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メイド・イン・アメリカの戦争〜ハインツ歴史センター「ベトナム戦争展」

2021-04-23 | 歴史

開戦時の南北ベトナムについてさっくりと前回お話ししましたが、
今回は当時の国家指導者について取り上げていきます。

■ ホー・チ・ミン大統領 北ベトナム

”ホーは南ベトナムの反乱軍を支持した”

ホーチミン大統領は「ベトナム独立の父」でした。
ホーは共産主義が植民地主義に対抗していることを称賛し、
それがベトナムにとって最善の道であると位置付けたのです。

1954年にベトナムが分割された後、ホーと共産党指導者たちは
北ベトナムとして知られるベトナム民主共和国の発展に焦点を当てました。
ハノイが主島に制定されたのもこのときです。

一方、南ベトナムのゴ・ジン・ジエム政権では、ホーに共感した元ベトミンが標的となります。

数千人がジエム大統領によって投獄され、殺害された人は数知れませんでした。
南ベトナムではジエム政府に対する反乱が次々と起こり、彼らは北に助けを求めました。


1959年、ハノイの指導者たちは南ベトナムにおける革命を支援することに合意しました。
1960年、彼らはジエムに対抗する国家解放戦線(NLF)への反乱を組織します。

北ベトナムは指揮官、物資、そして兵士を南に送り込み、解放軍最前線は
一般的な支援と正規および非正規な軍隊の支援を受けることになります。

紛争は今や内戦、二つのベトナムの再統一をめぐる「骨肉の争い」となったのです。

アメリカでは南部の反乱軍を「ベトコン」、またはVC(ベトナム語で共産主義者の別称)
と呼び、北ベトナム軍をNVAと呼んでいました。

1959年、共産主義同士たちと会議を行うホー・チ・ミン。
若い人が多いですね。

TAY NGUYENの春

ハノイの美大生だったTrần Hữu Chấtが1962年に製作した漆の彫刻の再現バージョンです。
画面は抵抗のシンボルが書き込まれています。

ホーチミンと黄色い星の旗のイメージが高々と掲げられ、
フランスとの戦争の英雄であるベトミン兵士が中央高地の人々の間に立っています。

作者は、国家統一のための新たな闘争への支持を表そうとしています。

1967年、このアーティストは戦うために南ベトナムに行きました。
そして生き残り、86歳になってこのベトナム戦争展のために
学生時代に製作した「タイ・グエンの春」を再現しました。

オリジナルはハノイのベトナム国立美術館に展示されています。

 

■ ゴ・ジン・ジエム大統領 南ベトナム

”ジエムは管理を統合した”

Ngo Dinh Diem - Thumbnail - ARC 542189.png

ゴ・ジン・ジエム大統領は、大多数が仏教徒であるベトナムで経験なカトリック教徒でした。
彼はインドシナにおけるフランスの植民地支配に反対しており、
1954年にベトナムが分割された後、南部に反共産主義のベトナム共和国を設立しようとしました。

彼は選挙で選ばれた初代大統領ということになっていますが、
案の定というか、この選挙は不正の結果である可能性が高いとされています。

サイゴンはそしてその首都に制定されました。

ジエムは党の支配下にある近代国家の建設に熱心で、
多くの地方の人々を新しい集落に強制的に移していきました。

そしてまた多くの仏教徒や元ベトミン(ベトナム統一戦線)を含む、
彼に造反した人々を独裁政権下で取締ったため、
内戦と暴力的な抵抗が引き起こされることになりました。

ちなみにベトコンとは「ベトナムの共産主義者」のことですが、
この名付け親はジエムです。

別名ドラゴンレディ🐉

この頃仏教徒の弾圧に抵抗した僧侶が焼身自殺を行うという事件がありましたが、
そのときに弟ヌーのヨメのマダム・ヌーが、それを馬鹿にして

「僧侶のバーベキュー」

呼ばわりをしたため、これが世界中の顰蹙を買い、炎上してケネディに嫌われ、
応援していたアメリカですら風向きが悪くなるのはもう少し後のことになります。

初期、共産主義に対するジエムの立場は、アメリカの指導者から信頼されていました。

(というか、まあアメリカにとって都合がよかったってことなんでしょう)

