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1945年4月の新聞が報じる「阿波丸」事件〜スミソニアン航空博物館

2021-04-11 | 歴史

スニソニアン博物艦が空母の実物大展示とともに公開している
「空母の戦争」コーナーは、ついに最終章に入りました。

「日本への道」

というのがその最後のタイトルとなります。
真珠湾攻撃という空母の攻撃に始まり、日本本土への空母の攻撃に終わった
第二次世界大戦の太平洋での戦いですが、そのコーナーに
日本本土への攻撃がいよいよ始まったことを報じる新聞が展示されていました。

 

■ 1945年4月のアメリカ新聞が報じたこと

 

「ザ・ベイカーズフィールド・カリフォルニアン」という
あまり聞いたことのない新聞が展示されています。
まず大見出しは、

「東京大混乱 1500機の海軍機による爆撃後の炎」

これはどうも3月10日の東京大空襲の成功を報じているようですね。
どうやってそれを知ったのかは字が不鮮明でわかりませんが、
この攻撃の時東京では演奏会がおこなわれていて、それが中止された、
という小見出しが下の方に見えます。

映画「怒りの海」をここで紹介した時に、なんとなく非常時下の日本では
歌舞音曲の類が厳しく制限されていたような印象を持っていたので、
戦時下であっても当時の日本では演奏会は普通に行われていたし、
新響などの交響楽団も活動していたことを知ってちょっと驚いた、
ということについて書いたばかりですが、この見出しの「演奏会」が
文字通りの演奏会だったのだとしたら、その情報を裏付けることになります。

 

そしてその右下の2番目に大きな見出しは

「巨大なる我が米国艦隊 日本と戦う:ルソンのジャップを閉じ込める」

バターン、コレヒドールでマニラが陥落した後、日本軍はルソンに展開し
そこで米軍と死闘を繰り広げますが、食料の補給が途絶え、散逸した兵力は
追い詰められ、20万人がここで死んでいくということになります。

この見出しの「巨大米国艦隊」とは、キンケイド提督率いる第7艦隊を意味します。

そして対日本関連の見出しとして、

「ジャップのプリズンシップが沈んで1800名の同盟国人が死亡」

とあります。
プリズンシップというのは存在せず、要は貨物船で捕虜を輸送していたところ、
実はこれをアメリカ軍が攻撃して沈めてしまって、みんな死んでしまったよ、
というニュースですが、これは、時期的に「阿波丸事件」のことであります。

■ 阿波丸事件


阿波丸事件については昔(ブログを始めてまもない頃だったかな)
北京原人の頭蓋骨を載せていて、これが沈没によって失われたという
「噂」にからめて書いたことがあります。

 

ちょうどこの新聞が発行される前の1945年4月1日、シンガポールから日本に
2000名の乗船者を乗せて航行していた貨物船「阿波丸」が、米海軍の潜水艦、

潜水艦クイーンフィッシュ (USS Queenfish, SS-393)

の雷撃により撃沈されました。

「阿波丸」には安導権(Safe-Conduct)という病院船に準じる保護が約束され、
米軍も「阿波丸」の航路情報を各部隊へ通知し、攻撃しないよう命令していました。

しかし、潜水艦「クイーンフィッシュ」は台湾海峡で航行中の「阿波丸」に
潜望鏡における目視を行わずに攻撃を開始し、1分後には撃沈させてしまったのです。

これによって、「クィーンフィッシュ」が救助した、たった一人の捕虜を除く
乗員2000以上の人々が死亡しました。

新聞の記事には1800名のAlliesが死亡、とありますが、
それが全部捕虜だったのではありませんし、そもそも「阿波丸」は
新聞がいうような「プリズンシップ」などではなかったのですから、
ずいぶんいい加減な情報をもとに報じられていたのだなと思います。

見出しの論調を見ても、なんとなくですが、日本への非難調であることから、
記事では
安導権を無視した自軍の攻撃であることにはふれてもいないんじゃないでしょうか。

 

それでは「クィーンフィッシュ」はなぜ緑十字をつけた「阿波丸」を攻撃したのでしょうか。
後から軍法会議などで当事者の聞き取りを行ったところ、主な理由は

●命令書を艦長が確認しておらず、
「阿波丸」の位置情報の連絡も間に合わなかった

●情報そのものの文章があやふやだった

しかし、この理由意外に不思議なことがあります。

艦長はレーダーで発見した艦影をろくに視認もせず、
軍艦だと誤認したため、攻撃したと証言しているのです。

うーん・・・そんなことって、ある?

