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「日本への道」〜スミソニアン航空宇宙博物館「空母の戦争」最終回

2021-04-14 | 歴史

スミソニアン航空宇宙博物館の「空母の戦争」シリーズ、
ようやく最終回となります。
アメリカが日本本土に攻撃を行うに至ったことを、
このコーナーのタイトルでは

「日本への道」

としているわけですが、この侵攻においてもアメリカ軍の推進力となったのは
やはり空母であったことはまちがいありません。

というわけで、この地図は1945年の連合軍の作戦図となります。
南太平洋からカロリン諸島を飛び石のように進行してきて
アメリカと連合軍のステージはいよいよ日本本土に迫ってきました。

マッカーサーの南太平洋部隊はフィリピンに上陸し(左下)
マケインのタスクフォース38は台湾経由で南シナ海へ、
そしてミッチャーのタスクフォース58はサイパンを取った後、
硫黄島を経て沖縄、東京への爆撃、そして最終的に
赤い爆発マーク💥で表される広島と長崎への原爆投下となったわけです。

ここにはこのように記されています。

1944年の最後の数ヶ月間、高速空母がフィリピンの侵攻を支援し続けている間、
日本の神風特攻隊の攻撃が激化し、5隻の米軍空母が被害を受けました。

1945年に沖縄の侵攻が始まり、ハルゼー提督は第三艦隊を南シナ海にみちびき、
そこでインドシナの湾岸線を攻撃しました。

次第に米空母艦載機による東京への本土爆撃は当たり前になっていきましたが、
その反面台風神風特攻隊が米軍の艦船や人命を奪うことになります。

日本の聯合艦隊の「残骸」は呉港で攻撃を受け、全壊し、
偉大な戦艦「大和」も斃れました。

そして1945年8月6日、広島は原子爆弾投下により壊滅的な打撃を受けました。

英語媒体では特攻隊のことをすべてカミカゼと称しますが、
「特別攻撃隊」という言葉が翻訳されていないので、
特攻隊=カミカゼアタック、が正式な訳語となります。

実際にはカミカゼは正しくは「シンプウ」であり、さらに全体名称ではなく、
特別攻撃隊の部隊名のひとつにすぎない、ということを知っているアメリカ人は
ほとんどいないのではないかと思いますが、とりあえず説明を見てみましょう。

■ カミカゼ ”DIVINE WIND”

この頃になると日本軍は空中戦において優位で数が十分な時と違い、
アメリカ艦隊に対する従来の空襲は成功する可能性はほとんどないと結論づけました。

唯一の望みは、経験の浅いパイロットを敵艦の甲板に激突させることで
航空機に直接誘導ミサイルの役目を果たさせるということでした。

レイテ沖海戦から終戦までの間に、約2500機の日本軍航空機が
連合国の軍艦に対する「自殺任務」に派遣し、そのうち「ヒット」したのは
アメリカ側では474件と記録されています。

連合国艦隊に対するこの神風特攻隊の攻撃は、
太平洋における戦争の最終的な結果を変えることは決してありませんでしたが、
アメリカの艦船の全てのクラスで大きな損害と命の損失があり、
それが与えた影響は「異常」なものとなりました。

大西瀧治郎帝国海軍中将

第一航空艦隊長官であった大西提督は、神風特攻隊のコンセプトについての
創案とその展開に寄与した人物としてクレジットされています。

それまでそのような戦術が歴史上大規模に試みられたことはありませんでしたが、
そこには確かに戦略上の利点があることが大西提督によって明らかにされたのです。

自殺ダイブは航空機の経験の浅いパイロットにも実行が可能な上、
墜落を制止するのが実質非常に困難であり、それを阻止するには
到達前に航空機を破壊するしか方法はないという点で画期的でした。


