戦争を計画し、そして
それを戦った両側の男たちの厳選された写真です。

そして、英雄たちの写真とともに、誰のものとは記されていない
航空搭乗員のヘルメットが飾られています。

そしてまず、当時の日米両軍の搭乗員の衣装を着たマネキンが並んでいます。

まずこの右側は海軍搭乗員の典型的なスタイルで、S-2タイプといわれるものです。
カーキのコットン製スーツは夏用で、これにライフベストをつけています。

左は海兵隊エースだったジョセフ・フォスが寄贈した搭乗員用衣装一式です。

ジョー・フォスらVMF-121のパイロットと航空機は、
8月中旬からガダルカナル島上空の制空権を争っていたVMF-223を救援するため、
「ウォッチタワー作戦」の一環としてガダルカナルに派遣されました。

護衛空母「コパヒー」からカタパルトで発進し、ガダルカナルに到着した後は、
ヘンダーソン飛行場を拠点としたコードネーム「カクタス」と呼ばれる航空隊、
つまりあの有名なカクタス航空隊の一員となりました。

その後は零戦と対決して落としたり落とされたり(被撃墜2回)して
それでもなんとか生き延びた彼は、ワイルドキャット8機の小隊長として、

「フォスのフライング・サーカス」

を率いることになります。
部隊が撃墜した日本軍機は72機で、そのうち26機は彼の手によるものでした。

第一次世界大戦のエース、エディ・リッケンバッカーの26機撃墜の記録に並んだことで、
フォスは第二次世界大戦におけるアメリカ初の

「エース・オブ・エース」

の名誉を手に入れましたが、その後は実戦配備されるも、
戦時中の記録を塗り替えることなく引退しました。

 

そして、日本海軍航空搭乗員の冬用フライングスーツが展示してあります。
(実はアメリカ軍のもありましたが、写真を撮り忘れました)

説明によると、搭乗員服の素材は絹、綿、ウールの混紡で、裏地は綿のキルトです。
しかし、

「日本軍は海軍、陸軍の搭乗員服は見た目が同じです」

とあるのは何かの間違いではないかと・・・。
海軍の場合ダブルボタンで搭乗員はそれを開けてスカーフを見せていましたし、
陸軍はスタンドカラー風で、ぱっと見で違うとわかるんですがね。

また、こんなことにも言及しています。

陸軍の冬のスーツは裏地にキルトより毛皮がよく使われ、そして
服の内部には電気式ヒーターが内蔵されていました」

まじか。

なんとさすがはメイドインジャパン、ハイテク仕様だったんですか。

今では発熱コード内蔵のダウンという商品が一般にも出回っていますが、
この当時、電源はどこから引いていたのでしょうか。
というかこれなんかとっても構造的に危険な気がするんですが・・・。

また、海軍搭乗員用には二つバージョンがあったことも書かれています。

「JN-1は、JN-2シリーズの特徴である大きなウサギの毛皮の襟がなく、
頭の動きが容易だったため、搭乗員たちに人気がありました」

く、詳しい。詳しすぎる。
ちうか、搭乗員にどちらが人気があったなんてことをなんでアメリカ人が知っているのか。

JN-1とかJN-2はジャパンネイビーのことで、おそらく
スミソニアンが便宜上展示物につけた分類番号だと思われますが、
アメリカ軍の搭乗員服につけられている「S」は何の略かわかりません。

 

■ 日本海軍の「A Few Heroes」

スミソニアンの素晴らしいところは、「戦いの両側に勇敢な男たちがいた」
として、ちゃんと日本の搭乗員とその「戦果」を紹介していることです。

友永丈市海軍大尉 飛龍航空隊

「両側の英雄たち」ということで、日本側の「英雄」の紹介もあります。

この辺りがついうっかり「ジャップ」とか展示物の解説に書いてしまう
地方の軍事博物館とは違い、
国が運営しているスミソニアンだけのことはあります。

ここは現地の説明をそのまま翻訳しておきます。

友永大尉は真珠湾攻撃にも参加した、敢闘精神溢れ冷静な雷撃機パイロットでした。
彼はその日の早い段階でミッドウェイ島における空母打撃の航空を主導しました。
彼はミッドウェイ島への第二攻撃の必要ありと要求していますが、このことは
爆弾を換装するという南雲提督の運命的な決定に影響を与えました。

午後、友永大尉は「飛龍」の残った最後の10機の雷撃機を率いて、
アメリカ軍の空母を攻撃するための「片道任務」を遂行しました。

戦闘によるダメージのため、彼の航空機には敵艦隊海域まで到達して
攻撃するのに足りる燃料しか搭載していなかったのです。

友永大尉と彼のクルー4名は「ヨークタウン」への魚雷攻撃に次ぐ
体当たり攻撃で命を落としましたが、二発の魚雷命中を記録しています。

小林道夫大尉 「飛龍」艦爆隊

6月4日の深夜までに3隻の空母が壊滅したため、「飛龍」は迅速に
反撃を余儀なくされました。
真珠湾攻撃にも参加したベテランで、経験豊富な戦闘機パイロットである
小林大尉は、18機の急降下爆撃機の小隊を米軍空母に対し率いました。

小林大尉は爆撃隊を率いて「ヨークタウン」への攻撃を行いました。

彼と彼の部下は、爆弾を投下する前に航空機を異常ともいえるほど
低い高度に勇敢に滑らせ、優れた結果をもたらすことに成功しています。

18機の爆撃機のうち7機が急降下爆撃を行い、そのうち3機が
クリーンヒットを記録しました。

しかし、小林大尉とその同胞12人は、誰一人として
「飛龍」に戻ることはありませんでした。

mw17072701

ちなみに小林大尉はこちらの写真の方がかっこいいので貼っておきます。

1976年版「ミッドウェイ」の小林大尉。
搭乗員服姿の小林大尉に似た雰囲気の人が配役されているように見えます。


■ ヨークタウン撃沈す

前回ご紹介できなかったアメリカ軍側の「ミッドウェイ戦士録」から、
今日はこの人を取り上げます。

Elliott Buckmaster.jpg

エリオット・バックマスター大佐 
Cap. Elliott Buckmaster

ミッドウェイ海戦で唯一撃沈された米空母、「ヨークタウン」の艦長です。

「ヨークタウン」は空母「飛龍」から出撃した友永大尉の攻撃によって
航行不能に陥ったところ、伊168からの雷撃によってついに沈没したわけですが、
この「ヨークタウン」、実は内部に開戦前からこの艦長をめぐって
内部にかなりの不協和音があったことが明らかになっています。

 

開戦前にバックマスター大佐は「ヨークタウン」艦長を命ぜられました。

彼はアナポリス卒業後、長年にわたり艦艇勤務をしてきた艦乗りで、
ペンサコーラで
航空免許を取ったのはなんと47歳になってからでした。

当時、アメリカ海軍では、空母指揮官になるため、形だけ航空技術を学んできた
経験の浅い士官搭乗員を
「キーウィ」と呼んで見下す傾向があったのですが、
バックマスターはまさにこのキーウィのお手本のような艦長だったわけです。

「ヨークタウン」では副長のジョセフ”ジョッコー”クラーク始め、
多くの古参パイロットたちがこの人事に不満で猛反発しました。

当然ながら指揮系統には軋轢が生じ、内部も当然分裂は避けられず、
パイロットたちは艦長を無視して副長の命令しか聞かず互いを嫌悪し合う・・
不幸なことに「ヨークタウン」はそういう状態で開戦を迎えたのです。

さらに、開戦後、「ヨークタウン」に指揮官として座乗してきた
フレッチャー少将が
航空畑ではなかったということで、クラークらは完全にキレました。

「2人の”キーウィ”に艦を指揮されるのは耐えがたい!」

ということで、公然と反旗を翻し、副長のクラークは上層部やマスコミ、
あらゆる方面に二人の悪口を繰り広げて引き摺り落としにかかっていたというのです。

Rear Admiral Joseph J Clark.jpg「ジョッコー」クラーク

ちなみにクラークはチェロキーインディアン部族出身で、
初めてアナポリスを出たという「闘志あふれる」軍人でしたが、
この激しさは、初代「ヨークタウン」沈没によってバックマスターが退き、
彼自身が二代目の「ヨークタウン」艦長に就任してからも相変わらずでした。