1957年、アメリカを訪問するように招待されたジエムは、米議会で演説し、
ブロードウェイを「ティッカーテープ・パレード」で行進し、
熱狂的に迎えるニューヨーカーたちに手を振って見せました。(冒頭写真)

いかにもあるあるですが、当時のマスコミは、彼を政府の思惑通りに
「アジアの解放者」と持ち上げ、
彼の名前は西側諸国でも瞬く間に有名になっていきます。


ジエムの訪米後、南ベトナムへのアメリカの金と武器の流れは
一気に加速していくことになります。
アイゼンハワーはまた、ジエムの元ベトミン政策を遂行するのを助けるために
米軍顧問を派遣することになりました。

ちなみにこの顧問のうちの二人は、1959年、
「ベトナムにおけるアメリカの戦争」になりつつあった頃、
最初に戦争で亡くなった民間人となりました。

ベトナム語を自動翻訳にぶっ込んでみましたら、

「犯罪のパートナー!」

徴兵制」

「強制労働」

「殺害」

「処刑(真夜中の裁判)」

「食料と財産の没収」

「テロと破壊」

「彼らは犯罪の一部を共有しています」

「この盗賊どもの疫病から南ベトナムを救うために
あなたの政府と協力してください」

真ん中の三人には

「彼らに気を付けろ」「悪を引き起こす」

「ベトミン」「ハノイ」「北京」

まあ要するにベトミンと北に対するネガティブキャンペーンですね。

米国情報局は南ベトナム政府を支援するためにこのポスター始め、
その他の資料を作成して配布しました。

つまり中央に描かれた南部の共産主義者(ベトミン)、ホーチミン、
そして毛沢東が万が一支配権を握った場合に陥る事態を警告しているのです。

(毛沢東がすげーデブに描かれていて草)

ゴ・ディン・ディエムに対する革命の1周年を記念する切手

 

■ ケネディ大統領

”ケネディはグリーンベレーを送った”

ジョン・F・ケネディが1961年に大統領に就任したとき、
彼はベトナムをどうするかを選ばなければなりませんでした。

彼はゴ・ジン・ディエム大統領を引き続き支援するべきでしょうか?

JFKは、革命的なナショナリズムとの戦いには簡単に勝つことも、
地理的に遠くから共産主義と戦うことが簡単ではないことも知っていました。

しかし彼はまた、もし南ベトナムが共産主義の手に陥ったとしたら、
自身が大統領として厳しい批判に直面するだろうとも信じていました。

ケネディ大統領と国務長官ロバート・マクナマラは、米国の力と専門知識を盾に
アンティ(ポーカーの掛け金、分担金のこと)を上げる決定をしました。

ジエムの政権を維持するために彼らは大量の武器、そして
グリーンベレーを含む数千人の民間および軍事顧問を派遣しました。

そして、アメリカ人はベトナム共和国陸軍(ARVN)と、南ベトナムの
山岳民族モンタニヤールを訓練して、ベトコン(共産主義者)と戦ったのです。

1963年、ケネディ大統領が国防長官ロバート・マクナマラと
統合参謀本部の議長であるマックスウェル・テイラー将軍から
彼らの南ベトナム視察についての報告を受けているところ。

 

ベトコンはベトナムの実質的な領土を支配していました。

ベトナムの軍事援助司令部の下にあるアメリカの軍事顧問は
この統制を覆すためにディエム政権と力を合わせました。

 

”ケネディはジエム政権を潰した”

しかし、1963年にもなると、南ベトナムでの不安定な状態により、
主要なアメリカの当局者はディエムに反対の姿勢を取り始めます。

マダム・ヌーの『バーベキュー』発言をちょっとした?きっかけに、
ケネディ政権はジエムの弟、ヌーを更迭することを提言して拒否されたため、
それならばお前もいらん、とジエムを「切る」ことを決断しました。