Charles Elliott Loughlin USNA.JPG

と訝しむ前に、ここに至った経緯を辿ってみましょう。

まずは「クィーンフィッシュ」艦長、

チャールズ・ラフリン(Charles Elliott Loughlin)

のこの時点に至るまでの戦歴から洗っていこうではありませんか。

まず、「クィーンフィッシュ」第1回目の哨戒です。

このときウルフパック(群狼作戦、潜水艦のチーム攻撃)で撃沈した
楽洋丸」ですが、これにも実は同盟国捕虜が乗船していました。

しかし、このときラフリンはこのうち18名を救助したことが評価され、
最初の海軍十字章を受章しているのです。

つまり、

敵船に自国の捕虜が乗っていて、これを知らず撃沈して殺害せしめても
戦時下では、このこと自体なんらの咎められることはなかった

ということがお分かりいただけると思います。

第2の哨戒では陸軍の特殊揚陸艦「あきつ丸」を撃沈しました。
この戦果に対して「大金星」を射止めたとして、ラフりんはまたしても受賞されました。

問題は、第3の哨戒で行なった船団攻撃です。

結論から言うと、ラフりんはこのときの攻撃に艦長になって初めて大失敗しました。

どう失敗したかは知りませんが、ウルフパックの僚艦、「バーブ」艦長
ユージーン・フラッキー少佐(ラッキー・フラッキーとあだ名のあった人)に、

「信じられんほど下手な魚雷発射w」

とディスられ、本人は日誌に「ちくしょおー!」と書くほどこれを悔やみました。

そして本人はもちろん、乗員一同もこの屈辱に対し、

次の哨戒でなんとか傷ついた評判を回復してやるぜ!

と心に誓った、その「次の哨戒」で遭遇したのが、「阿波丸」だったのです。

 

直前に、潜水部隊司令官ロックウッド中将は、「阿波丸」の安導権情報と航路、
緑十字を艦体に塗装していることなどを発信しましたが、
一度目の電文をラフりんも乗員も、つまり誰も目にしませんでした。

しかも、続いて2回目に届いた電文を見たラフりんは、なぜか

「生まれてから、こんなアホな電文は見たことがない!」

と言い放ちこれをガン無視。

書式が稚拙だったので意味がわからなかった、といいたかったようですが、
電文がアホでも内容がわからなければなんとかわかるようになんとかしろよ、と。

 

そして案の定、ラフりんは濃霧の中で発見された「阿波丸」を、駆逐艦だと思い込み、
いやっほーい!とばかり攻撃して、瞬時に沈めてしまった。というわけです。

「阿波丸」は濃霧の中すぐに沈んでしまったので、相手がどんな船だったか
確認する間もなかったのですが、沈没後海面を漂流しているところを救助した
たった一人の生存者「阿波丸」の調理師(他のものは救助を拒んで沈んでいった)
下田勘太郎の証言で、自分たちが撃沈したのが民間貨物船、しかも撃沈禁止が出ていた
「阿波丸」であることがわかったとき、ラフりんは

「そ、そんな馬鹿なッッッ・・・!」(脚色しています)

と叫んだと伝えられます。

これがもし本当だとしたら、民間船だと知っていながら攻撃したというわけではなく、
功を逸るあまり、焦って確認せずやっちまったということになります。

のちの裁判で明らかになったところによると、「クィーンフィッシュ」の攻撃は
小型艦船に対するものではなく、明らかに大型のものに対する方法であったことからも、
ラフリンが勘違いしていたことに間違いはない、ということになっています。