今度は空母任務部隊司令官のパウナル少将に噛みつき、同じように
あたり構わず不満を訴えるという挙に及んでいます。

ちなみにパウナルを任命したのはスプルーアンスだったので、
クラークの「告げ口」先は、ニミッツなどの海軍上層部はもちろん、
フランクリン・ルーズベルトにまで及び、結局パウナルは更迭され、
「ピート」マーク・ミッチャーが空母艦隊司令官に就任しました。

最終的にミッチャーが功績をあげたので、クラークの「告げ口作戦」は
今日結果的に是だったとされています。

勝てば官軍ってやつですか。(棒)

クラークがこのように何かと激しい人だったというのは、その顔にも現れている気がします。
(ちなみにわたしはこの人については以前も紹介したことがあったのを
この時まで忘れていたのですが、あだ名の『ジョッコー』でソッコー思い出しました)

 

もちろん、ミッドウェイで「ヨークタウン」が沈没したのは
指揮系統の不和とは直接関係なく、ただ単純に不運であり、
友永大尉らの攻撃が巧みだったからに過ぎない、ということもできます。

少なくとも、もし艦長と副長がうまくいっていたら沈まずに済んだかも、
などというたらればの可能性は捨てるべきでしょう。


しかし、いずれにしても、この後も海軍の戦闘で一線に立ち続けたクラークとは違い、
バックマスターがこれ以降戦線の表舞台に立つことがなかったのは事実です。



さて、「ヨークタウン」は小林道雄大尉率いる18機の艦爆の攻撃を受けました。

艦上からは5インチ砲から27mm機銃、20mm機銃、12.7mm機銃、7.62mm機銃、
挙げ句の果てにはスプリングフィールド小銃まで使って反撃を試みましたが、
爆弾三発が命中し炎上、全ての動力を喪失、航行不能に陥りました。

写真は明らかに傾きがわかる「ヨークタウン」艦上の乗員たちです。

さらに応急処理の直後、友永丈市大尉率いる艦攻10機、さらには
次席指揮官橋本敏男大尉率いる第二中隊の魚雷2本を受け、再び航行不能になり、
バックマスター艦長はついにここで総員退艦を命じました。

最後まであきらめず救出の策を講じたものの、結局状態は悪化する一方で、
そのうち伊168に発見されて魚雷を受けることになります。

 
「ヨークタウン」は対潜戦を行いながらも艦を救おうとしましたが、
1942年6月7日、ついに沈没しました。

 

ちなみにこのとき「ヨークタウン」を発見後8時間待機、哨戒ののちに攻撃した
伊168は、その後の戦闘によって撃沈されていますが、攻撃時の艦長
田辺弥八少佐(海兵56期)は他の潜水艦に転勤となっていたため、終戦まで生き延びました。

Tanabe Yahachi.jpg

伊168はミッドウェイ島への砲撃を行ったのち「ヨークタウン」を発見、
これに水中速力3ノットで接近し、探信音が頻繁に感知される厳重な警戒を突破して
右舷を目標に距離1200メートルから魚雷を4本発射したところ、
これが空母に3発(アメリカ側では2発)、駆逐艦「ハムマン」に1発、同時に命中し、
両艦はこれによって沈没することになります。

魚雷の命中した瞬間の「ハムマン」、アメリカ海軍の公式再現ジオラマより。

その後の潜水艦に対する駆逐艦の攻撃は熾烈なものでしたが、
伊168は爆雷を避けるために米空母「ヨークタウン」の真下に潜み
5時間にわたるアメリカ軍駆逐艦の爆雷攻撃から離脱し生還したのでした。

 

戦後になって、艦長の田辺少佐はGHQから「ヨークタウン」への攻撃について
執拗な聞き取り調査(というかもはや尋問的な)を受けることになります。
アメリカ海軍はこのときの敗北をとても重視していたということになります。

そしてその結果、

「その慎重かつ大胆な攻撃方法に、調査を担当した米軍関係者も驚いたとされている」Wiki

1998年5月19日には、海底の「ヨークタウン」艦体が発見されています。
艦体には魚雷を受けたためにできた破口がはっきりと確認できるそうです。

続く。

 


「戦う愚か者」 ピート・ミッチャー大将 〜 海軍航空のパイオニアたち

2020-06-21 | 海軍人物伝

マーク・アンドリュー・’ピート’・ミッチャー 
Mark Andrew ’Pete' Mitscher 1887ー1947

海軍航空部隊のベテラン司令官

1917年 海軍航空士

1919年 NC-1での大西洋横断チームに参加

1922年 ワシントンDCの海軍基地司令

1922年 デトロイトでの国際航空レース海軍チームのキャプテン

1923年 セントルイスでの国際航空レース以下同文

Vice Admiral Marc A. Mitscher during World War II (80-G-424169).jpg

「ベテラン司令官」とキャッチフレーズにありますが、それは
彼、ピート・ミッチャーが参加した戦闘を書き出すだけで十分理解できます。

第一次世界大戦

第二次世界大戦

 ドゥーリトル空襲 ミッドウェイ海戦 ソロモン諸島キャンペーン

 フィリピンシー海戦(マリアナ沖海戦)レイテ沖海戦 硫黄島の戦い 沖縄上陸戦

まさにその個人史が近代海戦史そのものなのです。
しかしながら、その名前はハルゼーやスプルーアンスほど有名ではありません。

その理由は、彼が極端に寡黙で必要以外のことは公に喋らず、ましてや
ハルゼーやマッカーサーのように自己宣伝やそれにつながるスピーチもほとんど好まない、
真のサイレント・ネイビーであったことにあるとされます。

写真は第二次世界大戦の頃に撮られたものですが、小柄で痩せていて、
深いシワが刻まれた顔は歳より老けて見え(50代に見えます?)
聞き取れないくらいの低い声でボソボソと喋る姿は完全な陰キャで、
人によっては全くとっつきの悪い困難な人柄に見られていました。

しかし決して冷酷だったり自分のことにしか興味がないというわけではなく、
身近に彼と接した者は、彼の驚くほど優しい笑顔にほっとさせられるのが常でした。

特に自身が創世期のパイロットの草分けであったこともあり、
パイロットたちには畏敬されていただけでなく絶大な人気がありました。


【不遇の海軍兵学校時代】

ニミッツと同じく彼もドイツからの移民の息子です。
しかし、母方にウィスコンシン州議会の議員である祖父を持ち、
父親のオスカーもものちにオクラホマシティの市長になるという具合で、
決して労働階級の出ではありません。

ミッチャーはその父親の希望で海軍兵学校に入りましたが、
本人に海軍や軍事、ましてや国防に対する熱意も関心もないので、
その頃の彼に人生後半の成功を予想させる要素は全くありませんでした。

「名前がイケてない」

として彼についたあだ名は、オクラホマ出身であることから

「オクラホマ・ピート」

2年になる頃にはそれは短縮され、彼はピートになりました。
彼の本名にはピの字もないのにAKA「ピート」であるのはそういうわけです。

彼が2年生になったときのことです。

兵学校でグループ同士の喧嘩がもとで死亡者が出るという不祥事が起こり、
彼はその罪を問われて退学させられました。

不条理なことですが、彼が手を下した事件ではなかったにかかわらず、
成績が悪く日頃の態度もよくなかったため、退学組に入れられてしまったのです。

慌てた父親は入学の時に推薦者となった下院議員にもう一度頼み込み、
ミッチャーは再入学ということで1年からやり直すことになりますが、
本人がそれを希望していなかった場合、大変辛いものであった可能性があります。

事実年下の上級生からはいじめを受け、彼の性格はより内向きになり、
そのせいで非社交的で反抗的な人物というレッテルを貼られることになります。

寡黙でとっつきにくい後年の彼の印象は、この経験によって形成されたのは
ほぼ間違い無いのではという気がします。

1910年、ミッチャーは131名中103番という成績でアナポリスを卒業しました。

【海軍パイロット第33号】

不遇な兵学校時代にミッチャーは当時話題だった航空に興味を持ち始め、
任官後いくつかの艦艇勤務を経たのち、パイロットを志願します。

海軍パイロット第33号として水上機軍団に配属になったのが1916年のことでした。

 