いろんな特攻についての英語での記述を見てきましたが、
これほど特攻の効果について端的かつ率直に述べているのは初めて見た気がします。

感情的な判断はともかく、人道上の是非などを取っ払ってそのものをみた場合、
確かに特攻というのは戦略的利点が少なくない戦法であることは確かです。

だからこそ追い詰められた日本がその道を選択したということなのですが、
ここでは実際の作戦としての採用までの苦渋の経緯と、戦後大西が
特攻隊員の死の責任を取って自決したことなどは一切触れられていませんので、
まるで特攻が効率第一で選択されたかのような印象を受けます。

”DEATH FOR FAMILY AND COUNTRY”(祖国と愛するもののための死)

これらの若いパイロットたちの多くは、大学在学中あるいは卒業したばかりであり、
高貴ではあるが絶望的な目的のため自らの命を犠牲にして
「片道任務」(ワンウェイ・ミッション)を行おうとしています。

日本の軍事指導者たちは、彼らの感動的な犠牲が国民の士気を高め、
一方で敵に不安と恐怖を与えることを期待していました。

”Near Miss" ニアミス

陸軍兵士と海兵隊員が沖縄の洞窟と掩蔽壕を通り抜けながら戦っている間、
海上沖合の艦隊乗員たちは負けじと同じように激しい砲火を行い、
戦いに身を投じていました。

そして侵攻艦隊に対する激しい空中からの攻撃は1945年4月から毎日行われました。

戦艦「ミシシッピ」が迫りくる特攻機からかろうじて被害を逃れた瞬間です。

しかし「ミシシッピ」はこの後6月5日にやはり同じ方向からの攻撃により、
右舷の船殻に激突して上部「ブリスターコンパートメント」に中程度の損傷をうけた、
とあり、1月にも特攻機による中程度のダメージを記録しています。

カミカゼの痕”Aftermath of Kamikaze”

この惨憺たる光景は、1945年5月4日、琉球で特攻機が突入した後の
護衛空母「サンガモン」のハンガーデッキの様子です。

「サンガモン」(USS Sangamon, CVE-26)は、イリノイ州の
サンガモン郡のサンガモン川に因んだ名前で、もともとは
民間のオイル会社の所有だったのを海軍が買い取って給油艦にしていました。

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太平洋ではクェゼリンとエニウェトクの戦いに参加し、ニューギニアで展開。
サマール沖海戦で初めての特攻の洗礼を受けます。

そして5月4日、慶良間諸島で航行していた「サンガモン」は
特攻機部隊の攻撃を受け、これに対して陸上戦闘機が9機を撃墜しましたが、
残る1機は19時ごろに「サンガモン」の左舷艦尾部めがけて突入してきました。

これをかろうじてかわしたのち、一機(陸軍飛行第105戦隊三式戦「飛燕」
もしくは海軍第17大義隊の零戦)が雲の中から突入し、操舵室中央部に命中。

爆弾は艦内部で爆発し、わずか15分の間に、艦のあちこちから
制御不能なほどの火災を起こし、この結果、
死者11名、行方不明者25名、21名の重傷者を出しました。

必死の消火活動が終わったのは突入から約4時間後のことです。
生き残った乗員たちは互いの幸運と健闘を称えあって、
皆でアイスクリームを食べました。🍦

そして乗員の一人はアイスクリームを舐めながら(たぶん)

「わが艦の飛行甲板を突き抜けたあの男は俺より立派だ。
俺には、あんなことはやれなかっただろう」

と呟いたといわれています。

「サンガモン」は最終的には1960年8月に大阪で廃棄処分となりました。

■ 本土攻撃”Attack On The Japanese Homeland”

1945年7月1日、ハルゼー提督はマケイン提督のタスクフォース38と共に
レイテ湾を出発し、日本本土を1ヶ月にわたって襲撃しました。

その目的は、残存している日本の空軍力、海軍力、そして商船を破壊し、
通信と工場に壊滅的な打撃を与えることでした。

Japan Naval Base at Kure Harbor, Honshu in Ruins

帝国海軍聯合艦隊の残存している艦艇を殲滅するために
空母を使って空襲が行われました。

戦艦「榛名」は一番最初に攻撃によって着底したと報告されます。

1945年6月22日、「榛名」は6月22日B-29の直撃弾を受け、
江田島の小用海岸で防空砲台として係留されていましたが、
7月27、28日の呉軍港空襲により、マケイン中将率いる
第38任務部隊により20発以上の命中弾を受けて大破浸水、着底しました。