軍法会議で彼は有罪の宣告を受けました。

量刑についてはニミッツ長官が寛大にすることを求めたのですが、なぜか
アーネスト・キング海軍長官はニミッツが介入してきたことで
逆にペナルティを重くしました。

キングは日本嫌いで有名だったので(戦前横須賀で財布をスられたかららしい)
甘い判断を下しそうですが、実は部下のニミッツともなんかあったのかもしれません。

結果、ラフりんは戒告処分を受け、艦長職から外されました。

しかしその後、閑職を経て戦後にまた潜水艦に復帰し、第6潜水隊群司令として
ポラリスミサイル搭載潜水艦の指揮を執った実績に対して、レジオンオブメリット勲章を、
そしてワシントンD.C.海軍区の司令官として二度目の同勲章を受章しています。

 

退役後、ラフリンは妻とともに日本に旅行のために来日しています。
1979年ごろといいますから、高度成長期の真っ只中にある日本で
彼はその復興ぶりに目を見張りました。

そのとき受けた「阿波丸事件」に関するNHKの取材で、ラフりんたら、

もう一度やり直しができたとしても、
運命のあの4月1日と同じ状況、同じ事情ならば、
また、まったく同じように行動するであろう

と発言しています。

というか、これ不思議じゃないですか。

駆逐艦だと誤認していたことを知ったときは

「そんなバカな」

とか言っていたわけですし、その結果、裁判有罪で結構な目にあったわけだから

「今度同じことがあったら、攻撃する前に艦影を視認して駆逐艦であることを確かめます」

というのが筋ってもんですよね?

軍人が自分の戦闘行動に対しこのようにいうのを、わたしたちは
原爆投下を行なったパイロット始め、何人も知っているわけですが、
明らかなミスに対しても全く悔いることがない、と言い切ったのは、
もしかしたら本当は

それが実はミスではなかったからでは?

 

それを裏付ける(かもしれない)情報として、

「阿波丸」が陸軍の要請によって軍需物資を積んでいることをアメリカ軍は知っていた

そして、潜水艦隊司令ロックウッド少将は、このためニミッツ指令に

「阿波丸」の攻撃を許可する申請をしていた

という話があるのです。

ニミッツは意図的かどうか、それに返答をしなかったということですが、

ロックウッドはこれを暗黙の了解だと判断し、実は撃沈命令を密かに出していた

というのが考えられるもう一つのストーリーです。

もしこの仮説が正しければ、歴戦の艦長であるラフリンがろくに視認もせず攻撃させた理由にも、
(ちなみに大型艦船モードで攻撃を行なったのは勘違いだったとあとで言い訳するため)
納得がいくと思いませんか。

 

疑いだせば、ラフリン、戒告処分後は身を隠すようにロックウッドの配下に入り、
世間から身を隠して戦後になると復帰も出世もそれなりに順調です。

もしこれを陰謀説につなげるならば、
ロックウッドとラフリンの間で
話ができていた、
というのも一つの可能性だと思います。

 

日本政府は、撃沈直後から「阿波丸事件」に対し戦時国際法違反として抗議し、
アメリカ政府は案外あっさりこれを受け入れ、責任を認めた上で、戦後、日本政府が
アメリカに代わって個人保証を遺族と日本郵船に対して行うことになりました。


2000人以上の人命が失われた「阿波丸事件」の慰霊碑は増上寺にありますが、
ラフリン艦長が来日の時、この慰霊碑を訪れたと言う記録は見つかりませんでした。

なお、文中ときどきラフリンが「ラフりん」となっていますが、
これは決して打ち間違いではありませんので念のため。

 

続く。

 

 

 

 


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3 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
ワロタ (うろうろする人)
2021-04-11 13:04:32
ラフりん・・(^^)
返信する
こんな練度の船だから (Unknown)
2021-04-11 18:53:56
>「信じられんほど下手な魚雷発射w」とディスられ、本人は日誌に「ちくしょおー!」と書くほどこれを悔やみました。そして本人はもちろん、乗員一同もこの屈辱に甘んじ、次の哨戒でなんとか傷ついた評判を回復してやるぜ!