彼の運命が変わったのは、ちょうどその頃、航空を取り入れた海軍が
大西洋横断というチャレンジングなミッションを計画し、
彼にそのパイロットを務めるチャンスが与えられたことでしょう。


1916年ごろ(29歳)のミッチャー

 彡⌒ミ
(´・ω・`) まだ20代なのに・・

「海軍航空の黄金時代」の最初にこの海軍の壮挙について書きましたが、
海軍が派出した3機のカーティスNC飛行艇のうち成功したのは1機だけで、
操縦していた機は濃霧で途中リタイアを余儀なくされています。

しかし成功しなかった2機もやはり歴史的な飛行に成功したという扱いで、
彼には海軍殊勲賞を授与されることになったのです。

兵学校を退学させられた超劣等生が、ある瞬間から「パイオニア」となり、
いずれ海軍航空界の「クラウンプリンス」になろうとは、
周りはもちろん本人ですら予期していなかったことでしょう。

それに彼は少尉時代に赴任先で見染めた女性とすでに結婚していたので無問題。
って何の話だ。

ちなみにこの時一緒にチャレンジを行ったメンバーのうち、彼を含む三人が提督になりました。

 

【ドーリトルレイド】

その後彼は「アローストック」乗組、「ラングレー」「サラトガ」飛行長、
「ラングレー」「サラトガ」副長、水上機母艦「ライト」艦長を経て
空母「ホーネット」の初代艦長に就任します。

彼もまた最初の航空メンバーとして、空母運用の基礎を築いた一人です。

 

真珠湾攻撃によって日本との戦争が始まったのはその2ヶ月後でした。

緒戦の敗戦続きで落ち込んでいるアメリカ国民を奮起させるために
空母から飛び立つ陸軍機で東京を奇襲する、という計画については、
可能かどうかが「ホーネット」艦長であるミッチャーに打診されて決まりました。

右ミッチャー大佐

そしてドーリトル中佐率いる16機のB-25爆撃機が日本から1,050キロの発射海域の
「ホーネット」甲板を飛び立ち、首都を含む本土を攻撃したのです。

 

【ミッドウェイ海戦】

先日お話しした映画「ミッドウェイ」にも、「ホーネット」艦長である
ミッチャーらしき配役は全く確認できなかったわけですが、(見逃していたら<(_ _)>)
まあつまりそれだけ一般には無名だったということに他なりません。

結果だけ言うとアメリカが勝利したミッドウェイ海戦ですが、
あの映画でも強調されていたように、「ホーネット」は
魚雷爆撃部隊であるVF-8を隊長のジョン・ウォルドロン中佐以下、
ショージ・ゲイ少尉を除く全員を失っています。

出撃前のVF-8ワイルドキャット、「ホーネット」甲板にて。


「ホーネット」から出撃した第8魚雷隊。

このときの「ホーネット」はまだ就役して2ヶ月であり、
搭載している航空団の経験もまだ浅いものでした。

飛行長であるリング中佐と血気盛んなウォルドロン中佐の間に、
日本軍の迎撃計画についての口論が起こり、ウォルドロン中佐は
自らの魚雷爆撃隊を投入することを強くミッチャーに進言し、
戦闘機の護衛なしで空母艦隊に向かって行きましたが、
零戦の要撃隊に全機撃墜されることになったのはご存知の通りです。

「ホーネット」の他の航空部隊は敵を見つけることができず、
帰還できなかった航空機もあり、戦闘結果なしの損失率50%となりました。
このためミッチャーは自らの指揮が失敗に終わったと感じていました。

特に、第8航空隊のメンバー、とくにウォルドロン中佐の戦死については、
強く自身の責任を感じ、後悔していたとされます。

そのため、彼は部隊全体に対し名誉勲章を確保しようと奔走しましたが、
その働きは成功しませんでした。

最終的に第8魚雷航空隊のメンバーは海軍十字章を授与されています。

 

この失敗はもちろん海軍内でも事後に問題にされ、精査されました。
ミッチャーは、リングとウォルドロンの間で論争になった時、
ウォルドロンの意見を却下したのですが、結果としてそれが失敗だった、
つまりミッチャーとリングの判断ミスだった可能性もあるのだそうです。

しかし、この件についてはなぜか戦闘日報が提出されておらず、
判断のしようがなくなっていて、彼のミスだったかどうかは今もはっきりしていません。

日報がなくなったのはミッチャーを守るための海軍の隠蔽だったという説もあるそうです。

 

ミッドウェイ作戦の前にミッチャーは少将に昇進していました。
ハルゼーは彼をガダルカナル、ソロモン諸島の戦闘司令官に任命します。

「ジャップとの航空戦はおそらく地獄になるだろうと思っていた。
だからわたしはそこにピート・ミッチャーを送り込んだ。
奴は『戦闘馬鹿』だと知っていたからね」

さすがハルゼーらしい口の悪さですが、この「戦闘馬鹿」は、
原文通りだと「Fighting Fool」となり、悪口というより、
1932年の同名の映画(西部劇もの)から引用しているのではと思われます。

彼が無口な「戦う将官」であることは、誰もが認めるところでした。

 

【カミカゼ特攻の脅威】

高速空母機動部隊タスクフォース58を司令として率いるミッチャーは
トラック島の襲撃を実施したとき、

「トラック島なんてナショナルジオグラフィックの記事でしか知らなかった」

と言ったそうですが、彼は常にこのような「ドライな」一言を渋く呟くという
ユーモアのセンスを持っていたようです。

タスクフォース司令時代、首席補佐官だったのはアーレイ・バークでしたが、
彼の前職は駆逐艦艦長でした。

バークが人事長などの役割より現場の戦闘指揮官を好んでいた話は有名で、
駆逐艦が燃料を補給するため空母に横付けしている現場に
バークとともに立ち会ったミッチャーは
近くの海兵隊員にこういったそうです。

「その駆逐艦が追い払われるまでバーク大尉を確保しておきたまえ」

ただしミッチャーは、水上艦出身のバークが参謀になったことを
決してよくは思っていなかったという話もあります。
空母のことは飛行機屋にしわからん!という信念を持っていたのかもしれません。


その後ミッチャーは司令としてパラオ、フィリピン、硫黄島、沖縄を転戦しますが、
この間彼を心から悩ませたのは日本軍の特攻の洗礼でした。

1945年5月11日には、旗艦「バンカーヒル」に零戦の突入があり、このため
乗員の半数が死傷、彼は旗艦を「エンタープライズ」に替えましたが、その後
またしても特攻機の突入を許し、ミッチャーはウルシーの長距離特攻を受けて
損傷した「ランドルフ」に乗り換えることになりました。

夜昼24時間問わずやってくるこの攻撃によってタスクフォースの乗員の精神は
限界に達するまでに消耗し、ニミッツもこのことを重く見ていたのは有名です。


【戦後 海軍航空を死守】

対日戦は勝利しましたが、軍事費は大幅に削減されることになり、
ここに軍の必要性をめぐって政治的駆け引きが勃発しました。

つまり、陸軍航空の擁護者たちの主張というのは、
原子爆弾の開発により、戦略爆撃機が今や提供できる壊滅的な破壊力が
国家を守ることを可能にするなら陸軍や海軍そのものは要らない、
という極論に近いものだったのですが、ミッチャーはこれに対し
真っ向から反対して海軍航空の断固たる擁護者であり続けました。

彼の声明はこのようなものです。

「日本を打ち負かしたのは空母の力である。

かの国の陸軍と海軍航空を倒したのは空母の優位性であった。

空母は我々にその本土に隣接する基地を与え、空母の力は最終的に
彼らが被った最も破壊的な空の攻撃をも可能にしたのである。

しかし空母の力が日本を打ち負かしたと言っても、それは単に
空軍が太平洋での戦いに勝ったということではない。

我々が航空と地上両面バランスの取れた統合の力の一部として
空母の力を行使したのである。

陸上に拠点をおくだけの空軍、海軍の協力のない空軍には
これらの壮挙は決して行うことはできなかったであろう」

それからすぐ、彼は海軍作戦部長への就任を打診されますが、
「その任にあらず」としてこれを辞退したため、その職には
チェスター・ニミッツが就くことになりました。

ミッチェルは1946年には海軍大将に昇進しますが、翌年2月3日、
現役のまま心臓発作のため海軍病院で死去しました。

 