そしてケネディ大統領以下アメリカ政府の黙認のもと、
同年11月2日、
南ベトナムの陸軍将校がクーデターを起こし、
ゴ・ジン・ディエムと彼の弟(マダム・ヌーの夫)を殺害しました。

しかし、そのわずか20日後、暗殺を黙認したケネディ本人が
凶弾に倒れ、暗殺されてしまうという悲劇が起きます。

南ベトナムにより介入し、手を引き始めたところで、
ケネディの路線は宙に浮いてしまうことになりました。


余談ですが、ケネディ暗殺を企画したのが軍産複合体であると噂される原因がここにあります。

前回、「戦争をしたい勢力が意図的にそれを起こしてきたのがアメリカ」
と書きましたが、ケネディとゴ・ジン・ジエムの関係が険悪になり、
さらにアメリカに呼んでパレードまでして持ち上げたジエムから手を引く、つまり
ベトナム介入そのものから手を引く決断をしたJFKを排除したかったのは、
普通に考えて「戦争を継続したい勢力」であったのは明らかだからです。


ただし、世間に出回っている「ケネディを暗殺したのは誰か」という推理を見ると、
諸説あり、どれももっともで、ベトナム戦争から撤退しようとしていたことだけが
彼が消された理由ではないようなので、これはあくまでも「理由の一つ」であり、
軍産複合体は決して「黒幕」本体ではないと考えられます。

 

さて、アメリカがその国土を分け、アメリカが介入したベトナム戦争。

アメリカ発、メイド・イン・アメリカの戦争であることはもう明らかですが、
ケネディ暗殺後、南ベトナムの不安な未来は、アメリカの新しいリーダーの手に移ることになります。


■ リンドン・ジョンソン大統領

ジョンソンは行動方針を計算した

ケネディ大統領死後、リンドン・ジョンソン副大統領が大統領に就任しました。
JFKの顧問の助言を受けて、ベトナムでとるべき道を選択しなければならなくなった彼は、
戦い続けることを決心しました。(というか余儀なくされた?)

米国当局はサイゴンにすでに広範囲に広がっていた腐敗と、
騒乱の繰り返しを懸念していました。

さらに悪いことには、ベトナム共和国(ARVN)の軍隊はベトコンに対し劣勢でした。

統合参謀本部議長は、ジョンソン大統領に対し、

「勝利するには大胆な行動とより大きなリスクを取らざるを得ない」

と助言したのです。

大胆な行動と大きなリスク。
これは何を意味するか、皆さんはもうご存知ですね。

ジョンソン大統領は北ベトナムに対する秘密の軍事行動を命じました。

これは1964年8月のトンキン湾での海軍対立につながり、
LBJは議会に報復措置を講じる許可を求めました。

そして彼はラオスでの秘密報復作戦を許可しました。
そこではCIAとモン族がラオス人とベトコンとが戦いを続けていました。

ところで1964年当時、ジョンソンにはベトナム以外にも問題を抱えていました。
一つは貧困と人種差別を減らすための法案の制定、もう一つは彼自身の選挙です。

彼は超保守であった共和党のバリー・ゴールドウォーターに対する
「和平派候補」の立場で選挙運動を行なっていました。

国民はこれに足し、ジョンソンがJFKの路線を引き継いで、
ベトナムへのアメリカの関与を拡大する可能性は低いと判断したため、
ジョンソンは選挙に勝つことができました。

しかし、彼は結果として戦争に介入を続け、選挙民の期待を裏切ることになったわけです。
これは、戦争をしないと言って大統領になっておきながら、
第二次世界大戦をやったルーズベルトにそっくり通じるものがありますね。

ルーズベルトがそのとき、

「わたしはやりたくなかったがこんなことが起きては仕方あるまい」

というアリバイ作りに大いに利用したのが真珠湾攻撃であり、
ジョンソンが言い訳のために仕組んだのがトンキン湾事件だったというわけです。

つまりアメリカの「リメンバー」って・・・そういうことなんですわ。

 

次回は、ジョンソン大統領が引き継いで以降のベトナム戦争についてです。


続く。