”Fightin Hannah" ファイティン・ハンナ

このコピーはUSS「ハンコック」のニュースレターで、メジャーな軍艦で
定期発行されていた典型的なタイプの刊行物です。

1944年4月15日に「ハンコック」が最初のオペレーションを開始してから
1945年8月15日、つまり戦争が終わった日まで刊行されました。

「ハンコック」の愛称は女性名の「Hannah」だったんですね。

写真の説明は、

「1945年1月12日に私たち自身の500ポンド爆弾が誤って爆発した後の
飛行甲板の様子です」

続いて

「1月23日1600、我々は悲しいことに、爆発と火事で命を落とした
7名の士官と43名の下士官兵を海に葬りました。
1月23日、ウルシーに入港後すぐに迅速な修理が始まりました」

右側は

「6回の攻撃が我々の甲板を通り過ぎ、それら全ては日本の空軍に
空中での大混乱を起こさせました。
17機のジーク、4機のヴァル、16機のオスカー、6機のトージョー、
2機のベティ、2機のディナ、5機のトニー、19機の正体不明の敵機が
全て空中で破壊されました」

などと書いてあります。

 

[昭和20年] No.TS-256

■ ”Hiroshima" 広島・日本

1945年8月6日、アメリカ陸軍航空隊の3機のB-29爆撃機が広島上空に接近しました。
午前8時15分、ポール・チベッツ少佐操縦の先導機である「エノラ・ゲイ」は
原子爆弾を投下し、およそ7〜8万人の人々が爆発と火事で即座に亡くなりました。

8月9日、テニアン島から飛来したB-29が、長崎に2発目の原子爆弾を投下、
これによって3万5千人の人々が殺害されることになります。

8月15日の朝、ニミッツ提督は降伏のメッセージを受け取りました。
戦争は終わったのです。

この「降伏」にはsurrenderではなくcapitilatedが使われています。

■ ”WAR OVER" 終戦

「戦争は終わった!」

と赤字で大きく書かれたニュースは、先ほどの「ハンコック」発行の
「ファイティング・ハンナ」特別版です。

日本が降伏し、戦争が終わると同時に、この艦内紙の役割も終わりました。
1945年8月15日が「ファイナル・エディション」(最終回)となっています。

そして「ミズーリ」艦上でニミッツ提督がサインしている写真が
このコーナーの最後にありました。

調印式についてはテーマの「空母の戦争」とは関係がないので省略しますが、
今回ハルゼーについて調べていて、このとき、重光葵元外相調印を行うのに
手間取っているのを(片足が義足なので当然ですが)
見苦しい引き延ばしと思い、

「サインしろ、この野郎!!サインしろ!」

と罵り、また、調印式の最中は

「日本全権の顔のど真ん中を泥靴でけとばしてやりたい衝動を、辛うじて抑えていた」

と言っていたというのを知り、すっかりこのおっさんが嫌いになりました。

さて、スミソニアンの「空母の戦争」の最後に、
「エセックス」に帰還したものの、敵の銃撃で死亡していた銃撃手を
愛機の「アベンジャー」ごと海に葬っている高画質映像をあげて終わりにします。

着艦後、航空機から遺体をおろさずに死亡確認をして指紋を取り、
皆で甲板から機体を海に落とす一連のシーンです。

LOYCE DEEN TRIBUTE—TBF Avenger Gunner, Killed In Action, Burial At Sea, USS Essex (CV-9)—NOV 5, 1944

 

スミソニアン博物館「空母の戦争」シリーズ終わり