続く。

 


海軍航空の黄金時代〜水上艇と飛行船 スミソニアン航空宇宙博物館

2020-06-01 | 航空機

今日は、ワシントンD.Cのスミソニアン博物館の展示から、
海軍航空のちょっとした歴史のパネル展示をご紹介します。

黄金時代の海軍航空

米海軍航空の歴史において、1920年代は、航空兵器が技術的に進歩し、
それらを海軍での使用に適応させる努力が実を結んだ時期として際立っています。

一方、1930年代は海軍の軍事力縮小と大恐慌により静かに始まりましたが、
後半にはより多くの航空機、艦船、航空基地の資金が支出されるようになります。

しかしどちらの10年間も、鋼体飛行船と巨大な巡視飛行機に乗って
海に乗り出すという作戦によって特徴付けられるものです。

という解説から始まる海軍航空の歴史、始まり始まり〜。

■ Pボート〜第一次世界大戦のレガシー

NC-1の搭乗員 ベリンジャー、ミッチャー、バーリン

NC-1というのは、1919年に大西洋を横断に成功した飛行艇です。

この三人はその搭乗員で、左から隊長のパトリック・ベリンジャー少佐
パイロットのマーク・ミッチャー少佐(中)、そして副機長のバーリン大尉

第一次世界大戦が終わった1919年、海軍の大西洋横断飛行遠征が企画され、
ベリンジャーは総指揮官としてカーチスNC-1に搭乗することになりました。

ベリンジャー中将(最終)

ベリンジャーはNC-3、NC-4とともに出発しましたが、
濃霧のため着水を余儀なくされ、貨物船に救出されました。
この頃の「横断」は、ノンストップではなく、島伝いにいくので、
出発から到着まで19日かかりましたが、とりあえずNC-4の一機だけが
リスボンに到着して大西洋横断作戦を成功させました。

ベリンジャーは成功こそしませんでしたが、リーダーシップを評価されて
海軍十字賞を授与されています。

ちなみに彼は真珠湾攻撃の時に

「Air raid. Pearl Harbor - this is no drill.」

と緊急放送した人物としても知られています。

海軍航空工廠製作(NAF)PN-9、1929

第一次世界大戦では海軍のF-5L水上艇が普及され、PN-9が
1925年9月、サンフランシスコからハワイまでの太平洋横断に成功するという
歴史的な飛行を行いました。

ジョン・ロジャース少佐とクルーはこのとき最後の964キロで
海に着水することを余儀なくされた後、帆走でゴールしたにもかかわらず、
この記録は水上艇の最長距離記録にレコードされました。

最長耐空記録じゃないからいいんだよ!ってか?

出発するところと、最後にガソリンが足りなくなって
ズルしているところ
(3:00〜)がバッチリ写っています。

 

■ 艦隊の哨戒機

1918年の終わりまでに、アメリカが保持していた唯一の戦艦
U.S.S「テキサス」です。
「テキサス」は支援なしで発艦でき、地上に着陸も可能な
ソッピース・キャメルのような偵察機のために
木のプラットフォームを備えていました。

7隻の他の戦艦は最終的にターレット・プラットフォームを装備し、
キャメル、ニューポート、ハンライオットHD-1ヴォートVE-7が運用されました。

ターンテーブル・カタパルト

第一次世界大戦以前に使われていた圧縮空気を用いるタイプは
戦艦や巡洋艦のターンテーブルにインストールされました。
1924年、推進力が火薬が空気に置き換えられ、1927年、カタパルト
戦艦の砲塔の上部に装備されるようになります。

ターンテーブル式カタパルトは1920年代の終わりに主流となり、
戦艦と巡洋艦クラスには哨戒艇の搭載が常態化しました。

■ 空母・キャピタルシップとその将来

アメリカ海軍は1919年、議会が石炭船の取得について議論を始め、
同時に空母を取得する本格的な段階に入りました。
海軍のリベラルにとって、それは海軍の空軍力の増強のための
もう一つの論理的なステップとされましたが、保守派にとって
大鑑巨砲があくまでも海軍力の核である考えられていました。

 U.S.S「ラングレー」=”カバード・ワゴン”

アメリカ海軍初の空母「ラングレー」は、石炭輸送船を改装したもので、
排水量はわずか11,050トン、全長は165mでした。
しかし、艦内にはマシーンショップや格納庫のための広大なスペースがありました。

U.S.S「サラトガ」とU.S.S「レキシントン」ー第二世代

1922年のワシントン軍縮条約により、第2世代の空母、
戦闘巡洋艦から改造された33000トンのサラトガとレキシントンが生まれました。

U.S.S「ホーネット」

1941年10月20日に就役した「ホーネット」は、真珠湾攻撃以前に
任務についた最後の空母でした。
アメリカは第二次世界大戦開始当時空母を7隻所持していましたが、
1945年の対日戦勝利の日、VJデイの段階で就役していた空母は99隻です。

 

米海兵隊航空団

 

1920年代、海兵隊の航空隊はドミニカ共和国、ハイチ、グアム、
そして中国における作戦に展開しました。
急降下爆撃、空中給油、救難救急脱出、そして近接航空支援などが
すでにこの頃から採用されています。

1933年には、海兵隊艦隊(the Fleet Marine Force =FMF)が創設され、
戦時における海上任務のを果たす使命の基礎が築かれました。
MFMはの後海軍艦隊組織の不可欠なパートとなります。

海兵隊初の飛行家

アルフレッド・A・カニンガム大尉がアナポリスで
航空過程を終了した1922年5月22日は、同時に

海兵隊航空団の誕生した日

とされています。
カニンガム大尉は史上初の航空隊司令として
第一次世界大戦でフランス戦線に加わりました。

Marine Corps Museum on Twitter:

戦後彼は最初の海兵隊航空団のトップとなっています。

ちなみに、急降下爆撃というものを開発したのは実は海兵隊航空団で、
この技術はドイツに取り入れられ、ドイツ空軍の名機Ju87を生みました。

リクルートポスター

海の上のFMF

海兵隊航空団部隊は空母艦載機に置き換えられることもありました。
最初の海兵航空隊は「海兵哨戒部隊14」(VS-14M)として
1931年に空母「サラトガ」に搭載されました。

10年後、海兵隊航空部隊はグラマンF3F2-S(写真)など
全てのタイプ計251機の航空機を有する13の部隊を有することになります。

 

■ 海軍の哨戒用リギッド・エアシップ(硬式飛行船)

硬式飛行船というのは妙な名称ですが、rigid airship を直訳したものです。

「ツェッペリン」と呼ばれるヒンデンブルグ号がこれにあたり、
定義としては、

 「エンベロープ内の揚力ガスの圧力によって形状が保持されるのではなく、
内部フレームワークによって形状を維持するタイプの飛行船=半剛体飛行船 」

ということになろうかと思います。

二つの世界大戦のはざまの20年間、アメリカ海軍は、わずかの間
この飛行船を哨戒用に採用してそれをエンジョイしていましたが、
ある日訪れた悲劇によってそれは短期間で終わりを告げました。

 

これは、アメリカ海軍が初めて取得し、機嫌よく運用していた

ZR-1, U.S.S 「シェナンドー」

が1923年9月4日、初飛行を行っている勇姿を撮ったものです。
「シェナンドー」は艦隊行動に偵察機として投入されました。

 

アメリカ海軍が保有した4隻の硬式飛行船のうち最初のもので、
レイクハースト海軍航空基地で1922年から1923年にかけて建造されました。

「シェナンドー」と一緒に写っているのは

給油艦パトカ(AO-9)

海軍最初の飛行船母艦です。

パトカには水面から38 mの高さの試験的な係留塔が立てられ、
「シェナンドー」の乗組員と地上支援要員のための居住設備を持ちました。

ヘリウム、ガソリンその他の必需品のための設備も造られ、
3機の水上機の収容・取扱設備も設けられるという充実ぶりです。

「シェナンドー」は給油艦パトカのマストに係留されての曳航も経験しています。

曳航中(船の人も怖かったかも)