こんな練度の船だから、潜望鏡で目視確認せず、魚雷を発射したのでは。

>「阿波丸」が陸軍の要請によって軍需物資を積んでいることをアメリカ軍は知っていた。そして、潜水艦隊司令ロックウッド少将は、このためニミッツ指令に「阿波丸」の攻撃を許可する申請をしていたという話があるのです。ニミッツは意図的かどうか、それに返答をしなかったということですが、ロックウッドはこれを暗黙の了解だと判断し、実は撃沈命令を密かに出していた。

命令は文書に残すので、それが見つかったら、ロックウッド少将は責められます。陸軍から文書で沈めろと依頼でもない限り、わざわざ、そんな危ない橋は渡らないのでは。
返信する
阿波丸事件 (お節介船屋)
2021-04-13 11:59:47
結論からは事件の真相は不明です。
昭和16年12月18日アメリカ政府はアメリカ兵及び非戦闘員が捕虜となって場合、ジュネーブ協定とおりの扱いをするように申し入れてきました。
それに対して日本政府は17年2月非戦闘員のみ合意しましたがアメリカ兵についての扱いの明確な返答をしませんでした。
それでも早い時期から捕虜にたいする救援物資の送付を申し入れてきました。
戦闘状況から交渉や通信手段等も制約され、捕虜に対する考え等も違い進展しませんでした。

昭和18年に入り、国交のあったソ連の同意を得て日本とソ連の交渉が開始される前9月にはナホトカに救援物資2,025tが輸送されました。日本は自国の捕虜がいないとの立場でなかなか進展しませんでしたが昭和19年10月になってアメリカ抑留中の「日本民間人」への救援物資輸送と交換に捕虜に対する救援物資受け入れとなりました。10月28日客船「白山丸」4351tが日本側の救援物資を搭載しナホトカに向かいました。アメリカの救援物資2025tを搭載し、北朝鮮で抑留されている捕虜用150tを降ろし、11月11日神戸に帰着しました。日本国内用800tと中国向け275tを降ろしました。

阿波丸はその当時残っていた僅かの優秀貨客船であり、協定に基づくように高角砲や機銃を取り除き、明灰色に塗装、大きなミドリ十字を両舷や煙突、上甲板に描き、夜間用に煙突の緑十字は照明で照らしてありました。

協定では戦争遂行用物資搭載は禁止されていましたが往路では600tの弾薬、航空機部品等を救援物資800tとともに搭載していました。

昭和20年2月17日門司出港、台湾で22t、香港で41t、シンガポールで562t、インドネシアで175tの救援物資が降ろされ2月28日任務完了しました。概ね捕虜に渡っています。

おそらく完全に日本に帰れる最後の船となることから軍部は本土防衛に役立つ軍人を最優先にまた軍需物資を出来るだけ積むように命令し、軍人軍属820名、残留商船員480名、商社員公務員技術者600名計1900名乗船、錫インゴット、タングステン、アルミインゴット等5,000t、生ゴム2,000t以上、重油ガソリン2,500tを搭載、協定違反であり釈明は不可能でした。吃水が深く、米哨戒機も監視、撮影され、通信も傍受されており、大量の物資搭載はアメリカ側に知られていました。

エリス中尉の記述のとおりの米軍内のやり取りがありましたが、アメリカ政府は復路をOKしたのは捕虜等に報復を警戒したためとも言われています。

4月1日午後10時台湾海峡で浮上哨戒中のクイーンフィッシュはレーダーで大型船の輝点を認め、モヤで視界不良でしたが午後11時魚雷4発を発射、50秒後命中音を聞いてレーダーから輝点消滅を確認しています。10分後沈没地点に到着、無数の漂流物、多数の人員を確認していますが救助を拒否されたとの理由で1名のみ救助しました。
犠牲者2,048名。

軍法会議の結論は不可解な「有罪、ただし不注意」

1951年アメリカ政府から遭難者1人あたり6万円、日本郵船に賠償金1,780万円を支払うこととなりました。

1952年講和条約発効で日本政府からアメリカ政府に対するこの事件の一切の請求権が放棄されました。

アメリカ海軍内の暗黙の了解があったかは永遠の謎となりました・

1979年4月中国により阿波丸が福建省沖11浬水深60mで発見され、大量の錫インゴット等が発見され、中国政府の一連の調査後、遺骨158柱と多数の遺品が日本に返還されました。物資は?

1979年7月関係者約800名で事件後34年目にして初の法要が営まれました。

参照光人社大江建二著「輸送船入門」
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