飛行船による最初の北アメリカ大陸横断も成し遂げた「シェナンドー」ですが、
1925年、57回目の飛行の際、オハイオ州上空において暴風雨に遭遇し、
2つに裂けて墜落し、指揮官以下14名が死亡しました。

残りの29名は機体を気球のように操作することによって助かっています。

墜落現場

The Wrecked Shenandoah (1925)

残骸の処理を行っている映像が残されています。
なんかあきらかに一般人の野次馬とか子供が、
機体の周りをうろうろしているんですけど・・・・。

この頃は立ち入り禁止とかにしなかったんでしょうか。
持って帰ろうと思えば誰でも破片が手に入ったかもしれません。

墜落したのは初飛行からきっちり2年後の1925年9月3日でした。

そして冒頭写真ですが、「シェナンドー」型の3番機、

ZR-3 U.S.S「ロスアンジェルス」

は、海洋超えを目的とした2隻の大型飛行船の一つです。
米国海軍のために2つの硬い飛行船が海外で建造されました。

まず、ZR-2となるはずのR.38はイギリスに発注されたのですが、
アメリカに届けられる前ににイギリスでの試験飛行で墜落しました。

ドイツで建造されたZR-3は、1924年10月15日にニュージャージー州の
レイクハーストへの8143キロの配達飛行を無事完了し、これが
「ロスアンジェルス」と命名されることになりました。

空母「レキシントン」と一緒に写っているこの飛行船は、
8年4292時間に及ぶ、驚くべき、目を見張るほどのキャリアを得て
1932年6月30日、ご予算の関係で廃止されるまで飛び続けました。

USS Shenandoah (ZR-1) - Wikipedia

係留されている状態の硬式飛行船。シュールです。

File:ZR3 USS Los Angeles upright.jpg - Wikimedia Commons

風の状態によってはこんなことにも・・・。
乗り込むときこんなになってたらどうするんだろう。

 

黎明期の海軍航空シリーズ、続きます。

 

 


ワスプの赤道まつり〜空母「ワスプ」の戦後

2016-05-17 | 軍艦

アラメダの「ホーネット」博物館の展示をご紹介してきましたが、
そろそろ終わりに近づいています。
いろいろなアメリカ海軍の軍艦ごとに展示がされているわけですが、
空母「ワスプ」(USS Wasp, CV-18コーナーにやってきました。

「ワスプ」というと、どうしても(特にジパングの読者などは)、
日本が撃沈したあの、と思ってしまうわけですが、
その違いについて以前ここの展示を元に書きましたね。

ワスプ」メモリアル

つまり今日の写真は、そのとき(2014年)に撮り損なって、見覚えのない
展示品や写真を翌年もう一度行ったときに撮ったものです。



そのページを読んでいただければ、「ワスプ」が戦後しばらく日本に滞在していて、
1952年になってようやくアラメダに帰港することができた、と書きましたが、
この年、掃海駆逐艦「ホブソン」と衝突して「ホブソン」は沈没、
「ワスプ」の艦首部分は大きく引き裂かれるという大事故を起こしています。

「ホブソン」は艦長以下172名が沈没によって殉職しました。


これらが展示されている博物館となった空母「ホーネット」もそうですが、
先代が沈められた同名艦は、恨みはらさでおくものかとでもいった強い復讐心のせいか、
それともこのころになると、日本の国力がジリ貧になってくるのと相乗効果で
イケイケの戦果を挙げることができたのか、とにかくこの「ワスプ」も、
ウェーク島、サイパン・テニアン、そして本土攻撃と負けなしでした。

「ワスプ」が初めて日本軍によって損傷を与えられたのは、昭和20年3月19日の
いわゆる「九州沖航空戦」でのことになります。

ちばてつやの戦記漫画「紫電改のタカ」では、このときの空戦に主人公である
滝城太郎が所属する松山基地の第343航空部隊(通称『剣部隊』)が迎撃し、
主に滝城太郎の機転によって(基地上空に飛来した風船爆弾を空港に大規模な火を放ち
取り除いて出撃を可能にするという)大勝利を収めた、というシーケンスがあります。

このとき、米軍機動部隊の航空機と源田実大佐の剣部隊が交戦したのは史実です。
(風船爆弾は創作ですが)

「紫電・紫電改」約60機(3個飛行隊の可動機全機)が松山周辺上空で迎撃し、
日本側は、F6Fヘルキャット戦闘機など50機あまりを撃墜、
損失は被撃墜・未帰還16機とし、海軍航空隊「最後の大勝利」と言われてきましたが、
米軍の記録によると未帰還機・修理不能機数は日本側とほぼ同数だったそうです。


この日の損害が大きかったのはむしろ室戸岬に近づいていた空母だったでしょう。
マーク・ミッチャー率いる機動部隊は、 日本側の出撃可能な全航空兵力による反撃に遭い、
前日の18日は特別攻撃隊によって「フランクリン」「イントレピッド」「ヨークタウン」、
19日には「ワスプ」は「フランクリン」と共に大破しています。

ゲイリー・クーパー主演の映画「機動部隊」について書いたことがありますが、
主人公が艦長という設定であった空母(フランクリンがモデル)は、恐ろしい
「カマカゼ」(笑)によって戦闘不可能になり、戦線離脱を余儀なくされました。

このときのことを、日本のウィキでは「ワスプ大破」と記しているのですが、
どういうわけか英語の「ワスプ」のページにはこのようにしか書かれていません。

During this week, Wasp was under almost continuous attack
by shore-based aircraft and experienced several close kamikaze
attacks.
The carrier's gunners fired more than 10,000 rounds
at the determined Japanese attackers.

この週、「ワスプ」は沿岸基地の絶え間ない攻撃にさらされ、
数機の神風攻撃機の接近に遭った。
ガナーは繰り返しやってくる日本軍の攻撃に対し1万回以上にわたる砲撃を行った。

そしていきなり「4月13日、ワスプは爆弾ヒットの損害を修理するため帰国」
となっております。

日本側のWikipedia筆者はえてして、日本軍の、特に特攻隊による米軍の損害を
僅少に記す傾向があり、このことを「特攻の成果を矮小化する動き」
とわたしは穿った見方をここで披露したことがありますが、英語でも
個人が製作するWikipediaの記述では、特攻の被害が軽微であるかのように、
あるいは全くスルーして書いていなかったりすることが多いのに気づきます。


日本とアメリカではそうする理由は全く別ですが。




のちに「ワスプ」は日本近海で一機の特攻機の攻撃を受けました。
突っ込んでくる特攻機を発見したのは一人の機銃手でしたが、かれは
自分の方に向かってくる飛行機の操縦席を狙い続け、搭乗員が死亡するのが見えました。
しかし惰性を持った特攻機はそのまま「ワスプ」にむかってきたので、
機銃手はこんどは飛行機の翼だけを狙い、船への激突を防いだという話があります。

終戦1週間前の、8月9日のことでした。



さて、戦後修理を済ませた「ワスプ」は、一旦保管されていましたが、
1951年に再就役したとたん、「ホブソン」との衝突事故を起こし、
またまたドック入りとなりました。

このクリスマスカードの年号は1955年となっており、トナカイやサンタに
顔をすげられてしまっているのは、「ワスプ」の幹部であろうと思われます。
おそらくサンタクロースが艦長でしょうね。

冒頭のペナントは、1956年に行われた「極東クルーズ」のもので、
日本と台湾に就航したことがわかりますが、この年「ワスプ」は
CVからCVS、つまり対戦空母に変更されています。

ペナントにCVAとあるのは「攻撃空母」( Aはアタックの意)を意味し、
もしかしたら「CVS」(SはもちろんサブマリンのS)になる前だったからかも。


蛇足ですが、わたしは今回、CVは戦前の空母のことで、

C  CRUISER (巡洋艦規模の大きさの船)

V  VOLER (フランス語の”飛ぶ”)

C + V=(飛行機が)飛ぶ大型船=空母

だったことがわかりました。
てっきりCはキャリアー、Vはベッセル(船)だと思ってましたよ。ショック。 



少し時間は遡って1952年。
「ワスプ」がホブソンとの衝突事故を起こしたのは4月26日ですが、その後
10日で修理を終え、(なんと破損した艦首をホーネットの古い艦首部分と取り替えたらしい)
6月にはジブラルタルのタラワ、地中海に向けて航海を行いました。

ここにある一連の写真は、そのときの「赤道まつり」の様子です。
ありったけの船にあるシーツやタオル類で仮装した人たち。 
一番左は「ロイヤルジャッジ」だそうです。
女装する権利はやはりイケメンに限ります。 



画面下では、まるで西欧の拷問道具のような板に首とつっこまされ、
しかもズボンを脱がされて棒で叩かれている人が!
いじめか?



部分拡大図。やっぱりいじめられている。血まみれだし。
首をこんな風に固定して足元がこれって、実はすごい危険なんじゃないの?

うーん、アメリカ海軍の赤道まつり、なんだか殺伐としていますなあ。



ニコニコしながら整列しています。
艦長からの「本日の殊勲賞」とかの発表を待っているとみた。



両側から何かを投げられる中、走り抜けたら勝ち?みたいなゲーム。
走っている人の顔が必死です。



これは怖い。椅子に座った人を「処刑人」が死刑執行している。
マスクを被らされた人を椅子ごとプールに突き落としている瞬間なんですが、
プールといっても腰の高さもないので、これ危険なんじゃあ・・。

と、今頃言ってもどうしようもないですけど。

まあ、この2ヶ月前に大事故の大惨事を経験しているので
これくらいなんとも思わなくなってるってことなのかもしれませんが。



アメリカ人はこういうの好きですね。
息子が夏に参加するキャンプでも、毎週の「打ち上げ」で、くじにあたった参加者は
カウンセラー(先生)に水をかけたり、泡を顔に塗りたくる権利がもらえます。

ここでもかわいそうな犠牲者がわざわざドクロの旗を持たされ、
顔中に泡を塗りたくられております。



笑えねえ(笑)

後手に縛られ、床に転がされた人の顔は、白黒なので
わかりませんが、おそらく真っ赤なのではないでしょうか。

すでに戦争は遥か昔のことになり、よほどのベテランでないと、
実際にこの船で戦闘に参加した乗員はいなかったでしょうが、
それだけに何かこの殺伐とした笑いが不気味です。



この方は本物の従軍神父さんでしょうか。
右の人のTシャツには「ロイヤルCOP」とあります(笑)
あんたらロイヤルネイビーじゃないだろっての。

神父さん?が持っているのは「クライングタオル」。
これで涙を拭くようにゴールで持っているということだけはわかった。



もっと笑えねえ(笑)

なんか二人の人がすごく急いでいるっぽいので、どうもこの棺?を
今から二人でどこかに運んでいく競争かもしれません。



いやいやいやいや(笑)

あなたたち、それぜんっぜんしゃれになってませんから。
甲板でやってるから多分赤道まつりの出し物なんだろうとは思いますが、
この写真だけ単体で見せられたら、これ大事故かなんかで
甲板での緊急手術でも行ったのかと思ってしまいますよ。

やばい。この感覚はやばすぎる。


さて、冒頭写真の「極東クルーズ」に日本の旗があるので、
彼女がそのクルーズで日本に来た時の話をしておきます。

1956年の4月、サンディエゴを出発した「ワスプ」は真珠湾に向かい
まずそこで検査とトレーニングを受けました。
グアム経由で6月4日にまず横須賀に到着しました。
そのあと岩国を訪問し、8月いっぱいまで横須賀を起点に極東をエンジョイしていました。
(例の”ベビさん”を読んできたワスプの乗員も何人かいたかもしれません)

ところが、このとき、中国近海で海軍の哨戒機が撃墜されるということがあり、
ワスプはその捜索に参加するために現地に向かうことになりました。
搭乗員が捜索で発見されるということはなく、「ワスプ」はそのまま神戸に寄港、
横須賀に一旦立ち寄ってすぐに「極東クルーズ」を切り上げて帰っています。

1972年に退役、廃艦となるまでに28年と長寿をまっとうした「ワスプ」は、
第二次世界大戦の殊勲鑑ということでか、朝鮮戦争にもベトナムにも参加せず、
クルーズを行い、宇宙飛行士の揚収をしたりして悠々自適の晩年を過ごしています。




” I HAVE THE CONN"(もらいます)~空母「ホーネット」艦橋ツァー

2015-05-27 | 軍艦

空母「ホーネット」艦橋ツァー、続きです。
前回空母「ホーネット」の指揮所について艦隊司令だったマケイン中将と
ハルゼー元帥のハートウォーミングな逸話()で終わりにしましたが、
このマケイン中将は第38任務隊の司令官であったミッチャー中将と
任務隊隷下の第一群司令を交代し合っていた関係で、「ホーネット」に坐乗したのは
そんなにしょっちゅうだったわけではなさそうです。

自衛隊の護衛艦などでもそうですが、海軍軍人の任期というのは艦長職でもだいたい1年。
我々の感覚からは驚くほど短いものです。

 

艦隊指揮所らしい部分から移動する途中にあった得体の知れないもの。

「PELORUS」(方位儀)と書いてあるので方位儀だと思うのですが、
舷側に置かれているせいか蓋が閉められた状態です。
このおかまの蓋みたいなのを外せば方位儀の盤面が現れる?

 

ツァー御一行は艦橋をほぼ一列になって移動します。
次に案内されたのがこの船室。



ツァーガイドは必ずこのような「手頃な」年齢のお子様に椅子に腰掛けさせ、

彼なり彼女なりにアメリカ人らしくまず名前を聞き、

「ジェイミー、それではこの椅子に座ってまず何が見える?」

みたいな質問をしてそれを説明の導入につなげるというようなことをします。
この時の”つかみ”が何だったのか日にちが経って忘れてしまいましたが、
彼が要するにこの椅子が誰のためのものなのか、きっかけになるような発言をしてくれれば
こっちのもの、というわけです。

子供が座ってもかなり高い位置にあるので窓から外が見渡せるこの席、
このことを、ガイドは
 
「ホーネットのコマンディングオフィサーの席」

であると言っていた覚えがあるので()艦長席のことだろうと思われます。

ところで艦橋に配置される構成員は三種類に分けられます。

1、OOD、The Officer of the Deck(当直士官)

2、JOOD、The Junior Officer of the Deck(副直士官)

3、JOOW、Junior Officer of the Watch(操舵員)
 

OODは海軍海自でいうところの「当直士官」。

ナビゲーションについての責任、たとえば衝突回避などの措置を取るのもこの役目。
メインエンジンの制御についても受け持ち、コマンディングオフィサー(艦長)の
判断に必要な報告書を作成する係でもあります。

 

 

往時の使用例をどぞー。

これを見てふと思ったのですが、海上自衛隊の慣習である
赤だったり赤と青だったり黄色があったり、という椅子カバーの色分けは米海軍にはないんですね。

このセイバーリッチという軍人は1969年から1年だけ「ホーネット」の艦長だったのですが、
現在はもちろんそのお仕事中の写真を見ても、カバーがそもそもかかっていません。
「ファイナルカウントダウン」でカーク・ダグラスが色付きの椅子に座ってた記憶もないな。

というわけで、改めてあれは自衛隊独特であるらしいことが分かったのですが、
ということは、双眼鏡のストラップの色を含め海軍時代に生まれた慣習なのでしょうか。



さて、このセイバーリッチ艦長の任期を見ても、日米ともに艦長職は短期であるようですが、

wikiにも書いていないほどたくさんいる「ホーネット」艦長経験者の中で
どうしてこのセイバーリッチ艦長が有名なのかと言いますと、彼の在任中、
「ホーネット」は第二次世界大戦の功労艦として最後の花道ともいうべき、

「アポロ11号ならびに12号の乗員とカプセルを回収」

というミッションに参加しており、セイバーリッチ艦長はそのどちらもの任務を完璧に
やり遂げたのち、最後の艦長として「ホーネット」の退役を見送ったからです。

「ファイナルカウントダウン」でも、カークダグラス扮するイエランド艦長は
ずいぶんお高いところにふんぞり返って座っていた記憶がありますが、
「艦長の椅子」は、360度回転し、窓の外が一望できる高さにあります。



近くで盤面の写真を撮ることができなかったのでわかりませんが、
羅針儀かテレグラフ(速力通信機)であろうかと思われます。



年代を感じさせるテレビ型のモニターと、左側は風力、風向計。
風速は単位がわかりませんが83を指しているので、多分作動していないんでしょう。



艦長の椅子と羅針儀の後方にはこのようなコーナーが。
ここも中に入って写真を撮りたかったのですがお子様が退かなかったので
色々と重要なものを撮りそこなってしまったようです。

今年の夏はちゃんと撮ってきます。(−_−;)



時計もいつの頃からか針の動きを止めてしまったようです。

窓カラスの張り巡らされた艦橋の天井角の丈夫そうな時計には蜘蛛の巣がかかっていました。



空母にもサイドミラーがあったとは・・・・。
この鏡にもさぞかしいろんなものが映し出されてきたのだろうとついしみじみ。
経年劣化で鏡の層が剥がれてしまっていますね。





これが羅針儀でしょうか。
だいぶ部品がなくなってしまっているように見えます。



ALIDADEとは平板測量用器具で、水平器と定規を備え,平板上に載せて
地上の目標の方向距離高低差を測定するものの意味だと思うのですが、
ここに書かれているのは転じて「平板」から、もしかしたら甲板のこと?




扇風機、照明器具、スピーカー、電話の線らしいのがもう一緒くたになってカオスです。



これなんだと思います?
機械の横の黒いプレートにはレーダーと書いてあるのでレーダーなんですが、
昔のモニターは陽の光のもとでは見にくいものだったせいか、
光が入らないようなカバーをして覗きこむようになっていますね。

レーダーの後ろのスイッチのいっぱいついたボックスは、マイクです。




ベトナム戦争にもちょっと参加した「ホーネット」。
甲板上から哨戒のために飛び立つグラマンのトラッカー。

「ホーネット」は1967年の夏、作戦行動でずっとベトナムの海にいたこともあるそうです。



ニクソン大統領が「ホーネット」に坐乗したこともありました。
フラッグブリッジ、すなわち「ホーネット」が旗艦だったときに、
マケイン中将とミッチェル中将が代わりばんこにここに乗り込んだ、というところですね(笑)

「ホーネット」は人類初の有人月面着陸を果たしたアポロ11号の乗組員と司令船、
そして12号の乗組員と司令船を回収したのですが、アポロ11号の回収時には、
ホーネットの格納庫甲板内において、ニクソン大統領が、移動式の隔離室に収容された
アームストロング船長以下計3名の乗組員と対面したからです。


さて、わたしが「いせ」の艦橋で出航作業に立ち会った時、海軍海自伝統の
「いただきます」を目撃(しゃべっていたので正確には目撃しそこないましたが)
したのですが、アメリカ海軍にもこのような形式がちゃんと存在します。

たとえば、
当直士官の交代の様子を見てみましょう。


スミス中尉(仮名)はOOD、デッキオフィサーで、(ジョン・)ドゥ中尉が彼の交代員です。
ドゥ中尉は戦闘情報センター(CIC)をチェックし見張り中に起こると予想される必要な処置、
ナビゲーションで航路をチェックし全ての命令に目を通し、周囲の船舶の位置を確認。

これらが済んだら、ドゥー中尉はスミス中尉の前に立ち、

"I am ready to relieve you, sir."

あなたを交代させるための用意ができました、つまり交代準備完了です、といったところでしょうか。
このようにいい、 スミス中尉も

 "I am ready to be relieved.”

交代される準備完了、と告げます。
その後二人は引き継ぎ事項として自分が任務に立っていた時の確認要項を申し送り、
それらが済んだ時点で

"I relieve you, sir."

と改めて言い、スミス中尉の方は

 "I stand relieved. Attention in the  bridge, Lieutenant Doe has the deck."
(ブリッジに交代に立ちます。ドゥー中尉は甲板へ)

しかるのち敬礼を交わし、甲板に移動したドゥー中尉はそこで

"This is Lieutenant Doe, I have the deck."

と任務を引き継いだことを表明するということです。
海軍から続く慣例で現在の海自でも操舵を「いただきます」と言うように、
アメリカ海軍の持ち場を「I have」という独特の言い回しが定型化されているのも
おそらく昔からの船の上の慣例というものだろうと思われます。

ちなみにどちらも中尉であるのにドゥー中尉がスミス中尉に「Sir.」を使用しているのは
実際の階級に関係なく「こういうことに決まっているから」だそうです。

2番のJOOD、副直士官は、自衛隊だとだいたい1尉か2尉が充てられ、
必ずOODは3尉あるいは1佐というように階級が決まっています。 

 3番のJOOW、ジュニアオフィサーは、"conn"という任務を通常負うことになっています。

 connとはそのまま「操舵」という意味を持っており、つまり操舵員のこと。
「いせ」では艦長に航海長が「いただきます」と言っていましたが、上からだと「もらいます」
と言い、米海軍ではこの「いただきます」「もらいます」のときに

"I have the conn,"

というのが一般的で、他の言い方は

"I have the deck and the conn," 

となります。

全体的に組織でもラフで、形式を合理的に省略することの多いアメリカ人ですが、
海の男たちのしきたりは、ほかの世界ではないくらい厳格にそのまま引き継がれているようですね。







マケイン中将と神風~空母「ホーネット」艦橋ツァー

2015-05-26 | 軍艦

「ホーネット」の艦橋ツァーに参加したのは実は相当前、2013年のことです。
そのうちお話ししようと思いながらイベントが重なって、延び延びになっていました。
あまりにも日にちが経ちすぎて、せっかくツァーで解説員の話を聞いてきたのに、
こうして久しぶりに写真を見てもあまり思い出せることがなく(笑)、
つくづく、帰ってすぐにエントリをまとめるべきだったと後悔しています。



さて、日本では現存されているかつての軍艦は「三笠」だけだと思うのですが、例えば
学校の社会見学が行われたり、近くの園児が遠足で来たり、ということは・・・というか、
「三笠」に限らず、およそ自衛隊関係の資料館が課外授業に使われることはあまりなさそうです。

知覧の特攻記念館や広島の原爆資料館は修学旅行の目的地にもなるようですが、
(何を隠そうわたしの卒業中学の修学旅行は広島~四国で、原爆資料館見学が組み込まれていた)
それは日本の歴史の「負」の部分だけをクローズアップした”平和教育”の一環としてであって、
翻って旗艦として勝利を収めた日本海海戦を語ることになる「三笠」や9条的に「憲法違反」
の存在である自衛隊施設は対象外、
というのが日本の教育現場の総意だからではないかと思われます。

この「ホーネット」博物館を訪れたとき、何組もの学校単位の見学や、

幼稚園児の群れを目撃したのですが(いずれもサマーキャンプのアクティビティだと思われる)、
日本とはこういう軍事的なヘリテイジに対する考え方が随分違うものだと思わされました。



軍事的遺跡ではあっても、歴史や軍事について「だけ」を学ぶ場所という位置付けではなく、
特に学齢層が見学に訪れることを踏まえてか、「ホーネット」艦内には
いたるところにこのような教材的説明のポスターが貼られていました。

例えばこれですが、飛行機の上昇、下降の基本的メカニズムみたいなのがわかりやすく
図解で記されています。航空力学の範疇ですかね。


機体は浮力より重力が上回った時上昇するが速度は落ちる

浮力は重力より劣位になる

機が下降すると浮力が失われるが速度は増す

速度が増すと機に上昇するために必要な浮力を与える

浮力が重力より優勢になるまで機は上昇を始める


当ブログは航空の専門家も見ておられるので、用語的に正しいのかどうか、
書くのが少しためらわれるところですが、とりあえずこう翻訳してみました。

で、それが何か?


とわたしなど思ってしまうというか、なぜ「ホーネット」博物館で
航空力学の図解を必要とするのかいまいち解説の言いたいことがわからぬのですが、
これも学校単位で訪れる見学者のための「サービス」かなあと思ったり。

わからないといえば、この近くにあった、



これも、なぜここで説明することなのか少しわかりかねます。
一応これも翻訳しておきますと、

#1 暖かい海水(26~7℃)はハリケーンにエネルギーを与え、
  さらに水蒸気が湿度の高い空気と雲を作る

#2 上昇気流となる

#3 空気が上昇するため風はストームの上を外側に流れる

#4 湿った空気が嵐の雲を発生させる

#5 風が外からハリケーンを攪拌することによって規模が増大する 


はい、よくわかりました。・・・・・でそれが?

とここでもおもわず真顔になってしまったのですが、航空力学はともかく、こちらの話題は
「ホーネット」と若干どころかかなり関係があったことが後からわかりました。

 前のシリーズエントリで、この日本軍に沈められた「ホーネット」の後釜として急遽
「ホーネット」と名付けられたところの航空母艦が、まるで先代の仇を討つかのように、
阿修羅の様相で(というのはかなり適切でない表現かもしれませんが)宿敵の日本軍と次々交戦し、
その武功抜群を讃えられて(この表現もあまり適切ではありませんが)、

7つの従軍星章、殊勲部隊章をあたえられた全米の9隻の空母のうちの一隻となった、
というようなことを縷々お話ししたわけですが、そんな最強空母にも勝てないものがありました。

沖縄近海で見舞われた台風です。



あらあら、甲板がまるで紙のように折れてしまっていますね。
「大和」特攻となった海戦で「スーパー・バトルシップ・ヤマト」(本当にそう書いてある)は
俺たちが撃沈した!と大威張りの「ホーネット」でしたが、この坊ノ岬沖海戦後、
米軍の沖縄上陸を支援していたホーネットは台風に襲われ、あっさりと崩壊してしまいます。

この「神風」にはひとたまりもなく、彼女はサンフランシスコへの帰港を余儀なくされたのでした。




さて、アイランドツァーは最上階の艦橋にまず上がってきました。
日本の軍艦では戦闘指揮所と操舵が一緒になることはまずなく、というのは
ひとところに全てが集中しているとそこが攻撃された場合ジ・エンドになってしまうからですが、
米空母も同じ理由で役目が分散されているのだそうです。




これが「ホーネット」の「司令官の椅子」だ!

「ホーネット」は旗艦でもあったので、艦隊司令が坐乗し指揮を執る艦隊用の指揮所と
艦長が指揮する操艦用の艦橋は別になっていたはずです。
冒頭にもお断りしたように、このアイランドツァーに参加してから日が経って
記憶がすっかり薄れてしまったので断言はしませんが、ここは艦隊指揮所の方です。



レイテ沖海戦は、連合国側からは延べ734隻の艦船が参加していますが、
このときの「ホーネット」は、第3艦隊38任務隊の4つのタスクグループのうち、
第1群の旗艦として、空母ワスプを含む約40隻の陣頭に立っています。

このとき「ホーネット」に艦隊司令として坐乗したのが、

ジョン・S・マケイン中将

でした。
共和党のマケインさんのお祖父ちゃん(シニア)で、息子のマケインJr.も
大将まで出世した海軍軍人ですが、この元祖マケインのアナポリスでの成績は
全く奮わなかった(116人中79位)ということでです。

51歳でなぜかパイロットを任命されるなど、
出世の王道をひた走ったわけではありませんが、
部下を鼓舞させるような
カリスマ性のせいか、はたまた飲む・打つが豪快だったせいか、
いつのまにか(笑)
海軍少将に昇進し、アーネスト・キング大将という後ろ盾を得て、
キングの肝いりで
創設された航空部の司令官の座と中将への昇進を手に入れることになります。

とにかく、「ホーネット」のマケイン中将は、この海戦で退却する栗田艦隊に痛打を浴びせ、
その後38任務隊の司令であったマーク・ミッチャーを蹴落として(?)代わりに司令官となりました。


艦隊司令としての彼の仕事はほとんどが「神風との戦い」に尽きました。
「フランクリン」「ベローウッド」「レキシントン」をことごとく特攻隊にやられ、
マケインはいかにこの恐ろしい攻撃を回避すべく作戦の陣頭指揮を取り、ある程度それは功を奏したのですが、
同じ「神風」でも、前半でもお話しした「自然の神風」には敗北を喫することになったのでした。

海戦終了して司令官になったばかりの第36任務隊は、沖縄海域で「コブラ」という名の台風に遭遇しますが、
あの「レッドブル」こと猛将ウィリアム・ハルゼー提督

「台風を避けずに中を突破する!」

と力強く言い切ったのに対し、マケインはもみ手をしながら(かどうかは知りませんが)

「そうです!台風何するものぞ!さすがはハルゼー閣下!あんたは大将!」

(といったかどうかは知りませんが)追認してしまったのが運の尽き。
案の定艦隊は大自然の威力には到底太刀打ちできず、駆逐艦3隻がこれにより沈没してしまいます。
国民に人気があったので更迭とまではいきませんでしたが、この責任を問われて
ハルゼーはスプルーアンスと交代、我らがマケインはもう一度ミッチャーと交代して
38任務隊司令から元の第1群司令に格下げとなりました(T_T)

しかしハルゼーとマケインコンビの不幸はこれに止まらなかったのです。

沖縄戦が始まった時、またしてもハルゼーはスプルーアンスと、マケインはミッチャーと
交代しており(このあたりの人事が全く理解不可能なのはわたしだけでしょうか)、
艦隊の指揮を執ったのですが、この二人が組むとなにかネガティブなものを引き寄せるのか、
(後者の名前のせいだ、と思うのはわたしが日本人だからでしょうか)
第38艦隊の進路に再び大型の台風が接近していることがわかりました。

さあ、今回はどうする、ハルゼーとマケイン!

「台風の只中を突破するっていうのも今考えたら無茶だったな」
「そうですよ閣下。今回は進路を予想した上でちゃんと避けないとですね」
「・・・きさまあ、何を上から目線で言ってやがるんだ!
前回俺の意見に全面的に賛同してたのはどこのどいつだこのマザー◯ァッカー野郎」
「伏字で罵らないでくださいよ~。今はそんなこと言っている場合じゃないでしょ」
「うむ、そうだな・・・・で台風の進路はどうなっとる」
「ここがこうでこうくるはずですから、この際台風の南にまわり込みましょう!」

というような会話ののち(かどうかは知りませんが)二人が予測した台風の進路は
大外れ。

きいさまああ!全くハズレやのうて大当たり、台風直撃やないかい!」
「閣下!落ち着いてください!今はそれどころでは」
「きさまがこの責任を取って今すぐ台風から抜け出せ!
たった今から戦術指揮をきさまに全て移譲する!」

「ひええええ」

という会話の後(かどうかは知りませんが)マケインはハルゼーに変わって艦隊指揮をとり、
なんとか台風から抜け出したのですが、被害は甚大でした。
・・・・・それが、前半でお話しした「ホーネット」の甲板破損、「ベニントン」も同じく大破、
重巡「ピッツバーグ」は艦首をもぎ取られて漂流という災難だったのです。

この「ハルゼー・マケインコンビ」は今度こそ厳しく訴追されました。
ハルゼーはまたも国民の人気を理由になんとか首の皮一枚つながったようなものですが、
マケインの方は後ろ盾だったキング大将からも見捨てられ、更迭の通知を受けます。

その時には病に侵され体重が45キロになるなど憔悴しきって、帰国したらすぐに退役しようと
決意していたマケイン中将は、「最後の花道」として戦艦「ミズーリ」艦上の
日本の降伏文書調印式に参列し、帰国と同時にこの世を去りました。

この参列はハルゼーの好意(か罪滅ぼしかは知りませんが)により実現したと言われています。

合掌。



艦橋の指揮所窓からは、かつて軍港でありここから「ホーネット」が出撃した
アラメダの港湾地域が一望に広がっています。
向こうにうっすらと見えているのが、このときわたしが車でここに来る時渡ってきた
サンマテオブリッジという連絡橋で、方角でいうと南になります。

かつてマリアナ海で「七面鳥撃ち」をした航空機や本土空襲に向かう飛行機の発着はじめ、
坊ノ岬沖での「大和」の沈みゆく姿、初めて月着陸を果たした人類を乗せたカプセル、
そしてマケイン中将を苦しめた二度の「神風」・・・・・・・。


いたるところにひびの入ったガラスは、それら全ての出来事を、この艦橋に映してきたのです。



続く。